宗教とは何か?
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十字架の聖ヨハネ 1542年〜1591年12月14日 49歳没
アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組む。
孤児院育ち。25歳で洗足カルメル会の司祭。
周囲から批判され35歳の時、トレドの修道院に幽閉される。
翌年脱出したが、病のためにウべダの修道院に送られて49歳没。
カトリック・聖公会の聖人。12月14日は聖ヨハネの日。 聖ヨハネは、「完徳の山」の図で「信仰」を
不完全な霊の道として否定している。それに聖書の言葉はあるが、
イエス・キリストの名は書かれていない。
聖ヨハネはスペイン人だから、異端尋問の厳しかったスペインで、
周囲からの批判は受けたが、よくぞ無事だったと感心する。
しかし、「完徳の山」の図を見れば、
王様の顔のようなものが一番上にあり、聖書の言葉も書かれていて、
言い逃れができるように工夫したのではなかろうか。
王様はイエスであり、イエスの言葉も書かれているではないかと。
信仰を否定しているのに、カトリック・聖公会の聖人になるとは!
聖ヨハネの作戦勝ちだね "(-""-)" 聖ヨハネは36歳ごろ、「暗夜」と「カルメル山登攀」を書いている。
前者の解説書が→後者「カルメル山登攀」である。
ここでは「暗夜」の詩を少し引用しよう。
1 暗き夜に、炎と燃える、愛の心のたえがたく、
ーおお恵まれし、その時よ 気づかるることもなく、出づ
ーすでに、わが家は、静まりたれば
2 闇にまぎれて 恐れなく それとは見えぬ姿にて、
ー隠れし梯子をのぼりゆき おお恵まれし その時よ
ー暗闇に身をば かくして すでにわが家は 静まりたれば
3 恵まれし その夜に 気づかるるなく しのびゆく
ー目にふるる ものとてもなく 導く光は ただひとつ
ー心に燃ゆる そが光 聖ヨハネは霊的な喜びを詠っている
1 おお恵まれし、その時よ・・・すでに、わが家は、静まりたれば
2 ・・・おお恵まれし、その時よ・・・すでにわが家は、静まれたれば
3 恵まれし その夜に・・・ 教皇ベネディクト十六世が聖ヨハネについて語っている。
信仰や三位一体やイエスキリストは余分だが。
https://www.cbcj.catholic.jp/2011/02/16/8127/ 455は失敗したので
「教皇ベネディクト 十字架のヨハネ」で検索してください。 信仰を否定する聖ヨハネが、
「十字架のヨハネ」という洗礼名を選んだのはなぜなのだろう。
幼児洗礼での洗礼名は「ヨハネ」だったようである。
しかし、修道院では「聖マチアスのヨハネ」に変わった。
このマチアスは、12弟子のユダの代わりに選ばれた人物である。
ユダは主としてエチオピアで宣教、64年ごろ十字架で殉教。
その後さらに聖ヨハネは、修道院上長の許可を得てから
「十字架のヨハネ」と改名した。この経過を見れば、
聖ヨハネは最初、信仰の道を熱心に歩んでいたことになるだろう。 >>460 の訂正
× ユダは主としてエチオピアで宣教 ・・・
〇 マチアスは主として ・・・
聖マチアスは、大工・仕立屋・アルコール依存症の後援者である。
孤児院育ち、修道院生活の聖ヨハネには強い違和感があったのだろう。
聖ヨハネは、親兄弟との縁が薄かったがゆえに、
神との出会いを切実な思いで求め続けていたのではなかろうか。
「十字架のヨハネ」という名前にはその思いがこめられている。
それはイエスに従おうという決意表明である。マタ11:38 十字架の聖ヨハネ 1542〜1591 49歳没
本名 ファン・デ・イエべス
洗礼名(幼児洗礼) ヨハネ 〜 ヤコブの兄弟のヨハネ
原罪ゆえに人が生まれるので守護聖人を決めて守ってもらう
修道院名 聖マチアスのヨハネ 〜 本人の希望
その変更 十字架のヨハネ
修道院名は本人の希望によって決まる。
ただし、いったん決めたら簡単には変更できないようである。 聖ヨハネが「不完全な霊の道」として「信仰」を否定した理由
これについては、アビラのテレサ(1515〜1582、67歳没)との
カルメラ会修道院改革が関係している。ヨハネとテレサの年齢差は27。
テレサは女子修道会の改革に成功したが、ヨハネの場合は難航し、
ついには修道院に9か月幽閉される事態になる。ヨハネは、
聖書に精通した修道士たちと議論し対立し、激しく争ったことであろう。
たぶんこの争いによって、ヨハネは「信仰」の限界を知ったのだ。
そして、信仰は不完全な霊の道だと ・・・ 悟った。 なぜ女性のテレサが改革に成功し、男性のヨハネは挫折するのか。
それはたぶん、キリスト教信仰における男と女の違いにある。
三位一体の教理から、男性のイエスが信仰対象にされているからだ。
女性の場合、イエスキリストへの信仰が恋愛感情と重なっている。
テレサの神秘的な恍惚感にはイエスとの合一が読み取れる。
テレサに憧れたマザーテレサにも同じような神秘体験がある。
他方、男性の場合は事情が異なっている。
イエスが男性であることが邪魔し、簡単には信仰に集中できない。
男性は基本、理論的にしかイエスを受け入れない。 十字架のヨハネは修道会改革を進める中で、
キリスト教「信仰」に絶望したのだ。
そして、自分に絶望すると同時に、神との出会いを果たし、
自分が「完徳の狭い道」を歩んで来たことを自覚する。
それが自覚できたからこそ、信仰という「不完全な霊の道」を
区別し、切り捨てることが可能になった。 ローマ教皇フランシスコが11月23日から26日の四日間来日。
世界平和の大きな翼 〜 カトリックを歓迎しよう。
人が神を探す時、まず神が人を探されており、
あなたがたが神を見出そうとする時、
神が最初に私たちを見出されます。by フランシスコ 教皇フランシスコ 〜 この名はアッシジのフランチェスコにちなむ
自伝より 〜 17歳(!)の時に体験した神との出会い
私に奇妙なことが起きた。何が起きたか解らなかったが、私を変えた。
不意打ちだったと言えよう。半世紀後の私はこう解釈する。
それは一つの驚き、(神との)出会いという驚きであった。私は自分が
求められていることを理解した。それは、一つの宗教的経験であり、
待っておられる方がいるという不思議な体験であった。
私にとってその瞬間から、神は人間に「初めに」語る存在である。
人が神を探す時、まず神が人を探されており、
あなたがたが神を見出そうとする時、神が最初に私たちを見出される。 469.おごるポッタンは久しからず。
大爆笑である。 何本もトラック録音して一人大爆笑するポッタン
きめぇなw キリスト教の場合、イエスが男であるがゆえに、
女性信者の思いはイエスに向かっていく。
あるいは赤子を抱くマリアである。
これに対して男性信者の思いはマリアに向かう。
つまりキリスト教は、女性優位の宗教なのだろう。
もともと、神を男とか女とかにすること自体に無理がある。
キリスト教の根本的な誤りは、人間イエスを神にしたことにある。
イエス自身は「自分は神だ」と言ったことがないのに ・・・ 神は男なのか女なのか。この問題を「四句分別」で整理すれば
@ 神は、男である → 十戒第二に違反
A 神は、女である → 同上
B 神は、男であり、かつ女である(半陰陽) → 同上
C 神は、男でもなく、女でもない → 十戒に合格
十戒第二・・・あなたはいかなる像も造ってはならない。(出エジ.20:4) イエスを神にしたのはどこのどいつだよ。パウロか。
カトリックの十戒は、第二戒の偶像崇拝禁止を削除している。
この戒を削除したら旧約聖書の世界が崩壊する。
ユダヤ教(モーセ教)の「かなめ」は偶像崇拝禁止だからである。
神は命であり、命は物質ではない。
だからこそ、偶像崇拝禁止なのである。
その結果として、神を探そう、命を探そうという話になる。
イエスや金の子牛を偶像崇拝したら、神や命を探さなくなる。 キリスト教の最大の誤りは「人間イエス」を神にしたことにある。
では、仏教はどうなのか。
阿弥陀とか大日如来とかを空想し、
空だとか無我だとか体験できもしない虚しい屁理屈をこねる。
こんな話を信仰すれば人生を浪費するばかりである。
キチガイとしか言いようがないキリスト教徒よりはましだろうが、
仏教徒の思い込みも相当ひどい。
かれらには身動きが取れそうにない窮屈な思い込みがある。
いまさら後に引けない事情もあるのかもれない。
ーー 洗脳度的には、キリスト教徒>仏教徒だろうか。 474.神は命、命は物質でない、か。
バカ丸出し、である。 要するに、仏教もキリスト教もダメなのだ。
信仰が邪魔をして、真理に到達することができない。
ではどうしたらよいのか。自分の信仰を捨てる必要がある。
信仰を捨て、自分の頭で考えなければならない。
その代わり、日常生活を重視し、
哲学や心理学や文学を参考にしながら、真理を探求すべきである。
私は宗教を笑っていたから、最初から信仰とは無縁だった。
たぶんそれが幸いし、30歳ごろ神と出会っている。 神(命)と出会うまで、宗教本を全く読まなかった。
熱中したのは、フロイトの著作、正反合の唯物弁証法である。
疲れたら、詩・小説・絵画・音楽などを楽しんでいた。
今思えば、宗教上の制約がなく、けっこう気ままだった。
アルバイト生活で貧しかったから、貧しさが生活を律していた。
つまり何も知らずに、カルメル山の小道を登っていた。 宗教本を読み始めたのは、神(命)に出会ってからである。
最初に読んだのは聖書(新約・旧約)だったが、
パウロ以下の手紙と黙示録は興味が全然わかずに読めず、
福音書→旧約→手紙・黙示録の順になった。
旧約は三か月かけて、最初から最後まで一気に読んだ。以上
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。 by 釈尊 藤村操 1887.7.20〜1903.5.22、15歳と10か月没
巌頭之感悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。 ヨーガはただ、道をしめして命ずるのみーー
古き衣を脱ぎすてて、眼下の海に身を投げよ
俗なるものの否定に聖なるものは顕現し、
聖なるものの力によって
俗なるものは聖化されるーー 藤村操の「厳頭之感」は、若干16歳の文章とはとても思えない。
ウィキで調べたら、北海道の名家の生まれであり、父は屯田銀行頭取、
弟は建築家で三菱地所社長、妹の夫は安部能成である。
操自身は幼いころから優秀で飛び級もし、単身で上京、
第一高等学校に入学している。操が上京してまもなく父がなくなり、
母と弟妹も上京して同居する。
学校では、英国帰りの「夏目漱石」が英語教師をしていた。
操は英語に興味が持てなかったのか、授業で英文の日本語訳を指示
された時、それができなかった。夏目は予習を言い渡したが、
それを無視したため怒られる。そんなことがあった二日後に操は
自殺してしまう。夏目も責任を感じ焦ったことだろう。 藤村操については残念でならない
@ 子供のうちから哲学的になるのはよくない。
ーー名家だったから家に相当な蔵書があり、たぶんそれをこっそり
ーー読んでいたのだろう。哲学的な話は子供には毒だ。
A 「不可解」は人生の終わりではない。
ーー不可解だから探求が始まる。それは探求の始まりである。
B この問題は、ある程度の人生経験が必要である。
ーー釈尊もイエスも孔子もマホメットも30歳を超えてからだ。
C 操という名前はどうだったのか。その意味は、
ーー自分の立てた目標や考えを固く守り通すこと
ーー貞操(もとは神々しい青の美しさをいう) ・・・ 女性の名前? 藤村操も秀才である。
だが万能ではない。
自分の得意分野だけをやれば良かった。
そうすれば天才となれる。
今では放送大学が良い。 神に出会うのは至難の業である。
なぜなら、神は、人間ごときに騙される御方ではないからだ。
ヨブ記のように、神は神を探す人間を試みる。
過酷な試練によって、その人間の心の底の底を確かめる。
神を相手にして勝てる人間はいない。絶望だけだ。
しかし、絶望して死んだら負けだ。
神は、まだ命が残っているではないかと迫っている。
その命をどうするのかと ・・・ 生か死か、それが問題だ。 人間は心と体でできている。
心は非物質であり、体は物質でできている。
ゆえに、心は物質的には解明できない。
しかし、心は非物質であるから、心を用いて、
非物質である神や自己に近づき、それらを体験し、
神や自己を知ることができる。
心が、神や自己との出会いを可能にする。 つぎの問題を考え抜けば答えが出てくる
@ 自分はなぜ生きているのか
A 愛とは何か
私は10歳頃に問題を設定し、「大人になったら」思う存分、
時間を費やそうと心に誓った。← これが賢い
そして30歳頃に神(命)に出会い、それから半年後には、
坐禅で想受滅をして自己(霊魂)に出会った。 宗教を笑っていたから、宗教書を1冊も読んでないのに、
神(命)に出会い、自己(霊魂)に出会ってしまった。
自分が何を体験したのかもわからない状態だったので、
あわてて聖書から読み始めた。私の場合は信仰ではなく、
体験した事実として神や霊魂を受け入れている。 ただし物事には順序がある。
まず最初に、考え抜くことによって神(命)との出会いをする。
その次に、坐禅によって自己(霊魂)との出会いをする。
いきなり坐禅を始めるのは順序を間違っている。
神(命)に出会えないだけでなく、自己(霊魂)にも出会えない。
たいがいの場合、時間のムダでしかない。
かりに想受滅ができたとしても、生きて帰れず
そのまま死んでしまうだろう。
【神(命) → 自己(霊魂) の順序】を厳守すること
これが安全であり、近道でもある。
神はいったい、どんな人間を天国に招待するのか?
神の視点で考えてみよう
金持ちが天の国に入るのは難しい by マタ19:16-26
一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、
どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 イエスは言われた。
「・・・ もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分
のように愛しなさい。」 そこで、この青年は言った。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
イエスは言われた。もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、
貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。
それから、わたしに従いなさい。」 青年はこの言葉を聞き、
悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。 by ルカ6:20,24 始めに言葉ありき。
言葉は真理であった。
真理は神であった。 イエスは言われた。
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、
また隣人を自分のように愛しなさい。
これらは十戒の第五から第十に該当するが、
自己愛から他者愛に突き抜ければ全部クリアできるではないか。
ということは、自己愛を卒業すれば
神(命)に出会えそうである。 宗教とは自分の保護者(天使、御使い)などと交わる機会かと。 500.宗教とは世界から、排除、疎外される、ことである。 ハゲ豚は女を盾に利用して使い捨てするのが楽しいんだろ?
利用できるモノは利用する
俺はお前よりかっこいいから女には不自由しない 俺に危害を与えるのはハゲ豚なら証拠をみせろ。
日本製○の本スレで「ハゲ豚キモイ能無しの役立たず」ってレスして
確認出来たら信じる アルベルト・アインシュタイン
人の価値とは、その人が得たものではなく、
その人が与えたもので測られる。 >C 神は、男でもなく、女でもない → 十戒に合格
グレイ 藤村操もそうなんだが、
苦痛だから、生きていることがつらいから自殺してしまう。
つまり、自殺は自己愛の一種ではないだろうか。
これが「自殺は罪だ」と言われる理由か。
他人のために自殺する人はいないなあ ・・・ ヨハネ福音書 15:13
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
これに気づくかどうかが分かれ道。
自己愛を否定し他者愛を選べば、神(命)に出会うことができる。
新約聖書はミソクソ混ぜこぜになっていて油断ならないが、
この箇所は信用してもいいだろう。 他人のために自殺する人がいない、ということは、
この地上には愛が存在しない、ということを意味しないか。
人間は砂漠のような場所に住んでいるのか。
自殺を考えるなら、その命を友のために使えばいいだろう。
そう気づくかどうかが運命の分かれ道になる。 夏目漱石は何を考えていたのだろうか?
47歳の時に、「私の個人主義」を学習院の学生に講演している。
ーー 青空文庫にあるのでお勧めしたい。
ーー それほど長くないし、おもしろくてわかりやすい。 >>490
それにはまず物質である体を捨てなさい。 漱石は49歳の時、「則天去私」を説いてから亡くなった。
則天去私とは、小さな私を去って自然の導きに従うことをいう。
彼の作品「それから」には、「賽を投げる以上は、天の法則
通りになるより外に仕方なかった」とある。
「私の個人主義」を講演したころに何があったのか?
43歳、胃潰瘍で吐血
45歳、胃潰瘍以外に痔、神経衰弱、糖尿病などを患う
49歳、胃潰瘍再発、内出血にて死没
ーー 生い立ちも病いも死も従容と受け入れる = 則天去私か ? 漱石の時代においては、死を覚悟するような病気だったかも。
結核もかっては死病であった。^^ 宗教というものは頭でわかるものではありません。
キリスト教の神は、聖書の最初の段階【創世記】の部分から間違いを起こしています。
「 神はこの世に全てのものを作られました」 というところです。
そのところ詳しく話しますと、
まず第一目に神は天と地を創造された。
二日目に、大空を作ってその大空の上下に満々とたたえる、 水で覆つています。
3日目に地上に繁茂するあらゆる草木を作られました。
そしてやっと太陽とか地球に輝く星々を作られたそうです。
五日目には鳥類、爬虫類、海に群がる魚類、などを作っています 。
最後は6日目に入って地上の動物と、人間を作られたいうことです 。
ここまでの話で、なんだかおかしいと思いませんか? 今から、2000年も昔でしたら、天文の知識もないし地球もごく平らなものだと思っていましたから、
神の言うことは何でも、真実だと信用していたでしょう。
しかし現代の、 文明が発達し 宇宙の始まりまで、解ってきては、聖書がただの神話、物語となってしまい、
そこには、真実を説いた神の姿など は、微塵も感じられません。 ずばり一生分稼ぐ株でね
でもまだ働いてるわ
株チューバーていいのいない
共栄タンカーあてるとは
毎日興奮してるからデパス必須
ベンチャーオーナーから教えて貰ったサイトほんまもんに使える。
https://twitter.com/kabuzyouhou
イチバン手っ取り早く稼げるのって結局投資でそれも株だと思い知らされた
株ならコノ人がいい、とりあえず感謝してる。自分的には神株さま
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ヨブ記の構成について ・・・ 試論
32章 〜 37章 エリフの言葉
38章 〜 41章 主なる神の言葉
@ これらはヨブの自問自答・独白であること
A ヨブが神と出会うのは、42章4節の一瞬
B 1〜2章、42章 結びは枠文学であることを示している 内村鑑三の「ヨブ記講演」を青空文庫で見つけ
少し読んでみたが、やたら長過ぎるし、
旧約なのにキリスト教視点で読み解いている。
キリスト教徒だから仕方ないのだろうが、
それはないだろうと思った。TT ユングは「ヨブへの手紙」を書いているが、
書評などを検索して読むと、ヨブは旧約の神より優秀であり、
それを知った神はキリストになって地上で修行する、
という話をそこで説いているらしい。あほくさ。
証拠も根拠もない、狂ったユングの妄想としか思えない。^^ ヨブはなぜ自殺しなかったのだろう?
自分は正しい、自分には罪がないと思っている人たちは、
簡単には自殺しないだろう。自殺する理由がないし、
罪を認めることになるからだ。
しかし、そういった自己愛自体が罪であるなら、ヨブは罪人である。
神やエリフとの自問自答によってそのことにようやく気づく。
その瞬間、ヨブは深く絶望し、自分の死を完全に受け入れたが、
これで終わりなら、ヨブは罪人として死ぬばかりである。
ここでヨブは、常に善行を心掛けていた日頃の習慣から自然に、
どうせ死ぬなら自分の命を善いことに使おうと考えた。
ーー すると、神の雫がヨブの心に落ちてきた ーー ヨブ記が難解なのは、
自己愛を捨てることが問われているからだろう。
あなたは他者のために自殺できるか。
これは実行しがたいからこそ、理解できないのだ。
他者愛に生き、自己愛が消えてしまえば、
ヨブの苦難も一瞬で消えてしまう。雲散霧消する。
神(命)との出会いがそれを可能にする。
神は存在する。そして偉大である。 @ 自分はなぜ生きているのか
なんとなく
A 愛とは何か
オキシトシン >神は存在する。そして偉大である。
根拠不明証明なし。 >>531
あれれ?????
ヨブ記を手掛かりに、神との出会い方を書いたのですが 聖書読んでも自分の知りたいこと書かれてない
やっぱり禅だな 自己愛 → 他者愛 ・・・ 神(命)との出会いが生じる。
この出会いによって神の至福を体験する。
すると不思議なことに、自然と坐禅がしたくなる。。。
すでに自己愛から離れることができるから、
数息感によって短期間で想受滅に入ることができる。
想受滅に入れば自動的に霊魂体験をする。
霊魂状態は痛いほど清浄だが、
神との出会いで味わった至福感とはまるっきり違う。
その違いに気づいて地上の身体に戻ることができる。
無事、坐禅終了。五感が驚くほど鋭敏 ・・・ 世界人口が70憶人として、
悟った人は世界で7人ぐらいだろうか。
それとも70人。いてもおかしくない数字だけどね。
それとも7百人。こんなにいるかなあ。
それとも7千人。これだけいれば世界が変わるだろう。
それとも7万人。こんなには絶対いない。 宗教が誕生した時代は王が強く好き勝手やってる時代
差別、奴隷は当たり前
そんな王に対抗するために生まれたのが神の名を使った宗教
最初に宗教を考えた人は純粋に理不尽に苦しむ人々を救いたかったのかもしれない
だが、いつしかその宗教さえも人間は権力や金儲けの道具に変え現在に至る
神がいるならそんな信者達に真っ先に罰を与えそうだが歴史上そういう事実は一度もない 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 敦盛(幸若舞)
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ 人間百二十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これで後半の寝たきりだと、口惜しかりき次第ぞ キリスト教徒の罪と罰は、
人間イエスを神にして偶像崇拝するところにある。
仏教徒の罪と罰は、
神を探すことなしにイキナリ坐禅を始めたり、
呪文を唱え始めたりするところにある。
求道者が最初にやるべきことは、
真実の「神」を探すことでなければならない。
真理に到る道はこれ以外にない。 凡夫問う。
煩悩は108つもあるが、
これを全部捨ててしまうにはどうしたらよいか。
無学道答える。
煩悩の根っこは自己愛だから、
自己愛を捨てよ。 煩悩は108つもあったのか? それは何と何と・・・何ですか?
6っ個あり。眼耳鼻舌身意
3っつあり。好き嫌い、平
2つあり。浄(きれい)、染(きたない)
3っつあり。前世、今世、来世
すなわち、6×3×2×3=108 回の除夜の鐘 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています