この流れから般若の教えになると

法は平等であるとなっている
この上ない正しい悟り
まあこじくんのゆー無上正等覚者は

いかなる差別もない!

それは、なぜかと言うと

自我がない
生きているものがない
個体がない
個人がない

この事によって平等であるという

これらは善の法によって
まあ、つまり、ブッダの教え

あらゆる仕方を捨てて、望むことなき聖者
煩悩、つまり、渇愛、妄執のないもの
どのような方法にもよらず、心にこだわりなきものの覚者の説明だろう

これによって、この、差別なき真の聖者となるのであるが

この善の法は、善の法ではない
それだからこそ、善の法と呼ばれると、ここでは、このように表現している

善の法なるものが、存在するならば、それは見解となるのであり、上述の、望むことなく行うものにならないからであろう

このように、表現していることが、洗練、工夫されて、わかりやすく伝わりやすく、しようという努力が感じられる