>>828
おっす、モナルキア異端の地獄少女たん
これ読んで出直しなさい

623 イエスは「十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)御父を愛し、御父に従い、苦しむしもべの頭罪の使命をまっとうし、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負われました。

624 イエスは、「神の恵みによって、すべての人のために」、「死」(ヘブライ2:9)を味わわれたのです。救いの計画において、神がはからわれたことは、
ただ御子が「わたしたちの罪のために死」(一コリント15:3)なれるだけではなく、「死を味わわれる」ことでした。
すなわち、御子は十字架上で息絶えた瞬間から復活されるまでの間に、死の状態、つまり、ご自分の霊魂と肉体との分離の状態を体験されました。
この、埋葬されたまま死者のもとに下っておられるという、亡くなられたキリストの存在のありようは神秘です。
それは、墓に納められたキリストが宇宙全体に平和をもたらす人類の救いを成就して神の大安息に入られたことを示す、聖土曜日の神秘です。

625 キリストが墓にとどまられたことは、生前の苦しむことのできる状態と復活したキリストの現実の栄光の状態とが結びついていることを表しています。
その「生きている」同じかたは、「わたしは一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて」(黙示録1:18)いるということがおできになるのです。
「神(御子)は、人間本性の定めに従い、死が霊魂と肉体とを分離することを妨げられませんでした。しかし、復活によって両者を新たに相互に結びつけられました。
こうして、ご自身が死と生の合流点となられ、死によって生じた人間本性の分解をご自分のうちでやめさせ、ご自身、分離したそれぞれの部分のための再結合の源となられました」。