トミーは博士ではなくて、大卒だが、神学に関しては神学校卒ですよ
神学校ってただの塾ですよ。
トミーの「日本に紹介すべき改革派伝道師百選」を教えてください。
たぶん時代遅れの人たちと原理主義者ばかりでしょ。
プリンストン神学は、ホッジを古プリストンとして斬って捨ててます。
19cの人カイパーは、リベラルな環境を吸って育ったのですが、後に
反動化して保守神学を建てた時代遅れです。見るべきものはないです。

@黄泉下り
知性派は、これを脱神話化するものです。私の小5の頃からそうです。
市川さんは知性派です
改革派が陰府下りを「過酷でシリアスな窮境」と解釈するのであれば、
非知性派ですね。

A改革派神学における霊的の意味が精神的という件
 そもそも罪と言う語はハマルティアであり、的外れという意味ですが
 神= 愛から外れているという意味です。
 改革派は愛がないので、神を実体化し神から離れることを強調するあまり
迷妄に陥っています。また
エフェソ2:1さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者
とありますが、罪はハマルティア 罪過はパラプトーマ
パラプトーマとは、道を踏みして落ちることです。愛から外れて苦の奈落に
沈むわけです。 
さて「受苦」が「神から離れること」であれば、やはり
 肉的にも霊的にもと改革派が云う時の意味は、精神的に苦しんだという
意味以上はありません。

B「十字架に架けられた罪そのもの」
問題になっているポイントは、イエスご自身が十字架の上で蛇と言う
罪そのものに実体変化されたのかどうかです。

あなたが市川先生にお尋ねされたのは、肉として十字架に架けられたのは
誰かと言う外的な事象にすぎません。
しかしBで問題となっている「罪そのもの」とはあなたも理解されているように
我々人類の罪です。外形的にはイエスが十字架に架けられているのに
市川のテキストでは「我々人類の罪そのもの」が十字架に架けられているとなっている
設問すべきは、外形ではなくて、霊的な事象なのです。

しかしあなたはまだ幼稚な霊性しかないので市川さんは外形をお答えなさったのです