>>315
> 生死を自在に支配したというべきです。

仮にキリストも伝統どおり万能の神性を持っているとすれば
たしかに生死も自在に支配できるね
神の万能性による説明はどうしてもアドホックな印象を拭えないけど

> 創世記のその箇所はヤーウェーが最高神と呼ばせただけでしょ。何が問題なの?

そうすると信仰の父であるアブラハムはヤハウェに騙されていたことになり
ヘブライ語聖書の信仰体系が瓦解するように思えるよ
福音書に従えば、イエスもアブラハムやモーセに言及しているから
どう考えてもヘブライ語聖書の信仰の上にイエスの神学がある
福音書のイエスの言葉を尊重するなら、やはり創世記14:22のアブラハムの言葉は真でなければ
ならないように思えるよ

> ナザレのイエスの肉体だけ生贄にされたのです。何が問題なの?
> キリストは生贄になりませんよ。神が何で生贄になるの。

ちょっと言ってることがよく分からないけどイエス=人性、キリスト=神性って理解なのかな?
この表現の正否は置いておいて
これは前にも言ったけど、俺の印象ではここがキリスト論の弱点で
単純に十字架において人性だけを切り離してしまうのは
まるで多段式ロケットの燃料タンク切り離しみたいで、滑稽な印象すら受ける
そんな合体ロボのような「不自然さ」もあってか
カルケドン信条でも「分割されることなく、引き離されることなく」と、ペルソナの人格的統一性という側面を
ちゃんと書き加えているね
神性は定義上苦しみも死にもしないけど、それでもキリストは人格的統一体として十字架において受苦した、と
捉えなければ、十字架のリアリティが空虚なものになってしまうように俺には感じられる
矛盾してるんだけどねw

> 神は怒っている

ヤハウェなら分かるけど、El Elyonも怒るの?

> キリストが私たちの罪を背負うのであれば、罪の告白も、悔い改めも、必要なくなりますね。

一応伝統的な神学ではあくまでも原罪を贖ったことになってるから
罪の必然的な軛から我々を自由にしてくれたけど、それでも自由意志を持つ人間は罪を犯す自由も持っていて
自由意志において罪を犯すならば(カトリックで言うactual sin)、告白も悔い改めも必要なんじゃないか?