【イエス】 これはわたしの愛する子 Part52 【キリスト】
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愛のシリーズ 第52弾
✝
そのとき、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた
(マタイによる福音書 3:17)
ここは霊的な利益を受けようとする心の柔軟な人々の為に
開かれているシャロンのスレッドです。世の利益や楽しみ、或いは
病気治しを求め、煽り、荒らし、反対する為だけの意見を書き込む人は
書き込みをお控え下
前スレ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1539346695/ >>760
それは気の毒なことをしたね。
美魔女はエイシストさんと… 略 >>761
料理もいいけど、体動かす習慣つけなよ
散歩とかランニングとかいいすよ
秋は紅葉が特に散歩が楽しいシーズンでつ >>764
ガリガリになってもうたw
鍛えなおさねば。 >>767
体幹がしっかりし始めたら精神も安定すると思われまつ
ふわふわしてたりシンジくんな時は自分の重心が地球の中心の深いところにあるイメージするとしゃんとするお
イチローとかその点、凄いお >>768
旧ナルミ(愛の天使)さんを推薦します。
還暦の婆さんですが男性を知りません。
おカネ(相続財産)を持っているようです。 あとは、部下の子が筋トレやり始めてムキムキになってきたんだけど、自信がつくとか言ってたな
分かる気がする
あとは、めちゃキラキラキャリアのエリート知人は最終的には生物的な強さだ、とかいっとったな
ビジネスの世界でも水面下の斬り合いがあって、たしかになんだかんだでモノを言うのは生物的な強さはある
現代は経済が支配する世だから生物的な強さはフォーカスが当たりづらいけど、やりあうときは潜在意識下で影響力は全然強い まあ複数の精神構成を比較することでやっと気づける違いみたいなものがある。その違いを話すだけ。
そんな自分について、誰かがここは間違いとかここは正しいとか深くまで入って来る為の方法論みたいなものは考えてない。
同じものを身につければある程度言ってることはわかるし、同じものを身につけている人がいればどのような表現の仕方が正しいかについても話し合える。
対話が不可能だから、自分も本位ではないが永遠と世界と対話してコーピングし続けているだけとなっている。
俺に対してケンカごしでわからせようという気持ちになるのはわかるが、そもそも間違いか正しいかの確認がすべて自分一人で行われるしかないのが現状。
だから全て間違って理解している。
まあ常に合理的な方法論に本図いて、基礎から自分のやっていることを説明できるようにはなりたい。日本語問題は消えないだろうが。 胆力は何やるにしても必要で、メンタル面でのアプローチは禅とかマインドフルネスとか修羅場を潜り抜けた経験がものを言う
でも肉体からのアプローチもあって、丹田あたりに重心を持ってたり体幹がしっかりしてたりも胆力に大きな影響がある
それらは別々のものではなく、相互作用ももちろんある
肉体からのアプローチは下半身強化すね
あとは武術とかスポーツも効果あるだろう
または長友の体幹トレーニングとかw お久しぶりです
こんばんは
>>771
肉体と精神はなんだかんだで繋がっている、と感じますね
体験として分かるような気がします >>776
暗い気持ちの時に無理やりにでも笑顔でいると明るい気持ちになる、とかよく言いますもんね
宗教的には霊→魂→身体というのが基本的な説明ですが、その逆もあり得ますね
ただ、その時は霊→身体→魂、といった感じで順番が変わってしまいますが そろそろ5ちゃんやめよ。
自分はもうダークサイドだとわかりますた。 5chやめて筋トレしてムキムキな太公望(封神演義)になりなされw
https://goo.gl/images/TLBXTh >>778
>>737
>人は認識→思考→行動傾向によって新たな認識と思考、行動傾向に移る。
これは意外と逆転する時があるのかもしれません
曰く、目的がなくなった時です
ぼくは3年ほど日本から出て放蕩の旅にでた事があります
その時はまったく目的というものがない人生の唯一の瞬間でした
外に出る、といっても、言葉の通り外に出てみるのはいいかもしれませんよ >>777
言葉にするととても言われた通りな気がします
宗教的、または精神的には認識が必要な気がます
でもさまよっている時は、いわゆる順序が逆転していて、本来はそうあるべきではなくても気持ちは快く思ってたり感じます
まったく人間とは不思議です >>784
自分の殻に閉じこもると得てしか変化がなくなります
気持ちのいい安全なところで停滞し続ける
でも殻の外に出ると危険はあるけど想定しない出会いがあり変化が起きます
後者は風が吹き、その風を受けて気持ちのいい気分になる
前者は風が起こらず、ジメジメして気持ちが悪くなる
変わるってことは、それだけで喜びなのだと思います
自分の外に自分を探しに行く、みたいな感覚は個人的に好きです >>783
バッパーは楽しいですよ
おススメです、でも極貧状態が多いですが
目的があるとその人の目が探り求めるものだけを見る、となってしまいます
そのことしか認識できなくなるのでは、と行き着きます
これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことです
自由な心を持つため、といっても言うは易しするは難しなので、思い切って片道キップで日本を出ちゃうのもいいかもしれませんよw >>786
そうですね
不愉快な風、みたいなものなのかもしれませんね
自分というのは外にあるんじゃないかと思い旅に出て、カリブ海まで探したけどまさに青い鳥でしたが、とても快い時間も人生にはあるようです
結局は実家のベットが一番でしたw >>790
僕は留学してる時に実家に帰って、その後にアメリカに戻る時に、眠って起きたら経由の空港で、到着したかと思って起きたら見たこともない風景で、
「ここはどこだろう…まぁどこでもいいか、どうせ俺(自我)がいるのは変わらないのだからどこでも一緒だ」みたいな感覚になって、手の平の皺に宇宙を見る日本人の感覚に共感しましたw
でも、欧米は外の世界で出て行こうとして宇宙開拓まで行っちゃいますけど、それはそれで大事なことだと思ってます
神は遍在するので、自分の外に出る事は未知の神的存在、ないしは自分の中の深いところとの出会いや対話みたいなものだ、みたいな感覚があります
僕の場合は身近な風景の四季の変化が一番でした >>796
おはよう😆✋✨☀
サティは生理的に無理だわ
鳥肌が立つわ😃 >>795
同じような境遇を持たれた人がいると嬉しく思います
曰く、手っ取り早い共感てやつなのかもしれませんが
たまに思うのですが、その自分の中にある深い所とは良心と言い換えてもいいのかも、何て思います
そうならば、キリスト教でいう神殿とは良心という事なのかな、何て思います
間違えていて錯覚にすぎないのかもしれないですけど >>798
僕もそう思ってます
私の中のキリストは良心の中にいるものなので
僕の世界との対話の方法論の中で一番登場機会が多いのは痛みです
世界に接すると角があればぶつかる、ぶつかれば痛い、でもその痛みは角を指し示してくれる
痛みを観察してそれが指し示すものが何なのか内省すると良心が課題の角が何なのか教えてくれる
そうやって対話するのが人生が無駄にならなくてよいと思ってます >>799
私は私の世界である
私の主体は世界に属さない、ですね
内証して反省的であると苦痛が伴うようですね
だってその苦痛を自己に向けようとする意思が反省だから、と言えますね
苦痛があってもキリストに向かうならば、意識的である事を意識するのは適った方法論なのかもしれません
、というのが分かった気がします 生まれてから、思想や知識を自分に付け加えただけ不完全である。 >>802
肉体は魂の牢獄ということですか
それとも実在は本質より先ということですか
どちらにしろ、キリスト教的にはどちらがいいんでしょうね
と、最近疑問に思っています >>705
サティは単なる あほ
生涯 治らないあほ >>800
神が創造できないのは原理的には「この私」だと永井均さんに倣って採用してます
宗教的には神の火花が霊ですが、神が神を創造したわけではないですからねw
苦痛に関しては内省して反省するから苦であるわけではないと思ってます
不完全な世で不完全な存在として苦は避けられないものです
だから、苦は意識しようがしまいが、自動的に生じる一番発生頻度が多いものです
だから苦から内省を促す回路が作れたら、内省の機会が最大化されることになります
そしてその内省の機会の中で、文化人類学的な態度でそれを観察すると、良心が自動的に働く、そして足りないものを自動的に指し示す
僕の仕事は意識的であることを意識することで、それに気付く状態を作りさえすればいい
特に意識してやってきたわけではないですが、自然とやってて、「後からそれに意識的になった」感じです >>804
わたしは肉体というとんでもないものを自分だと思ってしまった。
これが、全ての不幸の始まりです。 肉体は自分とは関係ないすよ
明日目覚めた時に毒虫になっていたとしても、依然、自分は自分だ、と思うわけで ただ、形相と質量は不可分に結びついている、というアリストテレスの発言は正しいと思う
>>809
私は私は在る
さらにストイックに言うと「在る」のみ >>811
神、光、その類のもの
植物が光に向かって伸びるのと同じ
一を求める、換言すると愛 >>814
いったん空っぽにならないと愛はないようです。 >>806
反省を意思を持って自己に向けるのではなくて、内省を意識的ににして、それすらも自動的に必然的に良心という最終地にたどり着く精神的回路をつくっちゃえばいい、という事ですね
これは役に立ちそうな理論的内省ですね
>>809
自分とは自己です
自己とは自己に関する関係、その関係です
なんて言っていくと、言ってる自分が分からなくなるのでw、単純に意識にある生への意志、ですね >>815
●●でないと愛はない、ではなく、在るものは全て愛である、ってことです >>812
愛とは、与えるものであって、求めるもではない。「与えることの喜び」が、愛。 >>816
内省だけ大事だと思ってますけどね
内省したら良心は自動的に働くもんだと思ってます
キリスト教的な表現だと悔い改めすねw 人は進歩するのは得意なんですが、退歩するのは苦手なようです。 >>820
だってこの世界は神の創造だから退歩はないすよ
どんなに形を変えて一見、悪化するように見えても、永遠の時間の視点から見ると歩みは進んでるものだと思われます >>851
それは意外に的を射てるかもしれないですよ
キリストは、自分を愛するように他人を愛せよ、と言いました
そこには個我のない自己みたいな個性が必要なのかもしれません >>821
物理的は時間は退歩しませんが、精神的な時間は退歩出来ます。 >>822
あー、その意味ではたしかにそうですね
>>823
主観時間に過去も未来もないすよ
今しかないす
今によって、過去と未来が作られます >>825
そう、今によって過去と未来は作られます。
これは、今によって過去も未来も消滅させれる事を意味します。 >>826
うーんと、今によって過去も未来も消滅するわけではなく、そもそも過去も未来もなくて、「この私の今の世界」があるだけすね
ようするに(語弊がある表現だけど)「この私の今の世界」にとっての過去と未来がつど生成される感じかな >>827
この、今しかない、過去も未来もないというのは、あらゆるものからの救いを意味します。
過去のトラウマ、未来への不安がない。 >>826
彼はもっと突き詰めた今を言っているのではないでしょうか
その瞬間しかない、と言えるでしょうけど、徹底的な現象論とは異なるのでしょうけど ちなみに>>827の考え方はマクタガートのA系列を独今論の文脈で捉えた時に、そう考えるようになった
マクタガートのA系列の誤謬はそれを独今論、ようするに今と在るが分けることのできない一つのもので在る捉える視点がなく、主観の外にある持続した運動と捉えているところに誤謬があった
だから彼の時間論はA系列により、時間は実在しない、という結論になった
個人的には実在とは主観時間(A系列)である、と言いたい こう言えます。即今である時、
未来はない・・・死を意味します。
過去がない・・・誕生を意味します。
わたしは生死を繰り返してるんです。 >>832
あなたの言う未来/過去は客観時間(時計)を指すんですよ
主観時間に過去も未来もありまへん
でも主観時間の今により、過去と未来は「生成される」
これが自由意志の根拠です 「(必要とする者だけに)与える愛」が、人間社会の構成・維持要素です。皆が愛を「求め
合ったら」、社会は崩壊します。愛を必要としない者に対する愛は「余計なお世話」です。 時間は実在しない、ではなく
実在とは(主観時間で言うところの)時間である、と言いたい 眼が視野に属さないように、主体は世界に属さない。
これは今までスルーしいたけど、とても大事な言葉で真理に近い事を言っていたのかもしれません >>833
何で、哲学とキリスト教の自由意志が混ざってるねんオカルト。💇
意志というものは心のうちにあるものを
取り出す道具のようなもの🎵
ですから罪に死んだ心から自由意志が
取り出せるものは罪に満ちた思いだけ。💇
罪に死んだ心には信仰を選ぶ清さはありません‼
当然自由意志で神様を信じることを選ぶことは
できません😃 僕たちの言う世界は物理現象を指しますからね
魂と霊は世界に属してますけど、物理現象という意味では属してないとも言い得ます >>834
求める必要はないのではないでしょうか
愛で繋がること、がイエスの言葉の意味だったのではないでしょうか むしろ、主体は世界の生成を生む穴みたいなものだと思ってます
私の世界は代替できないかけがえのない唯一無二の世界です >>837
神様が信仰を与えた結果、心の中身が変えられ
新しくされ中身を自由意志が取り出す🎵 とにかく、わたしはとんでもなく不思議な所に訳も分からずに居る。
まさに、ミステリーワールドに迷い込んだ。 >>841
ですから
信仰を神様から先に与えられて変えられない限り
神様
選ぶことはできません‼
サティはキリスト教とすべて反対をしてる
脳足りん‼ そりゃあそくですよ
質問者さんが仰っているように、眼は視野に属さない 人間の認識は、生命の機能。過去・未来の認識も、「今ここの生命」の機能であると
いうこと。 俺はカムイさんという蚊取り線香を得た…!!✨
いいぞ、もっとやれw >>849
この流れで求愛に向かいますかw
それこそ今という瞬間を感情で味わっているはずです てことで、わたしはアタマを使わない訓練をしてます。これが結構難しい。 >>844
神は、天地万物に「既に」宿る。信仰は、関係ない。 事象に語らせればカムイさんのいう意味でのアタマは働かなくなりますよ >>852
感情が先で、後でわたしの感情と思考が認識させる。
これがまずいんです。
愛おしい、悲しい、憎たらしい、寒い、暑い、これだけなら苦はありません。
わたしが憎たらしいとなるから苦痛なんです。 >>851
邪魔でも何でも、認識がなければ、そもそも生存できない。 >>856
ぼくは感情の人も智の人も、人間としての優位性はないと思っています
むしろその方が愛(隣人愛)は捉えやすいのかもしれません
愛がもし感情であるとするならば、感情とは無意識からのアクションなので疲れる、とは思いますけどね
ぼくは智から解きたいと思う、言い方が許されるならば神秘主義的な傾向があるため逆です
でもどちらがキリストに適っているのかいないのかは分かりません とにかく、わたしとの分離が苦なんです。
これが自我です。
わたしの外に世界があるように感じるのは自我がそう感じさせてる。
わたしの煩悩。
わたしと煩悩との分離が苦です。
わたしは煩悩である時わたしは居ないんです。 >>860
私の奥にある、「在る」に気付いたら、分別がクリアになると思いますよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています