独学で仏教やっちゃ駄目?
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お寺に行けと言われても面倒臭いし
学校で勉強する気にもなれない
ネットや本で情報収集して実践するだけのやつって馬鹿にされる? 法灯明 自灯明
信じるものは救われるなんて言って入信を勧める所へ行くよりは
100万倍いいよ お寺に行かなくていいし
学校で勉強しなくていいし
ネットや本で情報収拾しなくていい
何もせずに何も考えずにぼーっとしてればいい 二人ともありがとうね
瞑想みたいなことしてろってことだね? 極楽浄土へ行ける人数は決まっています他人を死に追いやり功徳を積む事こそ正しい貴方も我々と共に行こう 仏、法、僧(サンガ)に帰依すれば仏教徒だが
日本には釈尊が正式に定めたサンガの要件を満たしてる宗派は存在しない。彼等ですら仏教の僧侶を名乗れるのだから日本なら独学でも十分仏教徒を名乗れる。 むしろ独学だと思うよ?
信心から始り、自分の頭に学や法を宿すという考え方
まずは御受戒の前に信心があるかないかだから 僕もまだ仏教を勉強しはじめたばかりのビギナーなので偉そうな事は言えませんが
「内山 興正 座禅の意味と実際」と言う本はビギナーにも分かりやすくておすすめです。
仏教は多種多様なものなのであくまでその内の一つです、これが全てだと思わないでください。
序盤の文章を要約するとこんな感じです。
我々は普段、「外的に規定された自分」というものを「自分」と思っている。
妻に対する時の「夫」という規定
会社に行き上役に対する時の「下役」という規定
能力ある同僚に対する時の「無能だ」という規定
金持ちに対する時に「貧乏」という規定
社会に対する時の「無力」という規定
こういった規定においてばかり、自分を見出していたら
ノイローゼにならないのが不思議だと言わなければならない。
座禅するとは「他との関係から規定された自分」を「自分」と思うのではなしに、
かえってまさしく「自己の生命の実物」を生きること。 >>9の続き
「生命の実物」とは「ただかくの如く生きている」そのこと。座禅は「生命の実物」を行ずること。
それでは、はたして「ただかくの如く生きている実物」以外ということがあるのか?
われわれ生きているのは、たとえどんな生き方であっても、生命の実物なのであって、
生命の実物以外のところで生きているなどということは、ありうるはずがありません。
しかし、それにもかかわらず、生命の実物そのものを”見失ったところ”で生きていることは
ありうるのであり、そうなればこそ人生を悩んだり苦しんだりすることも出てきます。 >>10の続き
例えば>>1「ネットや本で情報収集して実践するだけのやつって馬鹿にされる?」という思いは
まさに「他との関係における自分」というのを見出す態度であって、
「生命の実物を見失ったところで生きている」のかもしれませんね。
結論は「独学で勉強して馬鹿にされることはあるかもしれないが、それが気にならなくなるかもしれない」です。
※そもそも独学で勉強している人を馬鹿にする人がいるのかどうか僕には分かりません。 まず、原始仏教のスッタニパータ(経集またはブッダのことば)、ダンマパダ(法句経またはブッダ真理のことば)から始め、
それから四阿含経(長阿含経、中阿含経、雑阿含経、増一阿含経)、そしてアビダルマ論書と進みます。
次に、大乗仏教はまず初期大乗仏典の般若経(八千頌般若経から拡大し、金剛般若経、般若心経へと縮小)から始め、
それから法華経、華厳経(特に如来起性品、十地品、入法界品)、浄土三部経(阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経)、そして竜樹の中観、世親の唯識の二大思想の論書へと進みます。
そして、それまでの大乗仏教の集大成となる中期大乗仏典の涅槃経から、
密教の両部の大経、大日経(特に住心品)と金剛頂経(特に初会金剛頂経と理趣経)へと進みます。
最後に、日本仏教の各宗派祖師の著作を読めば、原始仏教から現在の日本仏教に至る大まかな流れが理解できるのではないかと思います。 >>1
駄目
============糞スレ終了============ 神を引き合いに出して教祖が災害の予言はしない
世の中や世界を動かす特別な使命を持った信者の祈りと献金次第でその未曾有の大災害は回避されるのだ
という口実で毎月多額のカネ集めもしない
信者が何十時間も何日も何日も必死に祈ってなおかつ多額の献金をしないと
日本に原爆が投下されるだの
北朝鮮が攻めてくるだの
未曾有の地震や災害が日本が襲うだの
洗脳された信者を脅して献金させるような事はしない
だから、反社会性を帯びたインチキ〇〇〇宗教と言われて司法のご厄介になったり世間に断罪されるような事はない
裁判沙汰も分派騒動も教祖や幹部職員の性的スキャンダルも設立当初から現在に至るまで皆無
災害が起きなければ教祖と信者の祈りのおかげ
災害が起きても
「必死の祈りと神(教団や教祖)に捧げられた献金で本来起きるはずの災害よりはだいぶ縮小された」
などと言ってやっぱり教祖と信者のおかげ
あるいは
「信者の祈り(と献金額)が全く足りていないせい」
と教祖が信者を叱りつけ次のイベントで更にカネを吐き出させる口実にすることは一切やっていない
そんな模範的で清々しい宗教団体があるならば是非紹介してください! >>1
人から教わるのはどうしても十分にはならない
学校でレベルが低い人にとっては十分には押してくれないことで悩みわからなすぎて寝ていられる
レベルが高い人にとっては授業速度が一定で遅すぎて退屈なので授業中に寝ていられる
いちばんでかい要素と言えば、教えるほうが教わるほうのレベルに合わせることがほとんどできていないこと
現在のレベルは悪だけで苦労しているのに、成長速度に合わせて教えるとなるとほぼ不可能だ
それは、本当にはレベルの高い人が教えてくれていない、そういうレベルの高い人が少ない
結果、自分でやるしかない
これは学校教育の意識でほとんどすべての人間が他人に物を教えているからでもある
日本の学校教育は教育としては世界最悪であり(最低ではない)、身につかない方法で教えている
で、ほとんどの日本人がそういうものだとおもって卒業している。
卒業後は独学で、実は学校教育でやったようにやらないほうが勉強が身につくことがわかってくる。
まあ独学のほうが良いとかいうよりは、これまでの教育がほとんど無意味だったということ。
かなりレベルの高いところまで成績が上がった人がまれに学校で知ったことが役に立つのであって
それ以下の成績の人は全員が無駄に終わる
その証拠に、非常にレベルが高い人でも、学校で知ったことは全く役に立っていないと感じている
それだけ、日本の学校教育は無意味だ。知識は体系などない状態でつくうえに、使えない。
卒業後初めて、仏教だろうと何だろうと、独学するしかないとわかる。 だから、勉強について、学生にも言えることがある
学校でやってないことも一人でどんどん先に進んでやっていい
自分なりのやり方を見つけ、覚えられるようになれば
非常にレベルが高い学生と同じ状態になれる
東大に入った人は確実に、自分なりの方法を苦労して見つけており
テレビで紹介されると、全員が自分なりの覚えやすいやり方を考えてやっていたと答える
レベルの高い勉強とは、できるだけ全部覚えていられる勉強である。
それはどうやったら実現するかといえば、自分なりにやりやすい学習方法を見つけること。
それが見つかればけっこう覚えていく。
後最後に、これだけは誤解があるので言っておく。
学習となれば「覚える」と考えるが、大きな間違いである。
学校教育は「覚える」ことだけを強調するが、これは教師が面倒くさがっているだけである。
それに合わせて日本国中のすべてのマスディアが学校教育のやり方で学習を語るはずだ。
私が独学で気づいたのは、勉強とは「理解する」につきる。
初めて見た場合、現在の話でどこがどうなって何を言っているか、できるだけ細かく推測しながら知るようにする。
覚えようとしながら、どこがどうなって今の話をしているか、事細かく推測するようにする。
覚えようとするのを忘れても構わない。理解した分だけ覚えているもんだ。
だから勉強とは「理解する」と考えること。
「覚える」とは勉強の一部に過ぎない。
「覚える」だけで学校教育をやっているのだから、無意味に決まっているではないか。
私たちは学校によって、知識をインプットしただけの血の袋にすぎないように洗脳されたのだ。
これからは「勉強といえば理解する、推測する」と思うようにしよう。
極端な言い方になるが、「勉強=理解する、推測する」で決めつけてしまっていいくらいだ。
たいていのことは、理解しようとするだけで、活用状況はかなりマシになるはずである。
その結果として覚えている必要があるわけで、知識詰込みで覚えているだけが勉強ではないのだ。
そういうことで、おわり 独学でやっても少しでも修行してる人と会ったら
鼻っ柱折られるだけ
一人で悟れるのは釈尊みたいな元々魂の位が高い人だけ
一人で悟れるなら哲学者は悟ってるわな 中村元の原始仏典翻訳使って独学やったけど、日本の糞坊主程度には「鼻っ柱折られる」のはまずないな
そもそも葬式仏教自体が仏教からかけ離れた別物だから、釈迦の言葉を引いて矛盾を指摘するだけでもう逃げるしかない
こないだやりあった禅宗の奴は多少マシだったが、錯覚たる自己の優劣にこだわる論戦はナンセンスという理屈を結局崩せなかったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています