キリスト教の教義に納得出来ません!!!!
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聖書も矛盾だらけだし、牧師の言ってることも教会でバラバラ。 新井白石の話も出てるが
他にもルイス・フロイスが日本の農民に宣教した時の事を書いた手紙に
日本の農民は頭が良く自然科学方面の話には興味を示し理解が早いけど
キリスト教の宗教的な理念の話になると合理的でないと聞く耳を持たず
日本に派遣する宣教師はこのことを理解して、天文や自然科学の知識があって
かつ論理的な人物でないと難しいとある
日本人はもともと
全知全能のはずの神なのに、信じる者は救われる=信じない者は救わないと言う考え方に懐疑的だったってこと モーセやヨシュアと、麻原彰晃には共通点があります。
どちらも
(1)圧倒的影響力のある指導者が、
(2)宗教的理由付けによって殺人を正当化し、
(3)それを命令し、
(4)信奉者たちが、その命令にしたがって殺人を実践した。
(5)殺人命令を受けた信者たちは、もしその命令を
実行しなかったら、彼ら自身がひどい目に遭うであろう、と
脅されました。
自分の意志と神の意志とが食い違うとき、自分はどうするか。
アクセサリーとしてではなく、神のご意志を実行しようとする真剣な信者なら、
直面しなければならないでしょう。特に、聖書を神の言葉として、
絶対の真理であると信じる信者は、モーセの殺人命令について、
真剣に取り組まねばならないはずです。もし自分がモーセの率いるイスラエルの民の
一人であったら、自分はどうしたであろうか。もし、モーセの殺人命令に
従っていたとすれば、自分の行為とオウム真理教信者の行為と何処が違うのか。
考えてみなければならないはずです。 私はキリスト教世界に生きていました。
以前の投稿をお読みになった方ならば、私がどの様な世界に生きており、また現在キリスト教に対してどの様な感情を抱いているのかお分かりだと思います。
キリスト教の世界では、神・主イエスへの服従が尊ばれ、その生き方に向かって歩むのがクリスチャンの人生の目的とされています。それ自体は素晴らしい生き方だと思います。しかし、日本のキリスト教の教育は歪んでいます。
自己謙遜という名目で、実際上は自己卑下の生き方を徹底的に教え込まれます。
自分を価値の全くない罪人として、尊厳を全て剥奪され、だから神の救いが必要なのだ、神の救いがなければ生きていけないのだと叩き込まれます。
それは教会学校であったても、説教であっても、神学校であっても同じ教育です。
現在の日本のキリスト教は人間本来が持っている善性、尊厳、価値を根本的に否定します。
教会にとって人間性の全否定こそが、神への服従の根拠となるのです。
これが文字だとどれほど恐ろしいことか十全には伝わらないと思います。
人間性の全否定の烙印を押された信徒は、自分の価値・潜在能力を根こそぎ奪われた人生というものに喜びはありません。歪んだ偽りの喜びはあります。
それは「こんなどうしようもない自分を生かしてくれたてありがとうございます」という自己卑下から生まれる感謝です。
また、そんな自分を受け入れて繋げてくれる神と教会への感謝のしるしとして献金をしなければならないという強迫観念です。
過去の自分を見ると、なんて愚かな考えに支配されていたのだろうと感じます。 今、私はキリスト教世界から解放された人生を歩んでいます。
イエスの教えの素晴らしさは尊重しますが、いわゆる教会が教える事柄はもはや信奉していません。しかし、私が今の様に人間性を取り戻すには多くの時間がかかりました。
長年に渡って当たり前のように刷り込まれてきた価値観というものは簡単には消えません。
それは心の中に染物の様に染み込んでいます。隅々に渡って漂白することは短時間ではできません。
私は自分が今まで手を付けなかったような本を読むことを通して、色々な価値観を触れました。
その様なリハビリ作業によって徐々に支配されていた価値観をいつしか俯瞰することができるようになりました。完全に支配されているときは、その価値観に疑問すら抱くことができないものです。
その状態から脱却できたということは、自分が人間性を取り戻し、解放されたのだという証拠だと思います。
現在、この様な自分の復帰をかけるということが奇跡的なことだと思います。
私は人一倍キリスト教世界で生きることにのめり込み、その世界が最も正しいものであると確信していました。
それゆえ私はキリスト教が教えているように、自分という存在に全く価値を見出していませんでした。自分に価値を見出すということが罪だったからです。
深淵に突き落とされた状態から、復帰できたことで、私は本当の意味での人間の価値、生きる価値、人間性、人間の尊厳というものを実感しています。
多くの人はこれらを当たり前のように感じているかもしれませんが、私にとっては一つ一つが非常に貴重な宝のようなものです。 キリスト教は人間に必要か
Got Questions Ministries.という団体のサイトに、
なぜ神は、地震、ハリケーン、津波などの自然災害が起こるのを許されるのですか?
というページがあります。答えとして、最初、
神は、宇宙全体を創造し、自然の法則を定められました(創世記1:1)。ほとんどの自然災害は、これらの法則が働いていることの結果です。
ハリケーン、台風、竜巻は、様々な天候のパターンが衝突することの結果起こります。地震は、地殻の組成がずれることによって起こります。津波は海底地震が原因です。
と述べているのですが、次には、
人類が罪に陥ったことは、私たちが住んでいるこの世界をも含め、すべてのものに影響を及ぼしました。被造物のすべてが「挫折感」と「衰退」の影響を受けています。死と病気と苦しみの原因がそうであるように、自然災害の究極的な原因は罪なのです。
と言っています。
自然災害は、神の定めた法則に従って、機械的に発生しているに過ぎないのか、人間が神に逆らって罪を犯すから、法則には
無関係に神がわざと起こしているのか、どちらなのでしょうか。
では、ヴェスヴィオ火山噴火は、麓の同性愛者を懲らしめるための神の罰だった、と考えている人がいることをご紹介しましたが、今回の記事
からも、キリスト教徒は、『神は自然災害を利用して犯罪者を処刑している』、と考えていることがわかります。
そうならば、イエス様は何のためにこの世に来られたのでしょうか。
教会の理屈で言えば、全人類を、原罪を含むすべての死の軛から解放するために、人の世に生まれ、人の手によって死んで、復活した、つまり、そうであることを
誰にでもわかるように証明した、ということであるはずです。その理屈通りであるのであれば、罪が原因で発生する自然災害は、今はもう発生しない、ということになるはずですよね。
宗教なんてそんなもんさ、目くじら立てなさんな、とおっしゃる向きには
何も言いませんが、「神の業が人間ごときに正しく分析できるはずがない」と真剣に考えてているあなた、それなら「キリスト教」が存在する必要はありませんよね(笑)。 >>4
> 自己謙遜という名目で、実際上は自己卑下の生き方を徹底的に教え込まれます。
>
君はそう意味をとらえたかもしれないけど。
自己謙遜とは自分を卑下することでなく、他者を立てることなのよ。
自分を空しくし、他者を喜ばすこと。
人の幸せとは、自分のことより他人のために何かして人の笑顔を見た時が大きいのよ。
自己謙遜、自分の大きな力、能力を信じ他者のために生かすことなの。
けっして卑下することでなく、その逆よ。 他者のため、それも何か大きなことをと勘違いしてはいけないわ。
ささやかなことでいいのよ、小さなことでも相手のためにと心向けていれば何か気づくから。
今週は、ある方に本を差し上げたの。
その本、ブックオフで200円で買ったものだけど版切つまりもう普通の書店で売ってないものだから、とても喜んでくれた。
わずか200円でね。 西洋と東洋では基本的に何かと逆
米と小麦、縦書きと横書き、自然の中に住むのと切り拓いていく住む、パワー特化と技術特化
で、宗教は神と仏。
でも日本はさらにもう一個ひっくり返る。名前と苗字や語順すらも逆、一神教と多神教(アニミズム)で受け入れやすさや支配力が逆になってる。
その理由まではわからないけど、まぁいわゆる国民性って奴だな。それでもキリスト教の影響力はすさまじかったようだけど、伝来当時に厳しく規制されたのがトドメだね 自分を空しくする、むなしくするとは虚しくとは違うからね。
自分の心を相手に差し上げる、自分の心を空っぽにするの。
そして空っぽにした自分の心に、相手の喜びを入れるのね。
それを主イエスキリストがしてきたわけ。 https://www.nippon.com/ja/people/e00105/
オーストリア人の神職だそうです。珍しいですね。國學院で神道を学んで神職になった、とありますから、神道世界のキャリア、とでも言うべき、いわばエリートですね。しかし、いかに日本が好き、といえども、外国人に日本の神職が務まるものでしょうか。
寝ても覚めてもつまらない迷信に振り回されながら暮らしし、大戸には注連縄、大神棚を始め、仏間には仏壇、不浄には烏枢沙摩明王、久度(竈)には
愛宕神社の札があり、季節季節にはうぶすなの祭りがあり、冠婚葬祭を報告する。
そのような神との関わりがあってこそ、初めて神職足り得るのではないのか、と思われたのではないでしょうか。
同様のことをもっと強く感じるのはキリスト教徒のようですよ。
米国人の知人が日本観光に来られたとき、カトリック信者だということでしたので、日本風建築で有名な、ある教会へ
ご案内したのですが、
「きれいな建築で、珍しいミサを見ることができて、とても良かったが、日本人の神父に告解したり、日本人の神父から聖体を拝領しようとは思わない。」
と言っていました。日本人のキリスト教徒は、まるでカルト信者
のようだ、とも、ミサが終わったのに、若い人がいつまでも教会から立ち去らないのが不思議、とも言っていました。
日本には日本の文化があるのに、どういう理由でキリスト教に
ハマってしまうのか、がわからない、のだそうです。
宗教は文化の一端でしかない。
本場のキリスト教徒はそのことをよく理解できているのです。 カトリックからプロテスタントが生まれ万人祭司と言われたけど、実際はそうならなかった。
牧師先生、牧師夫人、他の教会役職者など、プロテスタントになっても教会内に身分の上下がある。
それを壊して、みんなが平信徒なのがイスラム教。
別にイスラムを勧めるわけじゃないけど、社会はそのような平等を求めてるなが現実でしょうね。 キリスト教の布教ネタでよく耳にするのが「貴方の背負ってる重荷を肩代わりする」みたいなのがあるでしょ?
アレが胡散臭すぎて受け付けないんだよ
大きな問題を抱えてる人や何かしらの罪を犯して自虐心に苛まれている人には救いの言葉に聞こえるそうだけど、
傍から見てると「他人の弱みにつけ込んで甘言でたらし込んでる」様にしか見えない
どんなに神さまに懺悔して縋ったところで自分のやらかした事からは逃れられないし自分で折り合いを付けて自分で何とかしなければ解決に至る事は無いからね 農民が宣教師を論破したという例の逸話自体は誇張されたものだったとしても
その種のやりとりが各地で頻繁にあっただろうことは想像に難くない
実際キリスト教の論理は破綻してるし突っ込みどころが多すぎる
布教が進まず宣教師の嘆きが記録として残されているのがその証拠だろう キリスト教とは奴隷契約だからね
受け入れないのは当然でしょう > 神との個人的な関係を誰かと比べて優越感に浸る人というのは、自分の信仰に自信がないのだと思います
> 不安や疑いがあり、それを払拭したいのでしょう
まさにその通り。
自分の信仰に自信がないから、
エホバの証人、統一教会、モルモン教など「異端」だと称して、
自分達こそが正統派キリスト教だと主張するのです。
そんなに自分たちが正統派キリスト教だと自信たっぷりに胸を張って言うなら、
自分達から出向いて行って改宗させればいいではないですか。
なのにそういうことを絶対にしようとしません。
理由は簡単。自信がないからです。 >>16
人間側の力だけで解決しないのよ、キリスト教は基本。
弱者の成長が土台なので。 このところ、立て続けにキリスト教の子供への影響について書いてきましたが、
書いているうちに怒りがふつふつと沸いてきたので
昨日に引き続き書かせていただきます。
大人になってからクリスチャンになった人たちはずるいと思います。
自分は幼少時も青春時代も神のことなど知らないで自由に生きてきたくせに、
ちょっと自分が「キリストの救い」を知ったからと言って、
それを子供に押し付けて自由を奪うのはずるいです。
私には「日曜日」がありませんでした。
私が学校に通っていたころは「週休一日制」でしたので、
子供にとって日曜日が唯一の休みでした。
しかし、私は毎週日曜日は教会に通わなければならなかったので、
その休みがありませんでした。
学校の友達に遊びに誘われても、
「教会があるから」と、断らなければなりませんでした。
私は、普通の子供に比べて「友達と遊んだ時間」が極端に少ないように思います。
特に、中学生後半以降はその傾向が強く、
高校時代は日曜日に同じ高校の同級生と遊んだことがただの一度もありません。
また、当時の子供たちの娯楽の中心はテレビです。
普通の子供は日曜日に家でゴロゴロしてテレビが観られるのに、
私は観れなかったので悔しい思いをしました。
それでも、自分は普通の子供とは違って神を賛美しているのだから、
自分は正しいことをしているといちおうは信じていました。
前々回の記事にも書きましたが、
私が社会生活の中でうまく人間関係を形成できないのは、
成長過程での人付き合いが少ないことに原因があるように思えてなりません。 神は存在し知的障害精神障害者者だった それも周囲に加害する 後悔していますか?
私は子供の頃から神様を知れるなんて羨ましいと思いました。
大人になって神様を知りましたが、子供達に何かを強制するつもりはありません。
子供の頃出来なかった事、今からでも出来るのではないでしょうか?友達と遊ぶ事は叶わなくても、教会へ行かずのんびり過ごす事も出来ると思います。
あなたの心がいつも穏やかであるよう祈っています。 新井白石の話も出てるが
他にもルイス・フロイスが日本の農民に宣教した時の事を書いた手紙に
日本の農民は頭が良く自然科学方面の話には興味を示し理解が早いけど
キリスト教の宗教的な理念の話になると合理的でないと聞く耳を持たず
日本に派遣する宣教師はこのことを理解して、天文や自然科学の知識があって
かつ論理的な人物でないと難しいとある
日本人はもともと
全知全能のはずの神なのに、信じる者は救われる=信じない者は救わないと言う考え方に懐疑的だったってこと >家庭は心の憩いの場所であると共に、愛の戦場だ。
>愛の戦場からの兵役逃れに人は魅力を感じ、その教えに耳を傾けるだろうか。
名言ですね。
独身制たる理由が「子供がいたら相続問題が…」と言うけれど、そもそも教会の財産は公的なものであり神父個人のものではないと考えれば、相続問題など初めから無いはず。(子供が一人であろうと複数であろうと。)
それでも相続問題が起きるのが懸念されるなら、それに関するルールを決めれば良いだけの事。
カトリックが神父の独身制を廃止できない理由は、小生が思うに、当方氏仰るように「愛を家庭という形で結実させる自信がない」という事が一つ。もう一つは、「神父は世俗の下々とは異なる特別な(使命を持った)存在である」という(変な)自尊心ではないかと推測します。
勿論、世の中には、その時々に於いて特別な使命を持った人達は居ると思うけれど、それが「家庭を持たない」使命である必然性は全くないように感じます。
カトリック含めキリスト教がこの2000年間に果たしてきた役割は非常に大きいけれど、旧来の教義や慣習は、今のこの歴史の大転換期に於いては、輝きを失ってきたと感じます。 俺は小学生4年ぐらいから教会に路傍伝道されて通うようになったが
毎週日曜に教会に通うのが楽しかったよ。
友達とは土曜午後でも平日終業後も日曜午後も遊べるぢゃん。
もともと人づきあいが下手なんぢゃないの? あ 中学生になると、教会から離れたわ
日曜はクラブの試合とかもあったし、友達のつきあいも増えたしね。
中高も日曜に教会は確かに大変だったのかもね
でもみんな中学でいったん教会を卒業していたよ。
あなたはなんで自立しなかったの? Re: 初めまして
> 私は一宮城県民です。幸いなことに3.11大震災で私の家族や家屋、親戚、殆どの友人は無事でした。行方不明になった知人が1人いますが、被災者でなかっただけで幸運でした。グラハムのことなら私も今年3月の記事「震災を利用する者たち」で取り上げています。
>http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/c546df8cba22d5db42c6e27be118b4eb
ご訪問ありがとうございます。
クッキングホイルさんおブログでmugiさんのお名前は拝見していましたが、
mugiさんのブログは一度も見たことがありませんでした。
しかし、その「震災を利用する者たち」の記事を読むと、
私と考え方が一致する部分が多いことに驚きました。
>昔から「タダくらい怖いものはない」というではないか。
>「見返り」 を求めない支援などあるのだろうか。
まさにこれは同感。
結局、あの手の伝道は震災に遭った人の弱みに付け込んでいるのです。
被災地に行って聖書を配るとはなんとおマヌケなのでしょう。
お金や食料や住宅よりも聖書が大事だと思っているアッパレな人たちですね。
そういう人たちは、何も食べないで聖書だけで生きて見せればいいのです。
> 私は小学三年生の頃、校門の前に陣取っていた白人宣教師に「キリストを信じない者は地獄に落ちるからね」と脅されたことがあります。それが私の耶蘇嫌いの原点でした
私は、この教えを小さい頃から教会で聞かされてきたがために、
ずっと死後の恐怖を背負いながら生きる羽目となってしまいました。
キリスト教とは、信者に死後への恐怖心を植え付け、教会につなぎとめる宗教なのです。
教会側は、「そんな風に教えたつもりはない」と言ってもムダです。
雰囲気や言葉遣いだけはきれいですが、
結局は死後への恐怖心を植え付けて献金や懺悔をさせるようにできているのです。 讃美歌にも陶作り我が君とある。創造主のことだが被造物である我々は陶(焼き物)であるから形や色が創造主の気に入らなければ理由もなく壊してよいとか。破壊神かよ。
いちじくの木にちかづいて実をとろうとしたけど季節が外れていて実がなかったので、呪いの言葉をかけて枯れさせる。神が必要としたときに力を発揮できなければ死ねってことだ。
その人が天国行きか地獄行きはすでに世界が作られたときに決まってるらしい。この世界は完璧な神によって設計されてるからな。じゃあ生まれてすぐ死んだ子供はなんのために生まれたのか?(洗礼前なら地獄行き)
そういう聖書に載ってない悲しくて理不尽なことを信者に訪ねると「神のお考えは不完全な我々には理解できない」とかなんとか言うだけ。神の計画に必要だからだそうだ。ふざけた計画だ。
創世からすべて決まってるが人間には自由意思を与えたとか言う。矛盾しすぎでワケわからん。天国行きが決まってるやつは最終的にはクリスチャンになるらしい。自由じゃなくね?
聖書は様々な経緯を経て今の形になったがそれも神の思った通りになってるから大丈夫らしい。なぜか最後のところに「これより先この本の内容を削ったり増やしてはいけない」なんてご丁寧に書いてある。最後に編集したやつ予防線張りすぎわろたwww キリスト教が広まったのは、ひたすら「信じないと地獄行くよ。信じたら永遠の天国だよ」という楽チンで単純な部分だけを言って回ったからだと思ってる。
悪いが、思考停止さんと 楽して得したい人間を量産して、飼いやすくコントロールしてるだけに見えるんだわ。
自由すぎる思考と、それの単なる纏め役としての支配層 って感じでやってきた日本人には そら抵抗あるわと思う。 和辻的に言って宗教と風土は切り離せないし
稲作民族は家族・地域労働が必須だから根本的にキリスト教的個人主義と相容れないし
どこでも誰にとっても変わらない一つの特定の真理があるっつーキリスト教的・開拓民的価値観がそもそも合わないとも言える
そんなことを信じてるから布教するわけだが、「布教される」ということがすでに日本人にとって矛盾なのだ
雑多な価値観の一つとしては受け入れられるが、今度はキリスト教の本質と矛盾する >日本は封建社会だったので神の下に人類は平等とかいう教えは幕府としては気に入らなかったとからしい??
いや、その手の「幕府(やら大名やら)は全て悪夢の独裁者で民衆は抑圧され思想や言論を厳しく統制されていた」的な見方はアカバカ系の教師の与太話w
当時のキリスト教ってのは、神は絶対の存在であり、その神に祝福された白人こそが真の人類であり至上である
有色人種は類人猿に近い亜人類で、平等なのは人類である白人同士だけだが、亜人類であっても神を信仰し白人に仕える事で神の国へ近づける、みたいな感じでね
その教義でもって日本人を信者として洗脳して海外に連れて行き奴隷として売ってたのが発覚してたのよ
中には奴隷商人と結託して領民の娘を売っては火薬やらなにやらを買い込んでた大名やら豪族なんてのがいてね
そんな大々的に人身売買なんかされたらそりゃ幕府だって怒るだろと Re: 手法は説かない?
> 奇異に感じたのですが……、「罪とキリスト様による救い」を説くだけなのですか?
これが教会の説教でよく取り上げられるテーマですね。
2年前の大阪のフランクリン・グラハム大会の時もそうでした。
日本の宗教は罪を救えないとか、罪を救えるのはキリストだけだとか、
もうお前はそれしか言うことがないのか?と思うほどでした。
> 私は「歩んだだけ、行っただけ、救われる(磨かれる)」とお寺で学びましたが……。
>
> 『「利他」の善行により、自らが磨かれ、自らを救う』
>
> そんな意味合いです。つまり「自分を救うのは自分」。日本の諺で言うなら「情けは人の為ならず」?最近、この意味を理解してない人が多いですけど。
「情けは〜」についてですが、言葉の意味が時代とともに変わるのと同じように、
ことわざの解釈も時代とともに変わるのではないでしょうか。
「自分を救うのは自分」の部分は同意です。
現実の世界では、いざと言う時に誰も助けてくれないものです。
> 「祈れば、信じれば誰か(神様)が助けて下さる」と言うのは……、言っちゃ悪いですが、確かに阿呆ですワ。
> 「んーなバカな話あるかい!」ですよ。
> 「他力本願」。こんなん教えられたらたまったモンじゃないですね。「自分で未来を切り拓いていく子供」に教えるものではありません。
世の中、信仰だけで解決すれば苦労はしませんよね。
まずは自分が努力しなければならないという現実を子供に教えるべきです。
私は、純粋な気持ちで信仰していれば、
いつか神様が手を差し伸べて下さるといちおうは信じていましたが、
本当に無駄な信仰生活でした。 ナザレのイエスは地獄に堕ちたよ
宣教とは一緒に地獄に堕ちる仲間を集めてるんだよ 腐ったものが作ったものを良心的な人間が納得できたらおかしいでしょ この世が不条理なのは馬鹿が多いから
過剰に未熟なね 別に完全じゃなくてもいいんだよ なれっこないから
とはいえ欠陥まみれすぎてどうにもならんのだわ
知能が著しく低い上に害意が強すぎる 畜生の世界 まず上から畜生だからね 畜生がかわいそうか
害虫の巣食った世界 昨日牧師の説教聞いてきた。
あそこまで人間に対して自虐的な宗教だと何の感慨も共感も湧かないもんだな。
昔の人間はきっと業が深かったのだろう。 Re: タイトルなし
> 教会っていう集団はね、弱き人・迷える羊を排除する性質を持つんですよ。
> 信仰に疑問を持つことは誰にでも起きることなのに、それを認めず『脱落者』の烙印を安易におしてしまう。
> 救う能力はないんです。集団であるが故、異質を排除する性質が出てしまうんですね。
> 一匹の子羊を救う心のある教会よりも、99匹の子羊を大切にするのが教会なんでしょうかね。
教会は自分たちに都合の良い人しか助けてくれません。
一般社会と何ら変わりません。
にもかかわらず、神を信じない一般社会を見下し、
自分達こそが正しいことをしているとのたまう姿が偽善的です。 Re: ほとんどのキリスト教徒は天国へは行けないんじゃね?
> キリスト教嫌いの私の意見ですからかなり的外れかもしれませんけど、
> 信仰歴の長さが救済に比例しないとするのはあくまでも教会が触れないだけで、クリスチャンになれば誰でも天国へ行けると勘違いしているか、もしくは教会があえてそう教えている
詐欺的商法に引っかかった人の主張だと思うんですよ
> 桃栗さんも分かってるんだろうけど、キリスト教が信仰歴に触れないのはただ単に教会の経営戦略だと
思います。改宗しても最後の審判で神に裁かれますって言えば、誰もクリスチャン
になって募金なんてしないですよね。何も知らずに天国へ行けると盲信してる
人が神に裁かれる(いると信じてんなら裁かれるよね)なら、滑稽じゃね?
やはり、信仰歴の長さと救われるか救われないかの可能性については、
教会ではタブーになっているのか誰一人として触れないのです。
そして、クリスチャンが死んだら、
なぜかそのお葬式では
天国に行けたことにされているのです。
死の直前に病床で
洗礼を受け(させられ)て一度も教会に来たことがない人も、
やはり天に召された
ことになっていましたから。
キリスト教は、その場その場の都合でなんでも美化してしまう宗教です。 教会に失望ばかりしています
教会によると、クリスチャンたちと関わりを持たないことは悪いことだそうですが
クリスチャンと関わりを持つとノイローゼになりそうです
牧師からは
分からなくても来るように。そのうち分かると言われました
我慢して数年通い続けてみたものの、メンタル的に限界超えてやめました
日曜の朝、教会へ行こうと思うと気が重く
行かなかったら一週間、罪悪感です
行ったら行ったで、みんなはとても楽しそうに輝いているのに、と思うと帰り道は惨めさでいっぱいです
メッセージは全く頭に入りません
讃美歌は好きです
毎週教会の前まで来ると、本当に嫌で嫌で嫌で、そのまま通り過ぎてしまいたくなります
それは悪霊のせいなので、負けずに来いと言われますが、もうしんどいです
これはいったいどういう状況なのでしょうか 新顔で失礼しますが、どうしても聞きたいことがあるもので・・・。
みなさんは、ずっと教会を実家として生きてきたことでしょう。
その中で、信仰が厚くなったり薄くなったり、いろいろあったことでしょう。私も、高校卒業までは『将来は牧師』を目指していましたし、それが神の御心だと思っていました。なので、大学卒業したら
神学校へ行こうと決めていました・・・が、その大学時代、実家を出て他のいろんな教会を見て、『キリスト教ってこんなものだったのか?』と、強い失望を味わいました。それは、牧師やクリスチャン達の強烈なまでの排他主義的信仰観や、『信仰という名の虐待』
を経験したり目の当たりにしたりと、それ以前の教会観、キリスト教観が覆されたからです。しばらく、教会から遠ざかり、信仰を捨てようとさえ思ったものです。
今ではなんとか首の皮一枚で留まっていますけどね(笑)
そこで、みなさんにお伺いします。牧師の子としてこれまでに、『キリスト教・教会ってこんなもの?』
と、キリスト教界に失望した経験はありますか? 俺はエロヒム、YHWH、イエス、白黒を信じるものが地獄に堕ちるように祈ってるよ 自分がどういう場所に生まれたか知るといいよな
泣き叫べばいい 明治以降、欧米の文化、習慣を取り入れ先進国になることを国是として
発展をする過程で、キリスト教会、あるいはその精神を活動に取り入れた医療機関や、教育機関を通してキリスト教
の布教に、膨大な人員と多大な費用を投入したもかかわらず、キリスト教信仰を求める日本人は、ごく一部に度どまり、さらに戦後、信教の自由が
認められ、誰でもキリスト教に入信できるのにも関わらず、未だに全人口の1%にも至りません。
これは入信の際に契約を伴う(法的な拘束力は全くありませんが)
宗教は日本人には合わないからでしょう。
日本人は古来から多神教の環境であり、複数の信仰を持つことに違和感を覚えない他、キリスト教のように
『信仰と思想を絡めた主義主張』がないため、、日本古来の神道と大陸から伝来した仏教とは良好な関係を築いています、あるいは山河や樹木に
神が宿る故に自然を尊ぶという信仰の他、神社で神が宿るというご神体に手を合わす姿など、日本古来の文化や風習とも調和を保ち共存しています。
しかし、海外から来たキリスト教宣教師、特にプロテスタント教会
ではこれら日本人の持つ宗教観
を理解しようとせず、逆に仏像に手を合わす姿を偶像礼拝あるいはサタン崇拝と決めつけ、山河や樹木、先祖が敬う信仰対象になっている姿を、原始的で劣った
信仰であり、根絶やしにするべきだと主張していたことを覚えています。
異なる価値観を認める寛容さは
他の信仰や文化に対する敬意であり、自身の信仰心を貫く決意とは別であると私は見ています。自身の持っている思想、宗教、価値観を他の人や国家に押しつけず、互いに認め合い、共存していくのが
愛であり、平和に至る道ではないかと考えています。
この考えが日本人の美徳であり、また識字率を見ても判るように、開国以前から勤勉さと高い教育水準を
保っており、幕末から欧米文化が流入後、わずか100年で欧米先進国と肩を並べる経済や
文化水準になったのはそれ故です。
残念ながら、大多数のプロテスタント教会、及び海外から来た宣教師
はこの日本人特有の価値観の尊さを理解していないようです。 キリスト教は愛や許し、寛容さを唱えながらも、一方で、自らの価値観が絶対正しいと主張し、力づくでも押しつけ、宣教の名の下に、異教徒を
屈服させ、多くの文化を破壊し、古代、中世ではインカ、アステカ、近代ではアフリカ、中東、東南アジアなどでは
植民地支配による搾取、資源の略奪、人種差別などが広がり、当事国には荒廃した国土と貧富の格差が広がり、新たな争いの
火種となっており、彼らの信条とは異なる結果を招いているのは歴史が証明しています。
欧米の価値観を含め、天地万物をすべて創造した、ただ一つの神が存在するキリスト教が唯一正しいと主張し、他の信仰対象は邪教と唱え、近代欧米の
砲艦外交が示すよう、に力を用いてでも、正当性を主張するキリスト教国家やクリスチャン像が、融和や協調性を重んじる
日本人には受け入れられず、明治以降、布教のために膨大な人材と労力を投入したにも関わらず、未だに日本の総人口
に占めるキリスト教信者数が1%に至らないのはそれ故です。
私も以前クリスチャンをしてましたが、この件に異議を唱えると、信仰の弱いもの、迷いがあるものと
決めつけられ、教会内で糾弾される羽目になり、最終的に棄教しました。
元プロテスタントより。 日本に一神教は相容れないのよ。
神を信じれば救われるとかってのは自然災害大国の日本ではね…
神様を信じました、どれだけ熱心に信じても毎年台風や地震やその他の災害でボロッボロにされるからねwww
信じても救われない宗教じゃ信者は増えないのは当然
今世紀入ったくらいから、ようやく、受け入れの素地ができて来たような気はする。・・・神を畏れ(敬う)ってのが無くなって対等な契約系の考えが増えて来た感じがするからね 一神教なんて信じてるやつは、ただの中二病と何が違うの?
聖書は事実に基づいた神話で、古事記はおとぎ話っていう扱いもおかしいだろ。
古事記もちゃんと学校で教えろよ。 一神教にのめり込んだ人の方が危ない気がするけどな…
日本は四六時中自然災害が発生する国だし、各自の宗教観と平行して
「自分達で何とかしないと」という意識が常にある気がする >>43
白豚とユダヤは敵や敵の神は全部悪魔扱いするから気にする必要ない
数ある宗教でキリスト教が真理だとはとても思えないしな
ただ、霊的なものが絡んでるのはわかるがキリスト教とは奴隷学であり奴隷契約だ
そもそも日本には日本の神がみがいると思うよ、なんで白豚やユダヤの神を押し付けられなきゃなんねーだよ 838 名前:ポッタン師 :2018/10/02(火) 11:55:02.11 ID:3oeFv9q7
837.私が神である。その神を冒涜するな。バカには理解できない。大爆笑である。
842 名前:ポッタン師 :2018/10/02(火) 11:58:28.15 ID:3oeFv9q7
839.私の名で命ずる。地獄に落ちよ。バカキリスト教の信者よ。
【仏教】 悟りを開いた人のスレ328【天空寺】 ・
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1538223836/ 田原米子さんという方をご存知でしょうか?
高校3年生の時に母を失ったショックで電車に飛び込み自殺を図り、
両足の膝から下を切断、左手も切断、
さらに右手の小指と中指を切断という瀕死の重傷を負いながらも、
療養中にクリスチャンの青年と出会ってキリスト教に入信し、
その青年と結婚して牧師夫人にまでなった人です。
私は田原米子さんに会ったことはありませんが、幼いころから何度となく話は聞かされ、
「自殺まで図った人がこうやって救われたのだから、やはり神はいるんだなあ」
と、いちおうは信じていました。
しかし、信仰を捨てた現在、やはりキリスト教の偽善性というものを強く感じます。
そもそも、なぜ神は彼女を五体満足のままに信仰に導くことができなかったのでしょうか?
なぜわざわざ手足をもぎ取ったうえで信仰に導いたのでしょうか?
これが「限りない神の愛」なんですか? よくよく冷静に考えてみてください。
電車に飛び込み自殺をするということは、鉄道会社は大きな損害を被ります。
彼女が自殺を図ったのは東京の新宿駅だそうですから、
多数の利用客がいたはずです。
当然ながら、人身事故が起こると電車は止まります。
どれほど多くの人が迷惑を被ったことでしょう。
当時は携帯もメールもない時代。
電車が遅れたがために人生を狂わされた人もいたかもしれません。
神は、田原米子というたった一人の女性を信仰に導くために、
なぜこれほどまで世間を大混乱させたのでしょうか?
本当にこれが「神の愛」なんですか?
迷惑を被った利用客や鉄道会社の立場はどうなるのでしょうか?
田原米子さんはちゃんと鉄道会社に損害賠償をしたのでしょうか?
そんな話聞いたことありません。
それなのに、自分だけ救われてハレルヤハレルヤなどよよくも喜んでいられるものですね。
彼女のことを称賛するクリスチャンもおかしいです。。
「奇跡の人」などと話を美化していますが、
被害を被った鉄道会社や大勢の利用客のことなど全く考えず、何が奇跡ですか。
讃美歌アメイジング・グレイスを取り上げた時も書きましたが、
(「賛美歌「アメイジング・グレイス」と、闇に葬られた黒人奴隷たち」を参照)
結局、クリスチャンは自分達のことしか関心がないのです。
自分達の仲間が信仰の道に導かれたことはここぞとばかり喜び、
キリスト教を伝道するときの宣伝材料にするくせに、
その陰で被害を被った人のことなど無関心なのです。
手足をもぎ取ってから信仰の道に導くのが神の愛ですか?
私はそんな恩着せがましい愛などいりません。 神を讃える文化、習わしを排除すれば
日本は自然災害とは無縁な国になる キリスト教は契約の宗教だからきちんと信仰しようと思うと「私はキリスト教だけを信仰します」っていう契約をしないといけないのよ
日本人がよくやるような「正月は神社に初もうでに行ってクリスマス祝って仏式でお葬式します」みたいな適当なのは許されない
そういうのは今の日本人には合わないんだろう。 >>4
> 私はキリスト教世界に生きていました。
>
> 以前の投稿をお読みになった方ならば、私がどの様な世界に生きており、また現在キリスト教に対してどの様な感情を抱いているのかお分かりだと思います。
「以前の投稿」はどこで読めますか? >>53
疫病神をガン無視するといじけて虐待されます
聖書はそういう話を伝えているのです 普段は中東土人とか馬鹿にしてるのに
西欧から入ってくると、オシャレクリスチャンになるのが滑稽。
キリストも中東の人って知らないでヨーロッパ人って勘違いしてる奴の多いこと
いつのまにかキリストは神そのものだって言い出すし
無茶苦茶 「カトリックの教えの間違い」について
いのですが、ヒマつぶしにちょっと検証してみることにしましょう。
??
@司祭の結婚禁止規定
プロテストタントでもいったん牧師になった方が途中でリタイヤすることは珍しいことではありません。
しかしカトリック教会における司祭のリタイヤ率は異常であると言わなければなりません。
大体10人の同期の司祭がいたとしたら、長期にわたって
司祭であり続ける人は十人中の一人か二人であると言われます。
その理由は司祭の結婚禁止規定にあります。
聖書には『後の時代になると結婚を禁止したりする』(Tテモテ4:3)者
たちが現れるとあります。
そのような教えは、嘘を平気で言う良心が麻痺した者たちの
偽善によるものであると、聖書には書かれているのです。(Tテモテ4:2)
ある人たちは「カトリックの教えを納得した上で、献身したのだから、仕方ないでしょう」と言います。
しかしそうではありません。
献身者はカトリック教会
の所有物ではなく、神に献げられた献納物であるのです。
ですから間違った教えによって神のものである献身者の生涯を
台無しにする権利はカトリック教会にはありません。
??内政干渉でしょうね。余計なお世話です。マタイ福音書19:12に
母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者と
なったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい
とあります。
みずから進んで独身を通すことは、天の国のための働きだとイエス自身が言っているのですから、この人の言い分では、テモテ書簡を利用して福音書のイエスの発言をを批判
することになってしまいますね。それに司祭の独身制は禁止されてのことではありません。
また、ご自分でもそう言っているように、志願者のうち、最後まで目的を達するものが100%で無いのはどの世界でも同じです。その割合が低すぎて異常だと言いたいのであれば、具体的な根拠を示すべきでしょう。 それに、プロテスタントにも修道会はあります。女子修道会ですが、生涯を通して独身を貫き、神に捧げようとすることは同じでしょう。当然、こちらにも脱落者はあるでしょうね。
Aマリア崇拝
マリア崇拝ぐらい、真のキリスト信仰に反するものはありません。
この教えをどうしたら、良心に反しないで受け入れることが出来るのか見当がつきません。
マリア崇拝の起源は、教会が宣教をしやすくするために宣教地の女神崇拝に妥協してキリスト信仰の
中に女神信仰を取り込んだのが始まりです。
それを徹底的に批判したのがネストリウスでした。
ネストリウスにも
批判されなければならない点が多くあったため、両者の争いは泥仕合になりました。
問題を多く
抱え込んでいる者同士で争って、片方が勝利し、片方は異端宣告を受けました。
そして女神崇拝という偶像礼拝はカトリックの中に定着しました。
教会会議で
ネストリウスに異端宣告がなされたのが431年です。
1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに
1086年の月日がたっているのです。
その間、大多数のキリスト教徒は間違った教えの闇に閉じ込められていたのです。
「真のユダヤ教」として正しくない、というのであればわかりますが、キリスト教という以上、キリストを
産んだ母は神の母である、としてマリアを崇敬することこそ、キリスト教の核を成す重要な要素であると言えるでしょう。はっきり言えば、地母神崇拝
を捨てきれなかったローマ市民の本音が反映された結果なのです。そのことを理解できない者は「キリスト教徒」たり得ない、ということです。モグリのニセクリスチャンなのです。
それから
「1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに1086年の月日がたっているのです。」
なんて言ってますけど、ルター教会はマリアを「神の母」と認め、聖堂にマリア像を安置して崇敬しているのですよ。 次の動画は、ドイツのルーテル教会で、マニフィカト(聖母賛歌)が唱えられている様子です。
祭壇が東面式で、対面式に変更したカトリックよりも、古い様式を守っていることがわかります
https://youtu.be/wRNtliMEUCU?t=6
B煉獄(れんごく)の教理
人間が神から離れるとき真っ先に行うのがオリジナル宗教の創作です。
聖書のどこにもない煉獄
というものを創作し、自身のオリジナルの宗教を作り上げます。
プロテストタント・リベラル派も万人救済主義というオリジナルを作り上げました。
近頃は福音派さえもセカンドチャンス論という福音派版の煉獄の教理を作り上げました。
これは言うまでもなく、聖書のどこにもない教えを人間が創作したものです。
自分が死んだ後に
神様と会わなければならないとき、聖書にない教えを水戸黄門の印籠(いんろう)
のように神に向かって「この教えが目に入らぬか。この教えこそは煉獄・万人救済・セカンドチャンス論である!」
とでも叫ぶつもりなのでしょうか。
神様の御前で通用するのは、神の御言葉である聖書の言葉だけです。
なぜそんな当たり前
のことが分からないのか不思議でなりません。
プロテスタント教会であっても、会員が死亡すれば葬式を行いますが、人が死ぬと、生前の成績如何によって、天国か地獄に振り分けられる。
他の人がどう願おうが望もうが決定された
行き先は一切変更されない。そう理解しているのであれば、なぜ葬式を行うのでしょうか。人が死ねば、のこされたものが
死者にできることは何もない、そう考えているのであれば、行政手続きを済ませて、遺体は法に従って処分すれば良いだけの話です。違うでしょうか。なんとか神に念を送って故人の冥福に関与したい、そう思っているから葬式をするわけです。
煉獄的な発想は人間の自然な感情に組み込まれているのですよ。
??煉獄が無いことが聖書的に当たり前だというのなら、聖書的に天国と地獄は実在することを証明しなくては
ならないでしょうね。聖書のどこに、人間は死んだあと天国か地獄のどちらかに行きますよ、と説明されている
のでしょうか。どうせ妄想ならいろいろオプションがあったほうが面白いじゃないですか。 C避妊の禁止
エホバの証人は輸血を禁止します。
モルモン教徒は子だくさんの家庭が多いです。
このどれもが聖書の教えにもとづいていると主張します。
しかし聖書に当たってみると、引用されている聖句はそんなことは少しも言っていないのです。
カトリックの避妊禁止の教えぐらい守られていない教えも珍しいかもしれません。
しかしこれが良心的カトリック教徒の人権を侵害していることは明らかです。
避妊をする・しないは個人の自由にまかせられるべき領域であり、何人(なんぴと)も侵害してはなりません。
聖書さえも、そのことに口出しをしてはいないのですから。
あえて 聖書本位的に言うのであれば、性行為は子供を作るための行為であって、それ以外、たとえば欲情を
満たすためだけであってはならない、ということになるでしょうね。したがって、避妊はアンチキリスト的行い、ということになるでしょう。
とはいえ、エッチをしたい、という要求に抗えないときもあるでしょう。神様がそのように作ったわけですからね(笑)。カトリックは避妊を
全面的に禁止しているわけではありません。オギノ式ならOKです。これマジすよ。
??
D教会を聖書より上位に置く
今まで見て来たカトリックの教えの間違いは、同じ出所(でどころ)から出発しています。
それは教会会議を聖書より
上位に置くということです。
このことを正当化するのにカトリックはレトリックを用います。
それは聖書を編纂したのは教会であるのだから、教会が聖書と違ったことを教えても良いという主張です。
しかしこれは故意に大事な一点を見逃しております。
それは聖書は教会が編纂した
から聖書に「なった」のではなく、元々聖書と認められていたものを、教会が聖書として追認したというのに過ぎないということです。
◎確かに教会は真理の保持者です。
しかしそのためには教会は聖書に従うものでなければなりません。
それだけが教会が
真理を失わないでいることが出来る唯一の道なのです 完全に聖書だけ、と主張したいのなら、説教なんて危険な行為は
一切できなくなりますよね。聖書にはこう書いてあるけど、実際にはこういう
意味なんだよ、と説明して、それが間違っていたらどうしますか?プロテスタントだって、聖書の解き明かしを行うのは教会だと言っているのです。つまり
「教会を聖書より上位に置いている」のですよ。
??
ツイッター見てると、一時間おきに雀の話しているヒマそうな神父が
いますけど、ああいうの見てると幸せそうでよかったね、と思いますけどね(笑)。
それにしても、今までキリスト教徒が他の教派の悪口を
言っているのを聞いて、なるほどな、と感じたことは一度もありませんね。 >>54
キリスト教は奴隷学であり奴隷契約だ
宣教とは奴隷集め キリスト教で評価するのは対白豚としてだな
憎き白豚に奴隷契約をかわさせ災いをなしたことは高く評価できる
キリスト教とは対白豚の呪いであり奴隷契約だ
俺も白豚は大大大嫌いだから白豚を攻撃することは評価できる 新井白石の「西洋紀聞」を読んでの意見だけど、新井白石はシドッチからキリスト教の教義を聞いたら、「こんなの仏教のマネじゃん」と思ったと書いてある。
仏教と同じなら、敢えてキリスト教を信仰する意味がないと思ったのでは?。 マリアが処女なのに馬小屋で出産しただなんて、ありえんわ。
マリアは父親に犯されて、誰にも言えずに馬小屋で出産したんよ・・・たぶん。
キリストは人間なのに、どうやって神になるん?
そんな創価学会みたいな宗教が信じられるん?
日本人の云うところの神と、海外の神とは大きく違うよ。
日本人は宗教を持たないというだけで、子供の頃から神の存在は親から何気に植え付けられてるよ。 日本のクリスチャンとは何故ここまで日本が嫌いなのだろうか。
私は長年キリスト教会の世界で生きていたので身に染みるほど感じたが、日本の教会とクリスチャンは
徹底的に日本が嫌いなようである。ほとんど画一化された傾向である。
クリスチャンである限り、日本を嫌いにならなければならないというのか。
徹底的に日本を非難し、貶める。よくもまあここまでやるなと思うぐらいである。
私はその様な風潮に飽き飽きしている。クリスチャンであっても何故、日本を好きであると言って
はならないのか?日本人なのだから、日本が好きであっても良いではないか。
しかも、彼らが日本のことが嫌いなのは、事実誤認、改竄された歴史が理由になっている。
真実や事実に基づいた上での「好き・嫌い」なら分かるが、そうでないものに基づいて断罪されるのはたまらない。
彼らにとっては、クリスチャンになるということは、日本人を辞めるということなのだろう。
教会は多様な考えを受け入れない。特定の思想に支配されている。その思想に従わない限り、教会に属し、クリスチャンとして生活は出来ない。
恐ろしい場所である。言論統制が敷かれている
社会である。まるで、あの社会に生きているようである。
以前の投稿でも書いたが、教会は極左的思想を持った
団体であり、反社会勢力である。
日本人であることと、クリスチャンであるということは両立できないのか。 大学生のころ、僕はまだキリスト教徒として生活していました。いろいろな教会のイベントや活動などにも参加して、同年代のクリスチャンの知り合いもたくさんいたのです。
そんな中で、ある正教徒の友人がいたのですが、彼が、学校で知り合いになった黒人の友人を教会へ連れていったとき、教会の神父が、
「もう二度と連れてきてはいけない」
と彼に言ったのだそうです。
理由は、もし、その黒人男性が教会を気に入って、洗礼を受けたい、と言い出した場合、教会としては拒否することはできない。そんなことになったら、同じ聖杯から領聖(聖餐)することになってしまう。そうなると他の信者の迷惑になる、ということなのだそうです。
正教会の聖餐式は、ぶどう酒の入った金属製の大きな杯に細かく割った
パンを浸し、一つづつスプーンですくい上げて、信者の口に入れる、という方式ですので、正直なところあまり清潔とは言えません。それに、どこの馬の骨とも知れない黒人が加わったら
迷惑になるだろう、とその神父は考えたわけです。
さすがにちょっと気が引けますので伏せ字にしますが、神父はさらに、
「◯◯人とか◯◯◯◯◯の人とかも連れてきちゃいけないよ」
と言ったのだそうです。
僕はその話を聞いて、心底びっくりしました。
でも、実際そんなものなんでしょうね。そういう僕だって、まるきり差別意識が無いのか、と言えばそれは言い切れません。「ああ、やっぱりな」などと考えてしまうこともあります。
しかし、聖職者がそんなこと、とも思いますよね。果たしてどうなんでしょうか。
その友人、彼も幼児洗礼ですが、「教会は悪いところ」ということになってしまったようです。
でも、考えようによっては、キリスト教の教理が差別そのものですよね。神父はキリスト教的には正しかったのかもしれません。 Re: 嘘八百
> 世界大戦の殆どはキリスト教が原因??
そう言うと、クリスチャンは決まってこういう反論をします。??
「戦争を起こすのは人であって、キリスト教ではない」??
逆に、クリスチャンによって何か都合の良い出来事が起こると??
「キリスト教のおかげ」だと誇らしげに言います。??
都合が良い時はキリスト教のおかげ、??
都合が悪くなるとキリスト教は関係ないとのたまうのがクリスチャンです。??
> アダムとエバは不良品??
>??
> 不良品を造った神は無能??
>??
> になりませんか…??
全くその通り。??
旧約聖書の神の性格をそっくりそのまま人間に当てはめると、??
実に怒りっぽくてわがままな人にしか見えません。??
クリスチャンは息を吐くのと同じように「神の愛」とよく言いますが、??
聖書に書かれていることと同じことが目の前で起こった場合、??
本当にその神の御業に感動するのかどうかは疑問です。??
旧約聖書の初期の時代では、人間は常に神に監視されていて、??
罪を犯す者を容赦なく罰していました。??
クリスチャンは本当にそんな世界に生きたいと思うのでしょうか。?? Re: 初めまして
> 私は一宮城県民です。幸いなことに3.11大震災で私の家族や家屋、親戚、殆どの友人は無事でした。行方不明になった知人が1人いますが、被災者でなかっただけで幸運でした。グラハムのことなら私も今年3月の記事「震災を利用する者たち」で取り上げています。
>http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/c546df8cba22d5db42c6e27be118b4eb
ご訪問ありがとうございます。
クッキングホイルさんおブログでmugiさんのお名前は拝見していましたが、
mugiさんのブログは一度も見たことがありませんでした。??
しかし、その「震災を利用する者たち」の記事を読むと、
私と考え方が一致する部分が多いことに驚きました。
>昔から「タダくらい怖いものはない」というではないか。
>「見返り」 を求めない支援などあるのだろうか。
まさにこれは同感。
結局、あの手の伝道は震災に遭った人の弱みに付け込んでいるのです。
被災地に行って聖書を配るとはなんとおマヌケなのでしょう。
お金や食料や住宅よりも聖書が大事だと思っているアッパレな人たちですね。
そういう人たちは、何も食べないで聖書だけで生きて見せればいいのです。
> 私は小学三年生の頃、校門の前に陣取っていた白人宣教師に「キリストを信じない者は地獄に落ちるからね」と脅されたことがあります。それが私の耶蘇嫌いの原点でした
私は、この教えを小さい頃から教会で聞かされてきたがために、
ずっと死後の恐怖を背負いながら生きる羽目となってしまいました。
キリスト教とは、信者に死後への恐怖心を植え付け、教会につなぎとめる宗教なのです。
教会側は、「そんな風に教えたつもりはない」と言ってもムダです。
雰囲気や言葉遣いだけはきれいですが、
結局は死後への恐怖心を植え付けて献金や懺悔をさせるようにできているのです。 Re: タイトルなし
> キリスト教の協会とか修道院とかが組織的に被害者救済に動いてくれているのならばまだしも……そんな話は聞いたことが無いんですよね……。
かのフランクリン・グラハム大会のように、
信者獲得のためには躍起になるのに、
こういう災害時の被害者救済のために
教会が組織ぐるみで動いた話は確かに聞きませんね。
ただし、もしも教会がそれをやったら、
マタイ6章冒頭の教えに矛盾するというジレンマを抱えることになります。
「善意は人前で見せるためにすべきではない」という教えがありますから。
もっとも、教会が組織ぐるみで救済活動を行わないのは、
その教えの影響かどうか知りませんけど。
なお、「主の祈り」が登場するのはまさにその箇所の直後です。 彼らとは宗教観が違いすぎてまず土台から噛合ってない予感。
宗教は「調味料」みたいなもんで、あってもなくてもいいし、好みの物を振りかけておけばよし、ていう感覚。
宗教そのものが善悪の基準になってること自体が気持ち悪い。
〜教を信じていれば犯罪者でも救われるべきで、信じていなければどれほどの善人でも善と認めないとかイミフ。 >>75
私はこう思いました
盗んだ金で商売繁盛してもただのドロボー
全然意味不明じゃないです ユダヤ教から見るとイエスは、ただの異端者なんだが。この程度の扱いなのな。
イエス自体がユダヤ教の熱心な信者だったが、肝心のユダヤ教のラビたちからは認められていない。
>>ユダヤ教のラビたちが理想としたのは、地上に天の国を打ち立てることであった。
それははるかなる道のりであろうが、少なくとも不可能ということはないし、律法を順守して生きることの論理的帰結でもあった。
ラビたちから見れば、一気に地上の世界が終末を迎え、天の国が来るというイエスの教えは、ラビたちの常識に反するものであった。
ユダヤ教から見れば、イエスは幻想を見たのであり、ユダヤの伝統の中から咲きでたあだ花であった。 キリスト教会に、12年近く行きましたが、ほとんどの奴らが、
人の幸せなど願わない、クズどもだとわかりました。
「戒め」を守る私って、清らかでしょ?
「イエス・キリスト」の福音を知らない人って、かわいそう。
「ほどこし」をする私って偉いわ。 みたいな。
選民思想と虚栄心が渦巻く、吐きそうな世界でした。
その後、いくつかの教会を見てきましたが、「信仰」という言葉とは
ほど遠い人たちが、いっぱいいました。もちろん、
誠実な人たちにも、たくさん会いましたが、それは少数派でした。 長崎に原爆を落としておいて、キリスト教が布教出来る程、日本人が馬鹿だと思っているのかね?
もともとの教義が水が豊かで人々が協調的な日本ではしっくりこないところが多かった上に、長崎の原爆で信じていても救われない事が明らかになってしまった以上、増える訳がない。
父方の家が明治のパワーエリートで、クリスチャンの家なのだが洗礼を受けた理由は、「欧米の情報、洋書がいち早く手に入るから。」
それ以外の教義などには全く重きをおいていなかったし、欧米との格差が無くなってきた今となっては、教会へ行くメリットも少なくなっているから、教会とは疎遠になってきているな。 †
30歳くらいで急にイスラエル・ユダヤの田舎(ガリラヤ地方)に現れて、3年ほど布教して
33歳あたりで処刑されただけの、いわゆる大工の息子が、未だに世界一の有名人。
全世界総計約30億人ともいわれるキリスト教を信仰する人間の数。
聖書は現在もベストセラー継続中。人名も文化も戯曲も芸術も近代憲法まですべてが聖書を参考にされ、
とりわけイエス・キリストの影響が散見される。彼が生まれる前に書かれた旧約聖書には、
数え切れないほどのイエス・キリストに関する的確な預言・・・・たった3年だけ活動した人を
ダンテ、ゲーテ、ダヴィンチ、ドストエフスキー、ニーチェ、パスカル、ニュートン、アインシュタイン、
そしてジョン・レノンが嫉妬するだろうか?
アメリカ大統領の宣誓式で新約の入った聖書を使うだろうか?
イギリス王室がキリスト教の洗礼式を行なうだろうか?
バチカン市国などという国家が存在するだろうか?
クリスマスが存在するだろうか?
またモーセを苦しめたエジプトのファラオ、古代イスラエル王のダビデ、息子ソロモン、あるいはネブカドネザル、
キリストを裁いたピラト総督、ヘロデ王、同時代のバラバ、サロメ、アグリッパ王、パウロ、 後の時代の
アウグスティヌス、ルター、ヤン・フス、フランチェスコ、マザー・テレサ・・・・みな実際に存在した。
歴史上の事実である。
信仰者数12億人ともいわれるイスラム教においても、旧約の聖書は啓典とされ、
イーサー(イエス)は偉大な預言者であり、wikiによれば、「イーサーは殺されることも磔にされることもなく、
生き続けて天国に上がったとされる。イスラームの伝承では、イーサーは最後の審判が近づけば地上に戻り、
司法を復活させて偽のメシア(al-Masīḥ ad-Dajjāl 。偽メシア、反キリスト) を打ち負かすと考えられている。
いずれにせよ、実際に我々が使用しているイエス・キリストを分水嶺に存在する西暦ひとつをみても・・・・
もしイエス・キリストの存在が嘘で未だに世界最大の影響力を示し続けているというなら、
あるいはそのほうが天文学的な確率の奇跡と言わねばなるまい。 こんにちは。
先日は私のブログに来てくださってどうもありがとうございます。
キリスト教に疲れ、人生を狂わされている人も少なくないことを、
もっと広く知ってもらいたいですね。
私はクリスチャンの家庭に生まれ育ち、
普通の子供とは違う価値観を植え付けられてきたので、
学校生活では人付き合いにずいぶん苦労しました。
それを社会人になっても引きずったままで、
今、職場で人間関係に戸惑う毎日です。
本当に毎日逃げ出したくなるような気持ちです。
そんな時、自分の生い立ちが恨めしく感じます。
私がクリスチャンの嫌いなところは、
キリスト教に欠点があることを絶対に認めないことです。
私の体験談を話しても、
「それはあなたの信仰が足りないから」
と言われるのがオチです。
信仰でなんでも解決するなら苦労しません。
私の身近なところで、自殺したクリスチャンを知っています。
そういえば、長崎のスポーツセンターに押し入り、
銃を乱射させて多くの人を殺し、
挙句の果てに教会で自殺したクリスチャンもいましたよね。
にもかかわらず、クリスチャンはキリスト教の欠点を絶対認めない。
本当に腹立たしく思います。
キリスト教は、あくまでも世界中に多数ある宗教の中の
一つに過ぎないことを分かってもらいたいです。 ローマ法王ベネディクト16世が22日、イタリア国営テレビRAIの番組で、東日本大震災を経験した日本在住の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」との質問に答えた。??
質問したのは千葉市に住むエレナ・マツキさん(7)。自宅マンションのベランダで撮った日本語のビデオレターで尋ねた。??
これに対し、法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」と答えた。??
ベネチア近郊に住む祖母ジアーナ・デル・リオさん(63)によると、エレナさんは地震発生時、10階の自宅に日本人の母親と一緒にいて、強い揺れを何度も経験。同年代の子どもがたくさん亡くなったことを知り、法王に質問をしたような疑問を抱いたという。??
法王は「悲しさは消えない。しかし、世界中の人たちがあなたたちのことを思っており、私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」とも述べた。(前川浩之)?? 未曾有の大地震から早くも2ヶ月が経過しようとしています。
私は、この震災に関するクリスチャンの反応を興味深く見ていましたが、
ついに、あのローマ法王が震災に関して言及したことが報道されました。
アサヒ・コムからの記事をそのまま引用して私の意見を書かせていただきます。
ローマ法王ベネディクト16世が22日、イタリア国営テレビRAIの番組で、東日本大震災を経験した日本在住の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」との質問に答えた。??
質問したのは千葉市に住むエレナ・マツキさん(7)。自宅マンションのベランダで撮った日本語のビデオレターで尋ねた。??
これに対し、法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」と答えた。??
ベネチア近郊に住む祖母ジアーナ・デル・リオさん(63)によると、エレナさんは地震発生時、10階の自宅に日本人の母親と一緒にいて、強い揺れを何度も経験。同年代の子どもがたくさん亡くなったことを知り、法王に質問をしたような疑問を抱いたという。??
法王は「悲しさは消えない。しかし、世界中の人たちがあなたたちのことを思っており、私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」とも述べた。(前川浩之)??
「なぜ悲しい思いをしなければならないのか」
この質問に対するローマ法王の回答は、
まったく普通のクリスチャンと変わらないお決まりの内容でした。
法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。」と言ったそうですが、
「答えはないかもしれない」ではなく、
要するに「答えられない」のです。 次に、十字架に付けられたキリストの話をお約束のように持ち出していますが、
キリストが十字架に付けられたことと今回の震災が、
一体何がどう関係あるのでしょうか。
クリスチャンは何でもかんでもキリストの十字架刑に結び付けるのがお好きです。
キリストが十字架に付けられてこの世の何が物理的にどう変わりましたか?
そして、「神は常にあなたのそばにいる」
とこれまたお決まりのセリフが出てきますが、
神が私たちのそばにいるから何がどうだと言うのでしょうか。
現に震災が起こってしまったではありませんか。
神はそばにいながら一体何をしていたのでしょうか。
クリスチャンはそれについては決して答えようとはしません。
少女は、「神がいるのになぜこんな思いをしなければならないのか」、
と質問しているはずです。
それなのに、ローマ法王は一見もっともらしく回答してはいますが、
結局は答えになっていないのです。
そんじょそこらの普通のクリスチャンとまったく同じレベルの回答なのです。
こんな人が「神の代理人」とは何とも滑稽です。
「私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」
これまたクリスチャンの決まり文句です。
祈ったからと言って被災者の何がどうなるのでしょうか?
被災者にテレパシーが届くとでもおっしゃるのでしょうか?
神様が被災者に何かしてくれるのですか? クリスチャンが「〜のために祈ります」と言っているのは、
要するに自分が質問に答えられないのをごまかしているだけのことなのです。
私も牧師さんに悩みを打ち明けたことがありますが、
結局は「あなたのために祈っています」とお茶を濁されました。
良いことが起こったときだけ
「ほら、神様のおかげですよ、神様は本当にいるのですよ、
神様は祈りを聞いているのですよ、だから神様を信じましょう」
と、得意げに胸を張って神の正当性を説くのに、
悪いことが起こると
「神の御心は私たちには分からない」「〜のために祈りましょう」
などとごまかすのがクリスチャンの習性なのです。
今回のローマ法王の発言で皆さんよく分かりましたね?
日本のクリスチャンは日本でキリスト教が普及しないことを嘆いていますが、
クリスチャン人口を増やしたいなら、
誰もが納得できる答えを用意してはいかがですか?
しかし、「神の代理人」でさえこの程度のことしか言えないのですから、
これで神の愛を信じろと言われても無理です。
あきらめてください。 >>87
聖書の物語の最後はそーなるよ
俺は聖書の神を呪ってる 「聖なる、真実な主よ。いつまでも裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐を
なさらないのですか。」
額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放たれた。
口からは火と煙と硫黄とが出て、人類の三分の一は殺された。
「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に
支配される。」「万物の支配者、常にいます神である主。あなたが、その偉大な力を
働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、
あなたの御怒りの日が来ました。死者の裁かれる時、あなたの僕である預言者たち、
聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに
報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
第一の鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々に、
ひどい悪性の腫物ができた。第二の鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の
血のようになった。海の中の命あるものは、みな死んだ。第三の鉢を川と水の源とに
ぶちまけた。すると、それらは血になった。
「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、
このような裁きをなさったからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を
流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるに
相応しい者たちです。」
獣と偽預言者は、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
残りの者たちも、馬に乗った方[キリスト]の口から出る剣によって殺され、
すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。
(ヨハネの黙示録より) オウム真理教の麻原彰晃と
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に共通のモーセやヨシュア の
共通点。どちらも
(1)圧倒的影響力のある指導者が、
(2)宗教的理由付けによって殺人を正当化し、
(3)それを命令し、
(4)信奉者たちが、その命令にしたがって殺人を実践した。
(5)殺人命令を受けた信者たちは、もしその命令を 実行しなかったら、彼ら自身が
ひどい目に遭うであろう、と 脅されました。
もし、オウム真理教の信者であれば、坂本弁護士の家族は、そのままほっておけば、
悪行を重ねて地獄に堕ちてしまうので、シヴァ神の指示にしたがって、
ポアすることによって、善趣へ転生させてやるのが慈悲の行為になります。
もし、旧約聖書の神を神とする信者であれば、ヤハヴェ神の命令に従って、
幼児殺しとミデアン民族を絶滅させることが信者の取るべき正しい行動となります。 天国の描写
玉座があり上に座っている方は、碧玉や赤めのうのようである。玉座の周りには
エメラルドのような虹が輝いている。また、玉座の周りに二十四の座があって、
それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が
座っている。玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こる。また、玉座の前には、
七つのともし火が燃えている。また、玉座の前は、水晶に似たガラスの
海のようである。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいて、前にも後ろにも
一面に目がある。第一の生き物は獅子のようで、第二の生き物は若い雄牛のようで、
第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようである。
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、
一面に目がある。彼らは、昼も夜も絶え間なく
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、
今おられ、やがて来られる方。」 と言い続ける。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門がある。都の城壁には
十二の土台がある。この都は四角い形で、長さと幅と高さが同じで、天使が物差しで
都を測ると、一万二千スタディオンである。また、城壁を測ると、
百四十四ペキスである。これは天使が人間の物差しによって測ったものである。
都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金である。
都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られている。
第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、
第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶である。 また、
十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一個の真珠でできている。
都の大通りは、透き通ったガラスのような純金である。
(ヨハネの黙示録より) >>89
これはエロヒム、YHWHは呪われユダヤ人やキリスト教徒は憎まれてもしょーがないね 歴史上、「神の名のもとに」と殺した数(異教徒だけでなくキリスト教同士で)ではキリスト教がダントツだろ。
近年のイスラムのテロやISくらいでは桁が違う。 Re: "ずるい”信者です。
> 桃栗様
> 先の二つの投稿は桃栗様の背景を存じ上げないままいたしました。
> 何ゆえ桃栗様がこれまでにキリスト教を責められるのかわかりかねておりましたが、ようやく少し伺えたように思います。
こんにちは。
私は身元を特定される
ようなことはなるべく書かないようにしていますが、
本当はブログには
書けないもっともっと複雑な事情があるのです。
できることならクリスチャンにその怒りをぶつけたいですけどね。
> 私は大人になってから
カトリック信者になったものですので、"ずるい"者のうちになります。
その通りです。
> 死ぬ間際に洗礼を受けたほうが得じゃん!ということですが、子供のころから教会の教えを
知らなかった私としては、その分ずいぶん損したなあ、という感じです。
私は正反対です。
生まれた時からキリスト教の中にいたので、
人生をずいぶん損したなあという気持ちです。
> でもこれは自分から信者になったからこういう考えになっただけかもしれないので、押し付ける
つもりはありません。私としては、生きている間に神と神の教えによってもたらされる心の平和
(キリスト教徒によってもたらされる心の平和、ではなく)に与ることが幸運だと考えるわけです。
信じている本人はそう言いますよ。「私は信仰を押し付けていない」とね。
しかし、残念ながら押し付けている自覚がない人が多いのです。
だから白人のクリスチャンは
世界中の未開の地に押しかけ、
先住民たちをキリスト教に改宗したのです。
日本も危うくポルトガルの植民地になるところでした。
> 実際、十代の若者が信仰によってよい決断をしていくのをみると、ああ、私もあれだけの知恵があったら馬鹿なことしなかったのになーと思います。
別に信仰していなくても馬鹿なことをしない人はいくらでもいますよ。
逆に信仰していても
馬鹿なことをする人もいます。
今、私が十代で信仰告白をする人を見たら、
「ご愁傷様」と思うと思います。 そろそろ
『神に見えたので刺しました』
という犯行動機を話す奴が出てきそう
それだけ今の日本社会は怒りで満ち溢れている >>95
まぁ、ユダヤ系宗教のエロヒムはサタンだのイブリースだのあらゆる悪魔とされてる存在より最も悪魔的だよな
もぅ悪魔がいるならユダヤ系宗教のエロヒムだろ 「イエスという方が贖罪の為に身代わりとして十字架上で死んだ」
「三日後に復活された」「父なる神のもとである天国に帰った」
「永遠の命が与えられる」
いずれの主張も事実としての根拠が全くありません。根拠が全くない怪しげな主張を
「何の不安もなく信じることが出来る」、と言える人は、
自分を誤魔化すことのできる人だけだろうと思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています