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聖体奉仕会2〜秋田の聖母マリア101回の涙の奇跡〜
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/09/20(木) 12:38:49.16ID:va7ZpVtM
秋田県秋田市添川湯沢台の聖体奉仕会、秋田の聖母マリアについてお話しましょう。
秋田の聖母マリアのメッセージとは、101回の涙の意味、共にお話しましょう。

秋田の聖母マリア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2

前スレ 聖体奉仕会〜秋田の聖母マリア101回の涙の奇跡〜
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1435744378/
0488神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/31(日) 14:30:22.36ID:eWlYzFUQ
★☆★世の終わりと主イエズス・キリストの再臨は間近い★☆★
聖書の御言葉によって約束された
主イエズス・キリストさまがこの地上へ再びおいでになる「その年」。
ここでは「その年」を聖ヒルデガルトによる預言、
またファティマ、ルルド、グアダルーペなどにおきた奇跡の年や、
聖人の方々の生誕年・帰天年などから西暦2030年頃ではないか、
という仮説を立てて検証してきました。
そうして「この世の終わり」−西暦2030年に至るまでに
世界がどのように変容し崩壊していくのか、そこに行きつくまでの過程を、
聖書に記さている終末預言に照らし合わせて、考察してみることとしました。

そこで今回は、主イエズス・キリストが再臨されるとき、
具体的にどのようにしてこの地上世界においでになられるのか、お姿をお現しになるのか、
ということについて考えてみたいと思います。
「この世の終わり」のとき、主イエズス・キリストがおいでになられるご様子は、
聖書の御言葉によって数多く示されているとおり、よく知られています。
主イエズス・キリストご自身が
「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、
悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのをみるのです。」
(マタイによる福音書24章30節)と語られており、
また天のみ使い(天使)によっても、
「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。
あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、
天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
(使徒言行録1章11節)と示されています。
0489神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/31(日) 14:38:08.75ID:eWlYzFUQ
(>>488よりつづく) ここで「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で」とあるので、
おそらく同じ有様−雲に包まれて−いらっしゃるということは間違いないでしょう。
主イエズス・キリストが再臨されるときのご様子について、
聖書では「雲に乗って来られる」という表現が使われていますが、
その「雲」という名詞が使われている各箇所の前にある前置詞を調べてみると、

➀マタイ24章30節・・「エピ」(έπί)。
 その並行記事のマルコ13:26とルカ21:27は・・「エン」(έν)
Aマタイ26章64節・・「エピ」(έπί)。
 その並行記事であるマルコ14章26節では・・「メタ」(μετά)
B黙示録1章7節・・・「メタ」(μετά)。

となっていてそれぞれに違うそうです。
それぞれの前置詞については、
「エピ」(έπί )は、本来、「〜の上に座して」という意味。
「エン」(έν)は、本来、「〜の中に、〜に包まれて」という意味。
「メタ」(μετά)は、本来、「〜と共に、〜を伴う」という意味。だそうです。

ですから原語の本来の意味により忠実に訳すると、
主イエズス・キリストは「雲に乗って−雲の上に座して」という表現だけではなく、
「雲の中に」「雲に包まれて」「雲と共に」「雲を伴って」いらっしゃるという表現も正しいということになります。
聖書においては「雲」は出エジプト記において主なる神さまが「雲の柱」「火の柱」によって
イスラエルの人々を導いたエピソードでもよく知られるように
(ほか主エジプト記40章34節〜35節、第1列王記8章10節などもそうですが)
神さまのご臨在のしるしであり「神の栄光の顕現」を意味するものといわれます。
0490神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/31(日) 14:51:07.06ID:eWlYzFUQ
(>>488-489よりつづく)
よって主イエズス・キリストは、その取りまく「雲々−主の再臨を表す聖書箇所では多くが複数形表現」によって、
ご自身が主なる神さまの栄光に包まれ、伴っておいでになられたことが誰の目にもわかるように
お姿をお現しになると考えていいのではないかと思われます。
それほどまでに神々しい雲々ということなのかもしれません。
そして「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、
ちょうどそのように来るのです。」(マタイによる福音書24章27節)とあるように、
主イエズス・キリストはいなずまのように瞬く間に全世界に来られるのです。
カトリックの聖人で知られるピオ神父さまがご自身のお体でお見せになった
バイロケーションの奇跡は同時に2ケ所だったそうですが、
おそらく三位一体の神さまの御子であられる主イエズス・キリストは再臨されるとき、
ひょっとすると全世界で同時に数百か所、数千か所、
いやもっと多くの箇所でお姿をお現しになられるかもしれないですね。
わたしたちキリスト者はもちろんのこと、そうではない未信者の人たちが
もしそこに居合わせたならば、腰を抜かしてしまうかもしれません。
もちろんおそらくは大患難期を経たそのとき、
すべての人がこの地上にある肉の目でみることになるとはかぎりませんが。
0491神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/05/31(日) 14:59:27.34ID:eWlYzFUQ
>>469-471 >>484-485よりつづく
(>>488-490よりつづく)
カトリックの聖人ピオ神父は、ご自身のバイロケーションの奇跡について尋ねられ、
次のように答えておられます。

質問者「神が聖人を、例えば聖アントニオをバイロケーションにより他の土地へ派遣する時、
     聖人に何が起きているか分かりませんか?」

聖ピオ神父「この一瞬彼はここにいる。他の瞬間、彼は神の望む場所にいる。」

質問者「しかし、彼は二か所に同時に実際にいますか?」

聖ピオ神父「はい」

質問者「どのようにして可能ですか?」

聖ピオ神父「その人の存在の場を広げることによって可能なのです。」
聖ピオ神父「これらの事柄が起こる時、主は(バイロケーションの奇跡を)その人だけが見ること、
       とその瞬間だけ見ることを許す。他の誰にも見えない。
       そうでなければ、どれだけ多くの奇跡を主は行わなければならないだろうか?」

しかし、主イエズス・キリストが再びおいでになられるとき、ヨハネの黙示録1章7節にあるように、
主のお姿はすべての人たち−「すべての目」に現れることでしょう。
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
主の再臨を待ち望んで祈りましょう。ほんとアーメンです。
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