見性のあるなし、迷悟ってのは事実で差別だけど、仏法からすると、迷悟すらない。。

迷悟すらない。迷いは迷いという法、比較を絶している。。

誰の様子でもそうだよ。比較のしようがない。是非善悪しようがない、法そのもの。。

だから、只管打坐の問題ってこれだわな。。
最初に空とか無に入っていくんじゃなくて、見性を目指す。
と見性の結果、悟りが取れなくなちゃう。。

すぐれた師がいればいいけど、そうじゃないと、野孤みたいになってしまう可能性がある。。

だから、悟りだけ得ても、ある意味方わの人間になって終わりということになりかねない。。