【仏教】 悟りを開いた人のスレ312【天空寺】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
元オウムとてんぐはヒドイな。。 心とは何か、まったくわかっとらんやん。。 で、わからんまま是非善悪する。それを無明というのだよ。。 一人で修行してクンダリーニが上がって慢心してしまった、というのが麻原であり、ラジニーシであり、てんぐ。。 何にもわかっとらんことがわかっとらん。。 >>566 だから言っているんだがねえ 聞く耳を持たない人もいるんだな >>570 後半が無いね。 自我は幻想ってのはいいけど、心は幻想ってのは間違い。 >>570 それか分かりませんが、キンドルの見本版で全文読めたような・・・ サンガの2017年春号。 >>573 いいえ、あなたの佛教理解が浅いのです。 >>577 心とは何か? 自明のものと思ってるだろ? それが無明だということ。。 心も人間も実体視しているのは明らか、それが無明です。。 >>579 そーゆー用語の定義なんてどうでもいいよ 心のおしゃべりが完全に止まることを無心と呼んでるだけやし 心のおしゃべりが完全に止まった状態で どうやって腹を立てるのかって聞いとるだけやしw >>580 >心のおしゃべりが完全に止まることを無心と呼んでるだけやし だから、これは色の世界、ぜんぶ実体視してるわけだ。。 それにまず気づこう。。 空ということがわかってない、われわれが言う無心も同じくわかっていない。。 >>583 心のおしゃべりが完全に止まれば 心は空やで? 何も無いんやから おれは実際の話をしとるだけやから きみらの教科書と違うとか言われても知らんがなw >>584 ちがう。。 おまえは自分の心があると思っている、自分もあると思っている。。 で、その自分の心が静かになった、無心になったと言って喜んでいる。。 これを無明、迷妄と言います。。 だから、慢心するしかないの。。w 心が幻想って言い方はおかしい。感覚、知識、意志、認識は現実でしょう。 無常、苦、無我ではあるけども、幻想だ、本当は無いんだって言ったら業も輪廻も因縁も全否定じゃない。 涅槃に入ったら心は無くなるかもしれないけど、現実に生きている人間には五蘊はあります。 てんぐさんの信仰の自由を邪魔はしないけど、あなたこころの理解について佛教的な視座から論ずると、余りにも次元が低すぎる。 >>581 引っかからないようにしなさい・・・・解脱がある これ^^ 240因縁果 ◆d........o 2018/08/15(水) 10:08:23.17ID:K7E0C0Kd 曹洞宗のお坊さんが来て般若心経唱えてた^ ^ やっばり^ ^ むけげむけげやが悟りの境地やな^ ^ 241因縁果 ◆d........o 2018/08/15(水) 10:21:36.66ID:K7E0C0Kd 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 これもやな^ ^ 242因縁果 ◆d........o 2018/08/15(水) 10:25:36.04ID:K7E0C0Kd>>249 おまらは顛倒夢想 しているから^ ^ 引っかからがあるということやな^ ^ うん? 引っかからじゃないな^^ スマさん般若心境から引用してる^^ >>585 喜ぶも何もずっと心は静かなんやがw 慢心してるように見えるんか? 駄本に洗脳されてるんだから仕方が無い。 糞凡愚は宮崎哲弥の真似で、何が何でも自分が正しいことにしたいだけ。 仏教理解浅いとか人を揶揄してるが、駄本をかじって実践してるつもりの糞凡愚に言われると はぁ?となりますわ(笑) それで相手はこんなの相手にしても無駄だと悟りレスし無くなる。 それで糞凡愚は議論で勝ったと勘違いするわけ。 その繰り返しですわ。 >>587 まぁ、そこら辺は科学者と佛教者の対話で、白黒つける為の席ではないと思います。 >>596 じゃあ、今からあなたを思いきりぶん殴りますけど、怒らないで下さいね。幻想ですからwww >>593 他人の知識や体験に対する妬みや嫉みですか。 オームの幻想から卒業されてない様ですね。 スッタニパータ yo n'āccasārī na paccasārī, 'sabbaṃ vitatham idan' ti ñatvā loke. 行き過ぎることもなく、おくれることもなく、世界における「この一切は虚妄である」と知って 心とはうろつきまわる道化師だ。 離れなさい。それはあなたではない。 猿芝居として見なさい。 ァスペとコミュするのは肉体労働より疲れますからね(笑) まさにそうでしょ?テングさん。 リアルでそういう人と仕事で一緒になったけど、自覚なしに人を怒らすような言動をとるし、人の話も正しく聞けないから何度も同じこと言わなきゃならない。 何十回とね。でも本人は「うーん」と半信半疑みたいな感じ。 >>568 >天空の〜とかいう人って覚者なの? 道端に転がってる大きなウンコを指差してひそひそ話するようなノリはやめてもらえないだろうか。 ま、本音を話すとだ。 ちょっとキャラクタに個性をもたせようとしてチラリと覚者を自称してみたわけだが、皆から反応がなかったんだよ。 あれれ?失敗したかな? と思ってだんだん自称覚者を強調していったんだけどさ、ほんとに無反応なの。 たぶんね、チェンジブラインドネスという現象が発生したんだと思う。 いわゆるアハ体験的な。 アハ体験 https://youtu.be/AdBAk1j8H5E 人はゆっくりとした変化には気づきにくい。 たぶん皆、天空のシャウエッセンが覚者を名乗ってることに気付いてないんだと思う。 まったく反応ないからね。 >>588 煽るのはやめろw 三界唯一心、心外無別法 仏教で「心」といえば、こういうことかと 一般的に「心」というと、「思い」とか「気持ち」「感情」を想起しちゃうけど >>605 いやいや、初めてレス読んだ時、あまりのセンスの良さにビビったのはマジですw 幼児語についてのレスでしたw >>597 金剛般若経 第十四章 「スブーティよ、かつて、ある悪魔が、 私の体から、肉を切り取ったことがある。 その時さえ、いかなる思いも生じなかった。 思うという思い、思わないという思いもない。」 「もし、あの時に、自己があったなら、 その時に、怨恨の念が湧いていただろう。 もし、あの時に、種々の観念があったなら、 その時に、怨恨の念が湧いていたに違いない。」 「スブーティよ、わたしは、過去世に、 忍辱を説く者という名の、仙人であった。 その時も、私は、種々の観念を離れていた。 それ故、あの時も、種々の観念を離れたのだ。」 https://gamp.ameblo.jp/0358rainbow/entry-12291549474.html 因果果もこのレベルに達しているかもしれんww 元オームとてんぐは、でおーの子分らしく、 9時過ぎたら消えないの? しかもァスペは、自分がピンチになるといきなり開き直って見え見えの嘘を言ってきたりする(笑) 六十過ぎのオヤジがだよ。 しかし資格の試験は強かったりする。特定分野の記憶力は高い。 糞凡愚も普通どうでもいい何年何月号とか記憶してる(笑) まさにァスペ。コミュはめちゃくちゃ疲れますからね(笑) 今日は墓参りに行ったんだがね。 まるで我が家の様だったよ。 鐘の音の重低音はレディオヘッドのベースよりも唸っていたね。 怒りに関してはノコギリのたとえだよ。 生きたままノコギリで首を切られても、怒ってはいけないとお釈迦様はおっしゃった。 >>560 俺たちは場違いみたいだw >貧乳・巨乳になる理由 おいおい、そんなのよく拾ってくるな。 結論から言うとアホ変態は巨乳になると。失礼なw アクアを説明してみw >ちなみに俺は覚者だからネットの書き込みだけで 何、覚者だったのかw >そいつが巨乳か貧乳かわかるし、乳輪のサイズや色合い(RGB>値)まで当てられる。 まさに、和真(〇〇〇)だなw あれ、和真にそんな才能なかったか。 そうだ、ハイスクールDXDの変態3人組の中の一人にいた。 >そんなことよりオーバーロードみてるのか。 >6話よかったなぁ、今さっきまた見てた。 >いよいよ墳墓侵入だよ! 私も楽しみw 今期作品でおもしろいのがある。 「ぐらんぶる」 大学のスキューバダイビングの話なのだが。 新入部員二人が変態的乗りが面白いです。 >>615 應無所住而生其心 だからなんでもありだよ >>618 まぁ結局、仏教を理解しても実行できんのかって事になるな。 >>615 「意思を放棄した人間は人間にあらず!!ただ笑いと媚びに生きてなにが人間だ」 >>620 一皮むけて、超えるんじゃないか。 何を越えるか知らないけどw >>620 その通りだ。 全てを放棄しなさい。 あなたは人間でさえないのだ! >>608 >いやいや、初めてレス読んだ時、あまりのセンスの良さにビビったのはマジですw だろう、幼女語の話はそこそこウケる自信はあったんだよ。 でもまったくレスがつかなかった、おかしいだろうここの連中は。 いちおう『夕』っていう話に付き合ってくれる奴が、(レスがつかないことを)哀れむ感じでとりあえずレスつけててくれたけど。 >>616 >俺たちは場違いみたいだw 今ごろ気づいたのかよw >おいおい、そんなのよく拾ってくるな。 貧乳を黙らせるときの材料は多いほうがいいからな。 >アクアを説明してみw アクアの性格はめちゃくちゃ好きだ。 よく食べてよく寝て楽観的でプラス思考で。 んだからアクアもちゃんと巨乳じゃないか。 >何、覚者だったのかw 絶妙だろう、ポジションが。 それにツッコンだら負け的な雰囲気になってるからな。 >そうだ、ハイスクールDXDの変態3人組の中の一人にいた。 それまだみたことないな。 >私も楽しみw だろう俺もここからがすごく楽しみだ。 >今期作品でおもしろいのがある。 >「ぐらんぶる」 設定がいまいちっぽいが、でもチェックはしてみるか。 涅槃には有余涅槃と無余涅槃があって、ブッダも阿羅漢も、有余涅槃の時は五蘊はまだあるらしいんだが、煩悩は全く無いそうだ。 804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。 805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。 この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。 806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。 われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。 808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。 809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。 それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。 (スッタニパータ 老い より) http://suttanipata.com/eea/ >>591 自分の心が静か、と見ているうちは、無明だっての。。 >>632 別に無明でも構わんがw 心は静かなんだわw おれは現実を話してるだけに過ぎんよ 近代仏教学では、クンダリニー・ヨーガが仏教の中で本格的に修行さ れるようになったのは、八世紀にはじまる後期密教からで、それもヒンドゥー教のヨーガとの接触によって影響を受けたのだという考え方が、支配的だ。 実際、現在ビルマやスリランカに伝えられ、シャーキャムニ・ブッダの教えにもっとも忠実だと考えられている上座部仏教のなかには、座法と呼吸法の制御によって、クンダリニーを覚醒させるという修行法は見あたらない。 ところが、彼は、野蛮にも、この仏教学の『常識』をクンダリニー・ヨーガの体験から、あっさり転倒してしまうのだ。 後に麻原彰晃に多大な影響を与えることになったとされるラマ・ケツン・サンポ+中沢新一『虹の階梯』 の初版が平河出版社から刊行されたのは一九八一年である。 (中略) 確かに当時「八正道や止観の瞑想」には飽き足らないものを感じていた仏教研究者のなかに、この本に記されたエキゾティックかつエソテリックなヨーガの加行法にある種の活路≠見出す者がいたとしても不思議ではない。 だが四諦、八正道の教義や止観の修法に限界を感じたという仏教学者たちは、本当に失望するほど初期仏教の教えや修道に精通していたのだろうか。 パーリ聖典、ニカーヤ、阿含経典を熟読していただろうか。 その瞑想実践である観行(ヴィパッサナー瞑想)、止行(サマタ瞑想)を十分に修していたか。 大いに疑問だ。 当時ポップカルチャーの世界には、各種オカルティズム、超心理学、超古代史、終末論、陰謀論などが瀰漫 していた。 価値の相対化はたちまち単なる価値の紊乱に転落 し、普遍的なリアリティは無秩序な「差異の戯れ」に放散していった。 その潮流が仏教や仏教学の世界にも流れ込み、密教ブームやチベットブームを牽引することになった。 かかる状況の下で、初期仏教を、ヒンドゥー教のサーンキヤ学派や後期密教、グノーシス主義などの神秘思想、神智学などと習合≠ウ せようという構想はごく自然ンなものと受け止められた。 大事だよなぁ、↓ 普遍性や一般性への志向が失われ 、論理性や実証性は軽んじられ 、すべては修辞と解釈相様に過ぎないという相対主義が勢いを増しつつあった 。 こうしたなか 、仏教学という領域で 、頑なまでに資料文献の実証性に立て籠もって他説を斥け続けた三枝の態度は異様に映ったのである 。 論争に臨んだ彼の意図を再度引用しておこう 。 「概念の規定が不徹底ですと 、なにもかも一つになってしまい 、いわゆる仏教フロシキ論によって 各々が曖昧模糊のままで一枚のフロシキにまるめこまれる危険性があり 、それは仏教独特の諸思想の多様性とは全く似て非なるものであることを 、充分に顧慮しなければならないでしょう 」 人と触れ合う愛欲に溺れずに生きてきたそろそろ悟れるか?と思えばそうじゃないが愛は無常で悟りから遠のかせるのなら童貞の方が覚者としては成立すると思う まあ何年も修行やら勉強してきた人間からしたら なんも知らんと覚醒した人間なんか認められへんもんなんかも知らんなあw 童貞ぐらい捨てとけw ここにおるやつらみたいに拗らすぞw >>641 もう半ばヤケに近い職場も男しかいないし出会いの場へ行く金も時間もない >>633 どう説明していいやら? 教科書読んで勉強してくれと言っても反発するんだろうしな〜。。 じゃあ、「心があって、それが静かだ」という判断は誰がしてるの? >>643 意識やな 思考が働いている状態と思考が止まっている状態を比較すれば判断は可能 意識が覚醒しているから無意識は存在しないしね 「キリストや釈迦などは、クンダリーニ覚醒によって悟りを開いた人たちなのです。」 こんなキチガイが世に蔓延る始末www 心が静かかどうかは我において比較級だよ 普段の自分より静かであれば、静かである、と認識する たかだか普段の自分より少しばかり静かになったぐらいで、悟りじゃーとか言いたくなるのは普段何にも努力してない証拠 でも、小さな一歩でも、その個人にとっては大きな一歩なら、それでいいじゃまいか 麻原は釈迦は原始仏典に則ってはいないって言ってたぞこれが本当かは知らないが >>648 いやいや完全に止まるんだよ おれの場合はw >>645 だけど「心が静かだ」と言語化しているということは、自我の認識なわけだろ。。 ここまでは、OK? >>650 完全に止まるんだよ、という執着がなくなれば、もっと深いところに行けるようになるかもよ 知らんけど >>651 自我の認識とは少し違う 蝉が鳴いているか鳴いていないかを認識するのに自我は必要ないようにね >>652 別に執着などしとらんよ 事実を述べているだけで 蝉が鳴くのを認識する時は、そりゃあ我は消滅して「蝉が鳴く」になるわな でも、そんなことは誰だって普段、無意識でやってることで、誇ることでもわざわざ言うことでもない 認識ってのはそもそもそういうもんだ >>654 ふーん、そんなんだ 完全ってなんなんだろうね 止まるってなんなんだろうね >>653 それはそうだけど、あなたは「おれの心は常に静かだ、おまえらは違う」と言語化して比較しているだろう? これは自我の認識ではないのか? 馬鹿馬鹿しい。 単なる現量状態で、比(非)量がない状態なだけだろ? それがどうかしたのか? >>655 蝉が鳴くにはならないよ 蝉が鳴いているだよ それと同じように 思考が動いている 思考が止まっている と認識するのみだよ >>656 事実を述べているに過ぎないよ 君たちの心が静まっていないのも事実だし おれの心が静まっているのも事実 ただそれだけだよ 君たちが納得いかないのはこちらの問題ではないよね まさか、まさか、まさか! その程度の体験で、あわれだの、屁理屈だの、デタラメだの、無心だの言ってる無いよな? 心が完全に止まるのはあれだ。滅尽定だよ。 解脱した人だけが入れる最高の禅定。 ただの阿羅漢だよ。よくある話さ。 >>658 思考っつーのは働きよ 形なんてない 存在が働きそのものになる 思考の作用の一つである観察 観察も働きだ 観察してる時は観察になる 観察になる時、観察対象に意識を向けている われは消滅してわれは観察対象になる >>659 単に、現量の比(非)量だろ? それがどうかしたの? >>662 そういうのは良くないよ 結局無理に自我を抑え込んでるに過ぎないからね ちょっとつつけばすぐ出てくる >>659 だから、事実にせよ、現実にせよ、言語化する以上は、自我による認識。。 もっと厳密に言うと、この言語を媒介にした認識によって、あなたにとっての事実、現実が構成される。。 実体が存在するのは間違いという話は、また別だけど、あなたの言っている事実、現実はあなたの自我がつくった夢のようなもんだ。。 蝉にせよ、おれの心にせよ、おまえらにせよ、全部あなたのの自我が構成した夢のようなもんだ。。 で、その夢を実体視するから無明なの。。 >>666 言語にしなくても心が止まっているのは事実だよ そもそも止めようとして止まったのではなく勝手に止まったのだしね 自我の死で >>662 思考とその思考を観察するのに時差があることには気づいているか? >>665 うん、当たり前のことを語ってます その当たり前のこととは、思考が働く時に我は消え去り働きそのものになるってこと 観察したら観察になる 観察対象になるってこと >>667 自我は死にませんよ。最初から無いですよ。そんなものは。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる