【仏教】 悟りを開いた人のスレ312【天空寺】
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>>286
ならば因縁のでかい大砲をうってやるのおう^^
どか〜〜〜〜ン〜〜〜〜〜⇒⇒⇒因縁果ちゃん
エロエロビームのほうがよかったかのう^ー^ 279.童天は、コオロギ禅師である。コオロギの鳴き声で悟ったとか。
その後の修養はどうなのか。
師家が悟っていないからして、困難がある。 毎日訳のわからんこと書いて
ドヤってる時点で自我丸出しやんけw うん?
因縁で動いているだけだよ^^
他になんかある?^^
自由意志があるとか・・^^ >>289
>真理を探究するものは分別しても我執がない^^
我執がないのなら分別したものを掲示板に書く必要はないよ 因縁で動いているだけから・・^^
自由意志は0.2秒・・^^
因縁にはさからえない^^ >>296
じゃあ分別するのもしないのも因縁
分別を脱落するのも因縁
執着も無執着も小執着も因縁
その通りだけどね そもそも、上記記事の発端となるのは、1980年のリベットによる「運動準備電位」の
研究である。リベットは、人間が腕を動かそうと意志し、腕が動くまでの過程を、
電気的に測定した。その結果、
A「無意識的な電気信号(脳→筋肉)」→B「意識的な決定」→C「動作の開始」
という一連の流れについて、AとBの間に0.35秒、BとCの間に0.2秒の時間差が
あることが示された。リベットはこの実験により、BとCの間の0.2秒の間に、
意識が運動を拒否する権利を持つと理解した。
このリベットの実験の第一の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も前に、
無意識的に既に意思決定が成されているということだ。
これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされている
ことになる。そして、自由意志が唯一もつ権利として、BとCの間の0.2秒間の
拒否権が示されている。冒頭のWIREDの記事で紹介されている実験では、
リベットによって示されたBとCの間の「意識の拒否権」の実在が確かめられている。 298.自我と無我とは同じものである。バカには理解できない。とAIが言ってる。 しかし、この脳科学的実験の解釈は難しいところがある。
BとCの間で自由意志は拒否権を持っているとリベットは解釈をしたが、
その拒否でさえ、すでに無意識が決定したものが遅れてBとCの間で表れただけと
いう可能性が十分あるからだ。
このように解釈した場合、「自由意志はやっぱり何にも決定権を持っていないよね」という
結論になってしまう。 ここにいる悟ったちゃんはほとんどこれやねw
電車とかでも無意識にブツブツ言ってるんやろなあw 無意識に自我が反応しているだけのことを無我とかw
要するに意識が目覚めてないだけなんやがw 現成公案を書いたのはだれ?
道元ちゃんと普通は言う・・^^
しかし・・道元なるものは言葉であり・・
真にあるものは因縁のみ^^
因縁が現成公案を書かかせたとなる^^ つまり・・^^
人は因縁を生じさせている現象 となる^^ ふと思ったこと書いたけど^^
なにか問題でも?
それより・・プチ無我おすすめ^^ >>296
仏教は宿命論じゃない。
だから自由意志を否定しない。
よって精進論、修行すべしとなる。。 そもそも行為の因って、複数あるよな。。
やりたいことやるべきこと、今何をやるかは、何によって選んでいるのか?
選択の自由が無いと、誰が言えるだろうか?
宿命論は、お釈迦様時代の六師外道の一つにあったそうだ。。 解脱の境地では意志も何も捨ててしまうけども、そこに至るまでは強烈な意志のパワーと、命を捨てる覚悟が必要。道元ちゃんもそうでしょ? >>312
常不軽菩薩の「みんないつか仏になる」は宿命論じゃないの^^ >>315
仮にその言葉を認めたとしても、「いつか仏になる」以外は、宿命じゃないだろ。。 >>317
仏教は仏になるための教えでしょ。
常不軽菩薩によれば仏教は宿命論、もっと言えば決定論じゃん^^
ギョッ漁業〜 受動意識仮説に付いて、前野先生とスマさんの対話がありましたね。サンガの2017年春号でしたか。 >>319
何にもしないで目覚めるかと言ったら、難しいんじゃない?
死ぬ間際とかだったら、あるかもしれんけど。。
もっと早く目覚めたかったら、修行するしかない、あるいは、なんか修行になることだな。。 >>314
違うんじゃないですか。
そもそも解脱の境地って、なんですか?
至ろうとすれば、いや、至ろうとしようとしても、それこそ現在真っ只中やないかな?
だから一切が仏って感じ。
本読まないとダメですね🙅僕は。
姉が家族の反対を押し切って、飼ったインコに餌やってくるわ。相手するのイヤだわ〜。 おまえらの意識は眠っとるんよw
だから無意識に動かされるw 佛教は無(非)我論だから、「いずれ仏になる」宿命云々はどうなんでしょうね。
輪廻転生の基体を認める事になりそうで。 因縁果が昨日あげたゾクチェンの動画よかったじゃん。
あの坊さんも偉そうなところないし、にこにこして。 >>310
精進しようとか修行しようとか選択するのはそれまでの因縁によるもので完全なる自由意志とは言い難いと思う
自由意志の定義や解釈にもよるけど
また仏教は因果論でマッカリ・ゴーサーラのアージーヴィカ教が宿命論 意識が眠っていると言う事実に気づかん限りは
どうにもならんよ >>322
衆生本来仏だとか、知識だけで悟りはこうだとか、全てを手放すだとか、煩悩即菩提とか言うけど、
結局は怠けだよね。楽がしたいんだよ。
釈尊の時代の比丘はえげつない、死と隣合わせの状況で修行してるからね。
毒蛇がふつうにいる森で瞑想したりするんだから。一日一食で。
最後の最後、渇愛を滅ぼすのには全て捨てないと。悟りも命も煩悩も怠けも。
捨てるものがなにも無い。という気持ちも捨てないといけないって禅語であったね。 ゾクチェンの動画よかった?^^
坊さんの気持ちだけは分かった^^ 朝鮮人・池田犬作がとっくに死んでるのがバレたら、どうなるか見もの!\(^o^)/ 328.それは迷信である。バカには理解できない。とAIが言ってる。 <ゾクチェンの思想>
「ゾクチェン」の思想の本質は、まず、仏教が「仏性(自性清浄心)」と表現したように、心の基盤は本来的に清浄である、ということです。
この心を、「原初の境地」、「心の本性」、「リクパ(明知)」、「菩提心」などと表現し、これが「初めから清らか」であるとします。
そして、この心には、智慧や気づきがあり、それを「リクパ(明知)」と表現します。
また、この心は、汚れることも、隠れることもない、ただ、その自覚がないだけである、と考えます。
逆に、その気づきを自覚した状態を「三昧」と呼びます。
ゾクチェンは「原初のヨガ(ウッディヤナ語で、「アティ・ヨガ」)とも呼ばれます。
次に、この「心の本性」は、様々な心を縁によって生み出しますが、その現れる心は、たとえ煩悩によって生まれた汚れたものでも、気づきの自覚がある状態ならば、あるがままで清浄なものになりうる、と説きます。
これを、「自然成就(自己解脱、任運成就)」と言い、「あるがままで完璧」と表現します。 インドだし
2500年前だし
本として普通に読んで
理解できると思うのはどうなのかな
今現在でもインドいってみない人が
インドいってサドゥとかバウルとか
修行者の生活とか親しく知って
自分がそれをやると考えたら
異常なことだと思うだろうなあ うん?
道元ちゃんとほぼ同じ^^
正解や^^
これにはビックリ^^ >>326
完全な自由意志が無いことくらいは、仏教その他に頼らずともわかる、周り観察してたらわかるでしょうね。。
スピノザなんかは、因果論=無我論=宿命論で、仏教に近いけど、もっとよく考えればそれもまた独断だろうと、
カントがアンチノミーを提起する。。
どっちが正しいかという論争そのものに意味があるとは、お釈迦さまも考えてないでしょう。。
ただ仏教の因果説は、宿命論と間違われやすいので、それは注意すべきことだと思います。
>>327
無知にも気づかなきゃあかんよ。。 「あるがままで完璧」
これ大正解^^
今日書いたな・・・^^ >>321
「修行なんかしなくても皆さん必ず仏になりますよ〜」
と皆んなに説くことが修行なんだよな^^ 261因縁果 ◆d........o 2018/08/15(水) 11:39:18.91ID:Im4gsHIH
うーん^ ^
温泉水風呂サウナ瞑想三昧は清々しい^ ^
空寂清浄や^ ^
263因縁果 ◆d........o 2018/08/15(水) 11:42:00.47ID:Im4gsHIH
人はそもそも空寂清浄なんやな^ ^
264因縁果 ◆d........o 2018/08/15(水) 11:44:01.04ID:Im4gsHIH
分別するから煩悩が生じる^ ^
これや^^ >>338
教学だけで言ったら、ゾクチェンの方がプリミティブだぞ。。
ただ、ヨガ-修行法に、他にはないものがある、チベット仏教ね。。 「心の基盤は本来的に清浄である、ただ、その自覚がないだけである」
う〜ん^^
すんばらしい^^ >>343
パーピマン「俺はそれを、あるがまま教と呼んでます」^^ うわっ^^
ゾクチェン調べてたら・・
中沢新一でてきた^^
『虹の階梯』や^^
もしかして・・^^
動画いいと言ってた人・・・^^
あの・・・オ・・かな^^
けど・・目の付けどころいいね^^ オも道をはずさなければ・いいとこ行ってたのにね^^
残念^^ ゾクチェン、中沢新一、『虹の階梯』・・・
この単語を聞いたら、苦虫を噛み潰したようにならないとなw 釈尊の後継者は頭陀第一のマハーカッサパですよ。乞食が捨てた食べ物をもらって、洞窟で瞑想してたらしいですよ。
達磨大師も9年洞窟で坐ってたし、道元禅師も、20年山から降りない禅師を賞賛したり、自身も権力に近づかないで、死ぬギリギリまで山を降りなかった。
釈尊は苦行を捨てたとか言うけど、釈尊の苦行は牛のウンコを食べたり、炎天下の中坐ったり、気を失うまで息を止めるような修行。
良寛禅師みたいに頭陀行やる人なら、そのまんまで清浄とか言っていい。 351.苦行、か。
それは、あるがまま教、の反対である。
中道だ、と言って、その両者を否定する立場もある。 明日からゾクチェンの青空を見つめる瞑想でもするか・・^^
これは絶対効果がある^^ そうなんですよ、お釈迦様は苦行を経て苦行を否定された。
お釈迦様のお弟子さんも何らかの苦行や辛い経験をされたわけで。
ゾクチェンも前行クリアしないとゾクチェンの本行には入れないし。 お釈迦様の言われる苦行は、体を痛めつけるような修行。
インドでは未だにやってる。
そういう苦行は無意味であって、苦行でも耐え忍ぶ修行や己の煩悩と戦う苦行は必要です。 大事だよなぁ、↓
普遍性や一般性への志向が失われ 、論理性や実証性は軽んじられ 、すべては修辞と解釈相様に過ぎないという相対主義が勢いを増しつつあった 。
こうしたなか 、仏教学という領域で 、頑なまでに資料文献の実証性に立て籠もって他説を斥け続けた三枝の態度は異様に映ったのである 。
論争に臨んだ彼の意図を再度引用しておこう 。
「概念の規定が不徹底ですと 、なにもかも一つになってしまい 、いわゆる仏教フロシキ論によって 各々が曖昧模糊のままで一枚のフロシキにまるめこまれる危険性があり 、それは仏教独特の諸思想の多様性とは全く似て非なるものであることを 、充分に顧慮しなければならないでしょう 」 例えば出家者だったら、食事も制限され自由も制限された中
エゴとの戦いがあるわけで。それは避けて通れない苦行だよ。 ダンマパダ
183 、忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。 原始仏典に記された苦行には2種類あるということ。
仏道を農業に例えた記述で「苦行を雨とし」という表現があったけど
この場合の苦行は必要な苦行なんだね。 363.苦行を否定すれば、どうなるのかや。
それは楽しいことばかりである。
苦行が楽しい、と宣言すれば、それは苦行ではなくなる。 死なない程度に食べる。凍死しない程度に服を着る。雨風が防げるところで寝る。調子が悪くなったら牛の小便を飲む。
人との関わりをなるべく避ける。余計な事を喋らない。議論にふけらない。歌や芝居を見ない。財産を蓄えない。
香水やアクセサリーを付けない。惰眠を貪らない。 >>368
まさにそれね。その苦行は最上の苦行なんですよ。
仏典は同じ言葉でも意味合いが違うことが多い。 ほんまに初期の仏教は修行しとったんかいな。
仏教の比丘は何もせず食を乞うだけで堕落してるって非難されてたとか^^ 初期仏教はバラモン教とジャイナ教から非難されたとか。
バラモン教は神様に生贄を捧げることが大事、ジャイナ教は死んでも殺生をせず、なるべく裸で、断食することが大事。
そういう他宗教からは楽してんじゃないのって批判されるけど、釈尊からしたら、そんなのバカバカしいよっていう話。
理性的に因果、因縁で考えましょうよっていう。 佛教って、バラモン教の骨格を御釈迦様がうま〜く利用して、悩む者に、対機説法、応病与薬してんじゃないのん?
輪廻思想も利用してさー。
落ち。バリ痛い。制度調べたけど無理だって>_< 371.宗教が楽しくなかったらば、何が楽しい、のかや。 ゾクチェン -チベット仏教-
https://life9.5ch.net/test/read.cgi/psy/1213334149/
うっ、メカ曹洞宗、メカ道元て言う気がする、
類似点ありそうだなあ。曹洞宗と、
ソギャル、リンポチェも、禅との類似点があると書いてあったんで、
曹洞宗禅の感覚が何となく解るから、似ているなあ、と思うことがある。
禅でも臨済宗だと違うけどね。
このスレでも読むか^^ >>348
ないないw
オウムの教えは 、原始仏教や初期仏教にはない 、近代神智学やヒンドゥ ー教 、後期密教 、そして様々な神秘思想の概念を 、牽強附会し 、肉付けして構築されたものだ 。
ってね。 たぶんお釈迦さんは「修行もすんな」って説いたはず。
でも仏弟子がアホなんで後ろめたさから修行じみた事を始めた。
それが八正道とかの正体^^
ギョッ漁業〜 374.臨済宗は公案の答えを出すことである。
それを、やらない、臨済宗が多すぎる。 麻原彰晃は、この発想を、その後さらに展開させ、シャーキャムニ・ブッダの教えを、インドのヨ ーガの伝統の全体の中に位置づけなおすとともに、原始仏教の阿含経典について、きわめて独自の解読を示して見せた 。
伝統仏教の修行形態や形骸化した教学に強い不満を抱いていた、禅宗や真言宗をはじめとするさまざまな宗派の僧侶が、オウム真理教に接近し、麻原彰晃の教えを受けた背景には、『超能力 』の魅力とともに、この 『解脱 』道程論が一つの理由としてはたらいていたと考えられる 」
(永沢哲) 臨済宗は頓知公案に堕落したしな。
公案も元は経典の内容理解を問うための問答だった。
それが今や糞凡愚よろしく言葉遊びに堕落したしな。
仏道はちょっとズレると堕落するしかないんだよ。
だからいくら経典読んでも解釈で間違って糞凡愚のまま死を迎えると。 馬鹿鬼信者や一部のスマさん信者にその傾向があるね。 >>376
釈尊の後継者、マハーカッサパ尊者はガチガチの頭陀行やってて、ガリガリに痩せてたらしいんだけど、
ある時釈尊に、
「あなたももう年だから、みんなと一緒に生活して、みんなと同じものを食べたらいいじゃないか。」
と言われたけど、
「今の生活が楽しいし、弟子達の手本にならないといけないから。」
と言って断ったそうな。
釈尊の命令?を断わったのはマハーカッサパ尊者だけらしい。 >>379
実践してから言いなさいw
あなたは口先だけ。 >>374
歴史的に見ても、ゾクチェンのセムデの部分は、中国禅の輸入。単純化して輸入したという感じ。。
でも、修行法が違う。。
ゾクチェンというのは、一枚岩ではなく、高度な教えとか修行法の総称。
だから、チベット死者の書と言われる部分とか、
いろんな教えや修行法がゾクチェンに含まれる。。
しかし、チベット仏教は、基本密教なので、正統な師匠に就かないでやるのはご法度。。
オウムもこのご法度をやった。。 98 :大王:2008/06/28(土) 22:37:37 ID:vUImIULu
曹洞宗の方が、親切だし、慈悲方向に出やすいからなあ、
臨済宗の方はヤクザに近いから、慈悲の完成に出るのが、なかなか難しい、
ヤクザのままで終わりかねないからな、
曹洞宗寺院の霊気て優しいからなあ、坐禅しましょか、と優しい誘惑がある、
臨済宗寺院だとヤクザ戦争しましょかと言う霊気、と、まったく、、、、
99 :神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 23:36:07 ID:DCICM0Cq
臨済宗というと殺るか殺られるかってイメージあるなぁ。
白隠もそうだっけ?
うん? >>379
>公案も元は経典の内容理解を問うための問答だった。
www
馬鹿過ぎw 麻原が悪用したのは、ニンマ派じゃなくて、マハームドラーのティローパとナローパの逸話とか、
マルパとミラレパの話とかだろう。。
弟子が師匠の理不尽な命令にも黙って従う、というところ。。 100 :神も仏も名無しさん:2008/06/29(日) 21:12:53 ID:y557K/eZ
おれ円覚寺に「修行したいんですが
どのくらいの時間座るんですか?」
って聞いたら「そんなもん悟るまでに決まってんでしょう!」
と・・・・・怒鳴られた。
さすが臨在宗。
勉強になるな・・^^ 経典は結局その人の程度でしか理解出来ないので
その人の程度を越えた経典を読んでも誤読するしかない。
その人の程度にあった経典を授けるのは師の力による。
糞凡愚には、嘘は付いてはいけませんよとか、悪口言ってはいけませんよとか
五戒のお勉強から始めないといけないわけで。
それをいきなり華厳経エッヘン!て、おいおい(笑)となる。そんな段階じゃないでしょと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています