【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521007589/l50
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>547
>故に命題自身、すなわち「句」も実有であるとされ、五位七五法の分類中の心不相応行法の中に入れられた。
それが生・住・異・滅の四相と言われている法ですね。
それらにより無為を除く全ての法は刹那生滅するので、法は実有であるが刹那生滅するが故に無常である、とするのが部派仏教です。
テーラワーダもその部分では変わるところはありませんが、説一切有部の法の三世実有は否定しました。 484 :名無しさん@1周年 :02/05/28 18:15
上座部の人はヴィパッサナを徹底的にすれば、
刹那滅は手にとるように見えてくると言ってました。
58 :名無しさん@1周年:02/06/01 13:20
>>53
>>現在法として転変していない種子も刹那生滅を繰り返す
>などというオカルトは笑うしかないです♪
これは唯識の基本的なところ、知らないというのは.....
経量部も同様の立場で....唯識はこれを採用しているのに。
>>44
>有部→過・現・未 三時に実在(法体恒有)+刹那滅☆
>経量部→現在のみ実在+刹那滅☆
別に三世実有説は部派仏教一般の認識。
過や未の「無体」を主張したのは、経量部以外は大衆部、大衆部も
末派は三世実有を説く。
なんかローカーヤタ派のところに行って、夜のうちにオオカミの足跡
を付けておいたという話を思い出したぞ。
過・未を認めないから、彼らはオオカミが来たと推測することも許さ
れないで、慌てふためくばかりであったという。 現在有体過未無体
げんざいうたいかみむたい
仏教用語。
部派仏教のうち経量部の教説で,人間存在ないし現象界を構成するもろもろの要素 (法) は,現在現れているかぎりにおいては実有であるが,過去,未来においては無であるという主張。
説一切有部の「三世実有,法体恒有」の説に対する。
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E6%9C%89%E4%BD%93%E9%81%8E%E6%9C%AA%E7%84%A1%E4%BD%93-60497
経量部
説一切有部の説の幾つかを修正し、なかでも三世実有説に対して、現在有体・過未無体、つまり法は現在世のみ実在するという説などを主張した。
4-5世紀の世親は、説一切有部によって『倶舎論』の偈を著し、のち経量部に移ってその注釈文にそれを反映させて、
さらに大乗に転向し、唯識説を完成させたので、経量部は有部の批判者として、唯識説との近縁について、注目されている。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B6 >>553
お釈迦さまからして、わたしなんかよりずっと瞑想してますよね。
理論なら本なり経典なりを読めばわかることでしょう。
わたしには、あなたの発言が、ありもしない論敵を妄想して、妄想上の
論敵に反論しているようにしか見えないのですが。
そもそも勝義諦の心と心所が我であるなんて、誰も言ってないし
それに、ここは瞑想実践スレのはずではありませんでしたか? あんまり仏教の勉強しすぎると瞑想して悟るのが苦しくなりますよ。
瞑想中は仏教のブの字も出してはいけない。あらゆる概念、法を手放さなきゃいけない。
諸行無常すら考えてしまえば妄想になる。
きちんと瞑想して無我を悟れば、無駄な哲学的思考に嵌らない。
説一切有部も、唯識も、大乗も、ブッダが定義しなかった概念を持ち出した宗派が次々現れた歴史は、
瞑想失敗の歴史だと思えばいい。
禅だけは一部成功したけども。 >>556
>初期仏教でもテーラワ ダ仏教でも部派仏教でも 、 「現象には自分の特色がある 」と言います 。
>大乗仏教は 「そんな特色はない 、すべては空だ 」と一生懸命批判しています 。
>どちらが正しいか 、ちょっと考えればすぐに分かります 。
考えて答え出されてますよね。
智慧まで到達してから、それを言語化した場合、いろんなバリエーションになるのは仕方ないと思いますよ。 各部派の分厚い経典を読んで、解釈するのに時間をつかっていたら
悟りの智慧にかすりもしないうちに、あっというまに時間切れになって
しまうと思う。
乗り物は、これと1つに決めたら、あとは突破するまでやり切るのみ。
いまはそれが出来る時代だと思う。 乗り物はテーラワーダ。
方便はパーリ三蔵経典。
そうと決めたら、もうよそ見はしないことです。 >>563
>説一切有部も、唯識も、大乗も、ブッダが定義しなかった概念を持ち出した宗派が次々現れた歴史は、
テーラワーダもその中に入れないと。
あと龍樹は「ブッダに帰れ」と言って説一切有部を批判したんだから龍樹自身はブッダの教えに忠実だという想いはあったんでしょう。
法を実体視するのはブッダの教えではないという信条からの説一切有部批判であり中論です。
その龍樹を批判してるのがスマナサーラ長老ですが。 >>565
現代人は、いろんな情報に触れられるけども、仕事が忙しく瞑想するヒマが無い。
いかに不要な情報をシャットアウトするか、いかに仕事を減らして瞑想する時間を作るかがカギでしょうね。
あと最後までやり切る根性と。 あ、スマナサーラ長老は説一切有部も唯識も批判しています。 >>567
ええ、だから思考を止めるんです。
人間だから不完全。主義主張が食い違う事もあるでしょう。
それらを全て放っておいて、目の前の現象を観察するのがヴィパッサナーですね。
一度瞑想すると決めたら、龍樹だろうがスマナサーラ長老だろうが、
ケツを蹴り上げて追い出さなきゃいけない。自分の頭の中から。 思考の中に生みだす正しい仏教って、見(ditthi)だから。
概念じゃないよって、そういう意味。 考えたり、しゃべったりしているうちは、正しい仏教 vs 正しい仏教のおしゃべりが
延々と(永遠に)続くだけでしょうな。 いちおう正しい仏教はあって、それはブッダが説かれた教えそのものなんですが、
問題は「私」の理解能力です。不完全な人間である「私」には理解できないんです。
考えても考えても、ありとあらゆる本を読んでも、「私」には理解できない。
そこで瞑想して、煩悩を滅ぼし、渇愛を無くし、「私」というものが無くなった時に、不思議と正しい仏教が理解できるんです。
無我ということですね。 >>554
中村元は説一切有部の「三世実有法体恒」をイデア的に捉えているんですよね
これは中村元が間違っているんですかね?
p154
東西における対応は容易に理解することができる。図式化すると
実念論 - プラトーン - 説一切有部
実念論に対する反対者 - プラトーンに対する反対論 - ナーガールジュナ学派 直指人心、見性成仏。
自分にも心はあるのに、なぜ教科書の中に答えを求めるのか。
「お掃除とは何か?」という答えを求めて、お掃除大百科を一日中眺めていて、
自分の家の掃除をしない主婦がいたら笑っちゃうでしょうにw >>575
昨日言われていた自我というのは説一切有部の五位七十五法だと、心所法の中の大煩悩地法や大不善地法、大煩悩地法、小煩悩地法、不定地法が典型であろう
テーラワーダの勝義法(勝義諦)だと心所法の中の不善心所だろうな >>577
実体があるのに無常であるというのに整合性を求めるための刹那生滅です
小乗系は皆この考え
大乗でも経量部からの流れで唯識などは刹那生滅
阿頼耶識とアートマンの一番の違いは刹那生滅するかどうか
アートマンは生滅しないので常住である、常一主宰であると言える
一方の阿頼耶識は刹那生滅するので無常であり空 皆さんの言ってることが難しすぎてよく分からないんですが、
たとえば真理とか言われるものも、無常・無我ということなんでしょうか?
勝義諦と諸行無常・諸法無我の関係はどうなっているのでしょうか。
勝義諦だけは、別なのでしょうか? 勝義諦のうち、涅槃を除く、心、心所、色が無常、苦、無我で、
涅槃だけが別です。
象も実物を見れば一発で伝わるのに、言葉で伝えるとなると
ややこしくなりますね。
例え伝わったところで、日光東照宮の彫刻にある象の像のように
空想上の動物になってしまうでしょうし。
ご自身が依拠する経典以外の語彙、語り方の構造は、あくまで
自分が乗る乗り物とは違う、他の乗り物だと思っておいた方が
良いのではないでしょうか。
他人の乗り物をあれこれ言わないのもマナーかと思います。 あと、乗り物の研究だけして、実際に乗らないという時代は
もう終わったと思ってます。
時代は変わりました。 >>580
「実体がある」という意味は
「この現象界を構成する要素となる法が実体として刹那生滅していて、感じ取ることができる」
という理解で合っていますか? >>582
人間の道徳や倫理はどうでしょうか?
地球外知的生命体はいると思いますが、倫理や道徳は地球上の人間とそう変わらないと思っています。
たとえば、命を大切にする、ということなど。
同族の命を大切にする、ということなどは、地球上の生命体にとって、普遍なことだと思うのです。 さっきまで色々と調べてみたのですが、
簡単に答えのでることではないのですね。
色々な見方がある、ということだけは分かりました。 >>586
そうですね 簡単に答えは出ないと思います
見方も違うし、見ているものも違う というのが実情だと思います
テーラワーダの人たちですら意見が合わないので
他宗派を交えたらなおさら話が噛み合わないのでしょう まず刹那生滅を自分で観ることが先決。
本を読んで分かる事ではない。 >>580
部派仏教(小乗系)の諸々の法は実体(自性)があるが刹那生滅するので無常とされます。
唯識瑜伽派の阿頼耶識含む諸々の法も刹那生滅しますがその法は仮であり実体(自性)はなく空であるとされます。
刹那生滅以前に、空であるので無常であるとなります。
大乗では空であるから分別はしないということはなく、色即是空空即是色として空即是色の部分でちゃんと分別しています。
それは分別智とか後得智と呼ばれます。
色即是空は分別智とか根本智と呼ばれます。
菩薩は衆生の機根に応じて説法する(対機説法)ので分別智を得ることが重要視されます。 一回も料理を作ったことが無い人が、レシピだけをものすごい研究してる感じだね。
あっちのレシピでは小麦粉は10グラムです。こっちのレシピでは15グラムです。って。
作ったことあるの?無いです。
おいしいの?さぁ。 違うな
涅槃を経験したことがない者が文献だけ読んで涅槃を涅槃を経験すればこうなりますと断定して言ってしまうのがこのスレ
しかも本人は文献にそう書いてあったとは言わずにあたかも自分の体験であるかのように語りレスする 人間しか悟りが開けないようですが
仏教でいう人間の定義って何なのでしょうか?
善行為ができる生命ってことでしょうか? 他人の涅槃は放っておけばいいのに、文献だ、経験だと余計な詮索をするレス
他人の体験は分かりようがないのに体験してないと断定してしまうレス
>>593
人間というか、生命は五蘊または六根と六境ですね。
人間は善行為もできるし悪行為もできます。
天界に行くこともできるし、地獄に落ちることもできる。
善悪両方経験できるので修行には向いているようです。 涅槃は認識できないし涅槃の間に認識はないというマハーシ派に対して、認識がない涅槃を認識できるとパオ派は言ってるらしいですけど、
マハーシ派の言う涅槃を体験したという人はたまに聞きますが、パオ派でいう涅槃を体験した方はいますか?
いたらどんなか、お話を聞きたい 涅槃を体験とは
「感覚や認識を含めた一切の意識が断絶した状態である滅尽定のこと」 >>594
仕方ないだろう
その涅槃体験のレスが文献に書いてあることそのままなんだから文献丸写しと分かってしまうからな 平日昼間もやってんだから
少しは休めば?
5ちゃん漬けは
もっと頭おかしくなるよ 涅槃の体験などいろいろ経験している人は自己評価はどんな感じなのかな
例えば預流果には乗ったなとか一来果まで来たなとかわかるのかな
また、十界でいえば、現在は人界・天界・声聞界・縁覚界のいずれに属しているのかとかも判別できる? >>581
真理というのは何のことを指すのでしょう?
また勝義諦というのは大体が中観派かテーラワーダで使われる用語なのですが中観の勝義諦とテーラワーダの勝義諦は違います。
テーラワーダ仏教においては、(勝義諦とは)主に「世界」を構成する不変・恒常の「法」(ダルマ)のことを指し[出典無効]、
それ以外についての世俗的・恣意的・瑣末的な概念(施設(せせつ)・仮設(けせつ)・仮名(けみょう))群と対比される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E8%AB%A6
ウィキペディアでは出典無効となっていますが、テーラワーダは勝義諦を勝義法などとも呼び真に実在するもの(存在)として捉えています。
しかしそれはプラトンのイデアとは違いますので注意。
テーラワーダでは法(勝義法)は四位百七十法です。
一方で中観派の勝義諦とは、中論の24章に
「二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。」
とあり、要するに彼岸(涅槃)の真理が勝義諦です。
では勝義諦の真理とは何かというと、掻い摘んで言えば諸法空相で実体はないということです。
般若心経ではそのことを空の世界の中は不〜不〜であり、諸法は空相であるから実体としての〜は無い(しかし世俗諦としての〜は尽きることはない)と説いています。
般若心経は空という彼岸の世界のことを説いているのです。
それで涅槃ですが、涅槃自体は無為(作られたものではないもの)であり無因の果であるので諸行無常には当てはまりません。
永遠のニルヴァーナの境地という表現も仏典ではよく見かけますが、境地ですから本当に未来永劫永遠なのかは私には分かりません。 >>601
レスありがとうございます。うーん難しいなぁ。
でもちょっと理解できました。
真理とは何かですが、たとえば五戒とか、人類が存在する限り有効な概念とかです。
プラトンのイデアとかでもいいですけど、未来永劫続きそうな道徳とか倫理とかでもいいです。 >>597
仏道修行してるといろいろ体験する。その時は変な体験だなぁと思うだけだが、
経典その他を読んでみると、あぁ確かに、こうゆうことだったのかと納得する。それだけの話。
みんながみんが、自分の体験を自分の言葉で表現する文学者じゃないからね。
>>600
悟った瞬間は、あぁ悟ったなと思うだけ。
しばらく様子を観ていると、ある種の煩悩が残っていることに気づく。
経典などで四向四果の説明と残りの煩悩を照らし合わせると、自分は今預流果だな、とかが分かる。
一来果は微妙すぎて分からなかった。
十界は分からないが、六道は分かる。悟りとは関係無く、自分の心を観察してると、
あぁあの時は地獄の次元に落ちてたな、修羅道に落ちてたな、天界に行ってたな、とかは思う。
悟って以降は、確かに地獄などの悪い次元の感情は起きない。 涅槃は永遠じゃない。不生不滅が正しい。もっと正確には不生。
生まれていない、存在すらしていないものについて永遠だとか、どうだとは言えない。
識別作用の滅した、安楽の境地とは言えると思う。
涅槃を経験すると、存在、実在とはどうゆうものかという智慧が生まれる。
存在、実在という言葉に騙されなくなる。 >>存在、実在とはどうゆうものかという智慧が生まれる。
それ知りたいです。
言葉で表現できますか?
なんとか言葉にしてもらえたらありがたいです。 ほれ、涅槃を経験してないのに経験したかのようにしたり顔でレスするだろうw
やれやれだわ ちなみに、心、心所、色は存在、実在するじゃないかと思うかも知れませんが、
それら全てをバラバラにしてみると、どこにも何もない。
例えば、肉体は実在するじゃないか、色は実在じゃないかと言っても、
それは地水火風の集まりであって、その地水火風も瞬間に生滅している。
ここに存在がある、これだと認識した瞬間にそれはもう変化している。消えている。
法、ダンマに騙されてはいけない。無我だから。私も無我、あなたも無我、リンゴも無我だから。
この世の中に、これと言って捉えられるものは何一つない、というのが無我です。 例えば私は無我。
私のナーマも無我、ルーパも無我。
五蘊も無我、貪瞋痴も無我、眼耳鼻舌身意も無我。
どこまで細かく心を分類しても、その全てが無我。捉えることは出来ない。捕まえることは出来ない。
ゆえに手放さなければいけない、無執着でいなければいけない。 六神通なるものを得ると人の前世とか来世とか見えるというけどその人の承諾も許可もなく他人のプライバシーを無視して勝手にのぞいていいのか
仏教はプライバシーの侵害をどう考えているの テーラワーダの勝義諦、自性の変わらない法という意味は、
五蘊が六蘊になったりしない、四大が三大になったりしないよ、地水火風が地水火木とかにはならないという意味でしょうね。
Wikipediaの不変・恒常の法という言い方は誤解を招くな。 >>604
小部経ウダーナ
8.1 第一の涅槃に関することの経(71)
「比丘たちよ、その場所(処)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)なく、
識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)なく、
表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)なく、
この世なく、他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。
これこそは、苦しみの終極“おわり”である」
8.3 第三の涅槃に関することの経(73)
「比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有ることなくあったなら、
ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在することから、
それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」
ブッダが比丘たちの前で明確に存在すると言った涅槃
について「存在すらしてない」とよく言ってのけられるな>>604
涅槃が生じたものではないというのは現象世界(有為)と涅槃は違うということであって涅槃は生じたものではないから存在しないというのは読み違いだ >>611
仏教的には誰のプライバシーなのか?って話になるのかな
無我なんだから 質問なんだけどブッダって死ぬときに「私が死んだら教えを捨てなさい」とか言ってなかったっけ? >>612
色、受、想、行、識の五蘊は、実際に存在するものです。そして、それらは生じては滅します。そこには独立した「人」というものは存在せず、ただ、無常(アニッチャ)なる現象があるだけです。
(アーチャン・チャー)
テーラワーダでは五蘊などの法の実在は認めます(我空法有)。
説一切有部のような三世実有ではなく経量部や大衆部と同じく現在有体過未無体、つまり法は現在の瞬間にのみ存在するとしています。
法が刹那生滅するのはそれらの部派全てに共通してはいます。
>>614
それは仏教的ではありません。
釈迦は無我なんだから人を殺してもいいとか他人の悪口を言ってもいいとは言ってません。
逆にそれらを厳しく諌めています。
無我の我とはアートマンのことで釈迦はアートマンの有無については沈黙を貫きましたが、テーラワーダ風に言えば施設された自己については大いに語っています。
>>615
死ぬ間際にアーナンダに対して言ったのは
「アーナンダよ 。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない 、
『教教えを説かれた師はましまさぬ 、もはやわれらの師はおられないのだ 』と 。
しかしそのように見なしてはならない 。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが 、わたしの死後にお前たちの師となるのである 。」
ですので逆です。
捨てて良いとしたのは
「アーナンダよ 。修行僧の集いは 、わたしが亡くなったのちには 、もしも、欲するならば 、瑣細な 、小さな戒律箇条は 、これを廃止してもよい」
と些細な戒律については捨てても良いとしました。
そのでアーナンダが捨てても良い戒律とは何なのか具体的に聞かなかったことで後に長老方に咎められるのですが…。 そのでアーナンダが捨てても良い戒律とは何なのか具体的に聞かなかったことで後に長老方に咎められるのですが…。
↓
そこでアーナンダが捨てても良い戒律とは何なのか具体的に聞かなかったことで後に長老方に咎められるのですが…。 >>611
まずその当時にプライバシーの侵害という概念があったかどうかですね。
現在において本人の承諾なしに神通力で他人のことを探って公言したりしたらプライバシーの侵害になるとは思います。 >>595
↓これが回答になってる気がするのですが、如何。
>>613 存在するしないがパパンチャなら、パパンチャから抜け出した涅槃はなんなのかね。
よくわかんないね。
パパンチャの言葉で表現できるのかな。 >>618
プライバシーの侵害で訴えたとしても
検察側は前世があること、それを見たことを証明しなければいけないだろうから罪に問うのは難しいだろうね >>613
概念と実在の違い。
概念としての涅槃はある。
実在としての涅槃は存在しない。
実在、パパンチャが無くなった状態を涅槃と言う。 戒清浄からしっかり積み上げていくしかない。
どんな議論も無駄無駄無駄。 >>616
これも、実際にあるのは概念としての五蘊ですよ。
五蘊も無我ですから。実在は無いんです。
ブッダでさえ、自分の五蘊に触れられないんです。放っておくしか無いんです。
誰もそれを捉えられないものを、実在すると表現するのはおかしいと思いますが。
我空法有はテーラワーダの言葉では無いでしょう。
テーラワーダに無い概念でテーラワーダの説明をするのはどうかと思います。 >>625
ここは語り合うスレでもあるからいいのでは?
ずっと議論ばかりはいけないと思うけど 同じだよ。
言葉の運用が違うだけ。
大乗の三宝印では涅槃寂静というが、これは一切行苦をひっくり返した表現なだけ。 信じられないかも知れませんが、「世間における一切のものは虚妄である」とはブッダの言葉ですよ。
ブッダも虚妄、八正道も虚妄、五蘊も虚妄、全てです。
六祖慧能は本来無一物と言ってますが、本当に何も無いんです、本来は。
それでは話ができないから、仮に存在するとして、言語表現として、いろいろとブッダは語った訳です。
世間においては、本来はチリひとつも存在してないんです。これは涅槃を経験しないと分からない。
ですから、アビダンマどころか、ブッダも仏教も必要ないんです。余計なものなんです。
仮に名前をつけただけの幻なんです。 問「貪や瞋といった煩悩は、単なる幻想なのでしょうか?それとも、それらは実在するものなのでしょうか?」
チャー「両方じゃ。わしらが貪瞋痴と呼んでいる煩悩は、わしらが鉢を指して大きいとか、小さいとか、すてきだと言ったりするのと同様に、
その外形につけられた名前にすぎん。もしわしらが大きな鉢を欲っしているなら、この鉢を小さな鉢だと言うだろう。
執着があるために、わしらはこのように概念を作り出す。真理はただ、あるがままのものであるにもかかわらず、
執着はわしらに物事を区別することを引き起こす。こういうふうに考えてみるといいじゃろう。
わしが「おまえさんは男かい?」と質問したとする。おまえさんの答えは「はい」かな?こういうやりとりは、
現象の表面上に表れたものに関するものなのじゃ。しかし、おまえさんは本当は、四大が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりにすぎないのじゃ。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない。「大きい」「小さい」「あなた」「私」など存在しないのだ。
わしらは無我という表現を使うが、究極的には我も無我もないのだ。」
手放す生き方 アーチャンチャー p281 深く自分の中に埋没していくと、我と呼べるような何かがあるような気がするんですよね。
五蘊は無我だと分かっています。
それ以外の何かがあるような気がするんです。。。 末那識 とか阿頼耶識と呼ばれるものかな。
同じことを考えていた人はいたみたいで。 ブッダ(仏陀)。
八正道(仏法、しかも道諦)。
預流果の聖者が、三宝を虚妄と言うことはあり得ないと思う。 >>634
臨済禅師なら胸倉を掴んでこう言うでしょうね。
「どこにブッダがいる。どこに八正道がある。さぁ言え。さぁ言え。」
「ブッダは殺せ。目の前の現象を信じ切れずに、どこに道を探しているのか。」 >>635
八正道の実践があるところに八正道がある。
それが涅槃へ至る道。道諦。
八正道の実践がないところに八正道はない。
涅槃に至る道もない。
従って、涅槃に至ることもない。
仏陀はどこにいるか。
「法を見るものはわたしを見る」とのことなので、お目見えする日を
楽しみにしておこうと思っている。 >>637
全ての概念を捨て、目の前の現象に気づき続けなければ八正道は完成しない。
すなわち八正道を捨ててこそ八正道は完成する。
法とは何か。諸行無常、一切皆苦、諸法無我。
全てのサンカーラを停止し、全てのダンマに実体が無いことを悟れば、どこにもブッダはいない。 そもそもブッダは、その当時の全ての経典、師匠、修行、一切を捨てて、菩提樹の下で瞑想して悟られた。
御自身のナーマルーパに対する執着、命を捨てる覚悟で瞑想された。
今の時代の人も、ブッダに対する執着、仏法に対する執着を捨て、自分の体、心に対する執着も捨てて瞑想しないと悟れない。 いいこといいますな
でも仏法僧に対する信仰も大事なんじゃないかと思う
究極的にはなくてもいいのかも知れないですけどな >>640
まぁ私も最初は三帰依から入りましたけど。 お釈迦さんのやり方と
お釈迦さんの教えを信じるやり方
やり方は全く違うんじゃないかね >>643
どうでしょうね。
それだけではダメなような気もしますし、突き詰めれば最後は三帰依なのかなとも思います。 >>645
最初は本からですね。
徐々に瞑想に力を入れていき、本は捨て、仕事も辞めてしばらく瞑想に専念し、
最後は普通に仕事もし、普通に瞑想し、全く普通の生活をしていたら預流果に悟りましたね。
天国も地獄も一通り経験して、当たり前になった時悟りました。
本はけっこう早い段階で捨てました。
瞑想は基本マハシ式ヴィパッサナーで、たまに呼吸瞑想、只管打坐の真似ごとをやってみたり。
最初は慈悲の瞑想をひたすらやり込みましたね。歩く瞑想もかなりやりました。
とにかく生活の全部を瞑想に費やしましたね。
最後は瞑想に対する気持ちも冷静になりましたけど。 >>646
おめでとうございます。
悟る瞬間はどんな経験をするのか教えていただきたいです。 結構苦労されたんですね。
これからの修行の展望はどうですか?
自分はなかなか欲界に対する未練を捨てきれません。
いいところまではきている感じなのですが、近いようで遠いような感じです。
まあ日々の修行が足らないですね。特に念と定の力が足りていないと感じています。 >>626
仏教のアビダンマでは 、まず心を「勝義諦の一つ 」と位置づけています 。
勝義諦とは 、「真実 、真にあるもの 」という意味の仏教用語です 。
仏教のアビダンマでは 、勝義諦 ・真実 ・真にあるものは 「心と心所と物質 (色 )と涅槃の四つだけ 」と説明しているのです 。
一般的な世界の立場からは 、「もっといろいろなものがあるじゃないか 」という反論が返ってくるかもしれませんが 、アビダンマ論では 、「この基本的な四つがあるだけ 」と見るのです 。
その基本的な真実 、 「本当にあるもの 」の一つが 、心 c i t t aなのです 。
(スマナサーラ著「ブッダの実践心理学2」)
ということで、テーラワーダは心と心所と色と涅槃の四つを真にあるものとして実体視します。
説一切有部だとそれに心不相応法が加わって法の五位です。
実体はありますが刹那生滅するから無常であるというのがテーラワーダや説一切有部の教説です。
我空法有はテーラワーダの教説です。疑うのなら「テーラワーダ 我空法有」で検索してみるといいです。
五蘊に実体はないとするのは大乗仏教の空の理論です。 >>647
けっこう普通に冷静ですよ。
あっ!!!とは思います。
見るもの聞くもの感じるもの、全部が止まらず動き続けている。
本当に今の一瞬しか無いんだと気づきます。
その後なぜか、強烈な喜びが湧き上がってきますが、しばらくすると落ち着きます。 >>649
スマナサーラ長老の「本当にある」というのは、実体、実在としてあるという意味では無いと思いますよ。
因縁により生滅しており、無我であり、空である「それ」としてあるのだと思います。
我空法有はパーリ語で何といいますか?検索しても出てきませんが。 ちなみに無我ということも、空ということも、無いという意味ではないですよ。
我が無い、固定していて実際の存在として捉えることの出来ない、認識としてだけ有り、実際は瞬間で生滅している無常の「それ」です。
あるがままのそれです。 >>651
テーラワーダでは法は「因縁により」生滅している
と誰か言ってる人がいるのですか?
>>652
我(アートマン)は生滅しません。
あなたがどう思おうともそれがアートマンの定義だからです。
生滅するものでしたらテーラワーダ(分別説部)含む部派仏教の中に我を加えている部派はあったのかもしれませんが事実として我を法に入れている部派はありません。 分別説部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(atta)なるものなども存在しない、故に「無我」(anatta)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、究極的には四つの範疇に分類されるモノが実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
現在の分別説部では、そのような究極的実在を、パーリ語でparamattha[パラマッタ]と呼称します。
その意味は、parama(第一の・勝れた)+attha(本質)で、漢訳語ではこれを「第一義」あるいは「勝義」などと言います。
あるいは、それら究極的実在を、vatthudhamma[ヴァットゥダンマ]などとも呼称します。
これはvatthu(拠り所・基礎)+dhamma(存在)で、いわば存在の根拠、要するに実在するモノのことです。
さて、ではその四つとはなんであるか。これを簡潔に表にして示せば、以下のようなものです。
(paramatthaの法の区分表)
これら四つの範疇に属するいちいちの法はすべて真に実在するのであり、これ以外の実在を認めるのは誤りである、というのが分別説部における見解です。 >>654の続き
現在、俗世間では一部に、何を根拠にその様に言うのか知りませんが、「上座部は小乗ではない」・「小乗では無かった」などと主張する一類の人々があります。
しかし、上に見たように、個我は実在しないけれども、しかし何事か真に実在するものが有るという見解を建てている以上は、これを大乗では「人空法有[にんくう ほうう]」などと云うのですが、
まさしく大乗から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされ、称された教え以外の何物でもないことになるようです。
また、現存する諸部派の成立についての伝承や、それらに対する大乗の見解を記した典籍からしても、多く分裂してその見解の是非を競っていた諸部派は、大乗から小乗と呼称されたものです。
であるとしても、しかし、それら部派の教義・教学体系には見るべきもの、学ぶべき有益な事柄が多くあります。
実際、大乗の諸学派はそれら部派を小乗と呼びながらも、しかしそれら(特に説一切有部・経量部・大衆部・犢子部など)を学ぶことは必須のものでした。
実際、大乗であろうが小乗であろうが、いずれも仏陀釈尊という清泉より涌出し、連綿と流れ来たったものです。
そこから汲む水は、その広狭・浅深こそあれこれを散ずれば、等しく人を、世界を潤わせ涼やかにする有益なものに相違ありません。
http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm >>646
有難うございます
丁度仕事に就こうと思っていたので励みになります。
私も瞑想に費やして行ければ良いなと思います。
いかんせん意思が弱く徹底できていませんが・・・ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1150937286
これを読むと、我空法有は大乗仏教が、小乗仏教(説一切有部)に対して付けたレッテルじゃないですかね?
大乗仏教の立場は一切皆空ですが、それはブッダの立場と一致するように思います。
法には二つ意味がありまして、真理という意味と存在という意味です。
存在としての法は、我々の意門の対象、概念としての法ですよね。それは当然、無常ですから生滅してますし、
生滅するものは全て因縁が絡んでいるはずです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
私の言う我はアートマンではないです。
固定していて、不変の、存在として捉えられる、実在、実体として捉えられるもの。という意味です。
自分の我は自我ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 説一切有部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(ātman)なるものなども存在しない、故に無我(anātman)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、大きくは二つ、あるいは五つの範疇に分類されるモノが真に実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。
が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。
吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。
真実(諦/satya)について、その見方によって二つの階層を設定し、そのそれぞれの価値を認めているのです。
そして、そのような真実についての理解の仕方は、その内容とするものこそ相違があるものの、大乗にも引き継がれています。
個我は実在しない。けれども、生命・事物など仮の現象を構成する、真に実在するモノがあるという見解を、大乗では「人空法有[にんくうほうう]」などと云います。
そして、そのような見解自体、またそのような見解を至高として奉持する人々は、同じ仏教であっても、大乗の立場から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされてきました。
特に説一切有部は、インドで最大勢力を誇る部派の一つであったこともあり、その見解・学説は、大乗の主要な批判対象となっています。
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