【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521007589/l50
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 修行寺の生活は朝が早いですが、これも偶然ではないと思いますね。
日本のお寺でも、朝勤行(朝のお勤め)というのがあるようです。
一日の一番最初に、一番大事な仕事をしてしまうというのは、とても合理的だと思います。 >>446
>>八戒で生活されている方々をみていると
在家の人が守る八斎戒のことでしょうか?
生活している、というのは毎日、という感じで聞こえるのですが、
一日だけ守るものであっても、残りの毎日が変わってくるものなのでしょうか。 >>448
例え一日でも、守らないよりは守った方がずっと良いと思います。
もし仮にお酒が止められない人がいたとしたら、曜日を決めて毎週一日
だけでも五戒を守ることから始めるようにお勧めするでしょう。
自分がその立場なら、次の段階として、毎日、安定的に五戒を守ること
を目指すでしょう。
その次は、毎月、新月と満月の日(あるいは毎週日曜日)だけでも、八戒
で過ごすことを目指すでしょう。
その次は、毎日、八戒で過ごすことを目指すと思います。 >>449
よく理解できました。
ありがとうございました。 私も頑張って床で寝てみようかな。
やってる方いらっしゃれば効果のほどを教えてください。 八戒のは座具を一切使わず床に寝ろってことじゃなくてふかふかのソファー・ベッドで寝るなって話でしょ!? 仏教うんぬんじゃなくずっと床(カーペットくらい)で寝てるけどたまに布団で寝るとすごい熟睡できる
ただ疲れる気もする
小食や菜食と同じでたまに肉とか高カロリー食とか食べるとそのときは元気になるけどそのあと結局疲れるみたいなことかなあとも思う 五戒は死んでも守るぐらいの気持ちが必要だけど、八戒はできれば。
自分も若い頃八斎戒頑張ってみたけど、無理だった。
若いうちは食わないと体もたないし。
ここ一番、瞑想に集中する時期なんかはしっかり守った方がいいとは思う。 寝る場所は特にどうということはないけど、
歌やダンスを見たらいけない、というのは守るのは難しいな
聞きたいし見たい 例えばアイドルにのめり込んで、大金をつぎ込むとかでなければ全く問題なし。程度の問題。
お酒もそう。それより不妄語戒なんかはほとんどできていないだろうし、こっちの方が余程問題。
菜食なんかも軽んずべきではない。 あと、常に音楽を聴いているようなのもちょっと気になる。あと、フェスなどガンガン音がするのを好む傾向がある人もどうかな。 youtube好きだから困る
ここ一週間は新体操見てる。楽しい
でも一日ぐらいなら、我慢しようと思う 我慢といわれると、執着が入っているかなと思う。そのレベルがどれ程のものかまではわからないけど。
スパッ、スパッっと対象に対して意識がきれるかどうかが一つの目安になると思う。 執着ありますよ〜。ダメなことだと分かってるんだけど、好きなんですよね。
無くても別に困らない、程度ですが。
対象に対して意識がきれるかどうか、とうのはよく分からないです。あるような気もするし、ないような気もする。
よければ詳しい説明をお願いしたいところですね。実体験などあれば・・・。 一般的に無くても別に困らない程度なら問題ないと。執着そのものを否定しているわけではないので。
個別的にはほんと千差万別で文章ではきちんと説明しにくいかな。直接話をすればすぐなんですけどね。 一番誤解が少ない感じなのは食事かなー。とりあえず健康体で過度のストレスとかないのに、
肉食をやめられない人
腹八分目ができない人。
甘いものを必要以上に食べる人。
美食をやめられない人 などなど あくまでIMOだけど、
人でくくるのはやめといた方がいいと思ってる。
問題は個別の身口意の行為であって、人でくくると人格攻撃になり兼ねない。
普段の会話とか、ちょっとしたところで内面の姿勢は出てしまうので、普段から
気を付けておきたい。 「こういう行為はするべきでないのに、あの人はそういう行為をする人」っていう思いは
ディッティ(見)であって、固定観念だよね、て話。 >>463自身は
>>462の内容には全く当てはまらない感じ? >>464
固定概念じゃなくて実際に不道徳な行動をしている人はどうなるの?
どう考えるべきかな?
それでいやな気持になるんだけど どの観点からものをみるかによると思う。
人間関係や社会生活の中に身を置く限り、貪瞋痴の反応は勝手に生じる。
その一方で、それに飲み込まれないように気づきに留まろうとする部分もある。 善悪など、欲六界の出来事に反応しているってことは、
六道輪廻のなかに身を置いてるってことでしょう。
彼岸に渡ること、解脱はそのゲームから離脱することだと思うので。 嫌な気持ちになるのは、六道輪廻に見を置いているってのは分かる
でも世の中をよくするには、皆が少しでも自分の間違いを正していかなきゃんらないってのも思うんよね
まあ不還果になったら変わるのかもしれないけど
どうなるのかってのは想像が付かないけど 自身の足の置き場を、貪瞋痴(五蓋)に置くのではなくて
気づきに置くようにシフトしたいのね。
身口意の反応は、貪瞋痴の反応ではなくて
気づきに留まる意識からの慈悲で選択的な反応をしたい。
それが正思惟からの正語、正業、正命だと思うので。 >>470
なるほど。慈悲の観点から見るわけですな。
分かってるようで分かってなかった。
そう思うと、嫌な感情ではなく、適切な感情になりそうです。 八正道に慈悲の概念を混ぜるのはどうかと。
八正道では、身口意を慎む、控えることになってる。解脱の為に。
積極的に慈悲行をせよ、とは説かれていない。
慈悲は修行をサポートするのは間違いないけども。 >>438
図解ありがとうございます。
参考にしてみます。 テーラワーダ(上座部)仏教の正体とは?本来の仏教との7つの違い - 仏教ウェブ入門講座
https://true-buddhism.com/shuha/theravada/ >>476
概念であの仏教とか、この仏教とか思ってる段階。 >>477
スマナサーラが大乗仏教が〜、説一切有部が〜と言ってる状態だからな 大乗仏教とか、○○仏教とか、名前を付けた時点で区別してるんだから、
その先に生じる思考のバリエーションとして、どっちが上(増上慢)とか、
どっちが下(卑下慢)とか、いやいや同じだ(同等慢)とか、出てくるのは
あらかじめ自明。
それが此岸のゲーム(六道輪廻)そのもの。 >>476
ブッダゴーサってパーリ仏典自体を編集したの?
注釈書じゃなくて? >>479
そういう思想は我空法空の大乗仏教寄り。
テーラワーダはアビダルマで法をきっちり分類しその実在を認める我空法有だから目標とするところは無分別智とはまた違う。 誘惑に負けてオナってしまうのですが
なにかいい方法があればご教授ください >>482
スッタニパータ ラーフラ
335 [師(ブッダ)がいった]、ラーフラよ。しばしばともに住むのに慣れて、お前は賢者を軽蔑するのではないか? 諸人のために炬火をかざす人を、汝は尊敬しているか?」
336 (ラーフラは答えた)、「しばしばともに住むのに慣れて賢者を軽蔑するようなことを、わたくしは致しません。諸人のために炬火をかざす人を、わたくしは常に尊敬しています。」
以上、序の詩
337 「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。
338 善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。
339 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起こしてはならない。再び世にもどってくるな。
340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。
341 愛欲があれば(汚いものでも)清らかに見える。その(美麗な)外形を避けよ。(身は)不浄であると心に観じて、心をしずかに統一せよ。
342 無相のおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るであろう。」
実に尊き師(ブッダ)はこのようにラーフラさんにこれらの詩を以て繰返し教えられた。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
このブッダがラーフラに説いた教えを守れば良いと思う(特に340と341) >>481
>そういう思想は
どういう思想だと解釈したのか分からない。
言葉でやりとりすること自体がもう面倒くさい。 教理教学なら、経典を直接読むか、師僧に聞くからいい。
他人と話すと面倒なことばかりでうんざりする。 >>482
たまって出さざるをえないのなら問題にしなくてもいいんだよ
大した必要性もないのにするのなら問題だけど
要は貪ったらだめということね 自分もオナニーするけど、これは邪淫に含まれるのかなぁと思っちゃう。不倫するのとはわけが違うし。
ただ、やりたいようにやってると欲に振り回されてる感じがするから、土曜日の午後だけって決めて、それは守るようにしてますよ。
自分なりのルールを決めたらどうですかね 性欲も睡眠欲と一緒でなかったらダメなものだからね
修行を完成させるために寝るなとはいわれないでしょ?
性欲も一緒だよ。やっていい。でも出家者はオナニーもだめなんかな? みなさま有難うございます
不浄観を養いつつ土日だけと決めやってしまった場合でもくよくよせず
精進したいと思います 菜食主義を「心がければ」性欲はかなり落ち着いてくる。
慣れるには三月ぐらいはかかるかな。 ●説一切有部が伝える部派分裂
『異部宗輪論[いぶしゅうりんろん]』とは、説一切有部[せついっさいうぶ]の比丘、世友(Vasumitra[ヴァスミトラ])によって、1-2世紀頃に著されたと思われる書です。
仏滅後のサンガが分裂してさまざまな部派を形成した経緯と、それぞれの部派の教義の要を、説一切有部の立場から記されています。
(中略)
『異部宗輪論』が伝えるところの、仏滅後はじめてサンガが分裂した原因。
それは、仏滅後100数年を経て、摩竭陀(Magadha[マガダ])国の無憂(Aśoka[アショーカ])王の治世にて、
当時その学徳・行徳の高さを讃えられている大天(Mahādeva[マハーデーヴァ])という名の比丘が唱えた、阿羅漢[あらかん]についての五つの事項であるといいます。
これを大天の五事といいます。
(中略)
そもそも、大天がなぜこのような五事を言ったのきっかけは、大天がある日、おぼえず夢精してしまい、弟子にその衣を洗濯させたときに、弟子からの質問に答えたことに始まったといいます。
すでに触れたように、大天は当代きっての高僧として世間に認められ、みずからを阿羅漢であると称していました。
しかし律蔵では、人が夢精するのは、その者が心を安立していない為、念を失している為であるとしています。
故に阿羅漢であれば、夢精などするはずのないものです。
そこで弟子は、「阿羅漢はすべての煩悩を滅しているはずですが、なぜ阿羅漢のあなたが夢精などするのですか?」という、素朴な疑問を発したのでした。
『婆沙論』の所伝によれば、大天のこの説は、そのようなやりとりの中で弟子への答えとして出されたものです。
しかし、大天は、この説を「餘所誘無知 猶豫他令入 道因聲故起 是名真仏教」という偈頌としてまとめ、布薩の場で公然と主張したと言います。
これが大問題となったのでしょう。
サンガではこれをどうみるかで意見が分かれ、ついにサンガが分裂するに至ったといいます。
http://www.horakuji.com/lecture/vinaya/SectarianBuddhism.htm 根気よく三学の修習を進めていくうちに、性欲は制御できるようになってきますよ。
食欲、睡眠欲よりよほど簡単。 座る瞑想で深い集中を経験しておくと、普段の精神統一の度合いも底上げされるはず。
一日の最初に、まず戒律と瞑想をやってしまうのがベスト。 サティを保つことが本能に流されることと両立するのかどうか
やっていけば分かる。 >>489
自分の心に「やらされてる」って気づいた方がいいですよ。
自慰行為は集中力が落ちるから私はお勧めしません。
私の場合は一週間ぐらいは影響が残りますね。 オナニーは快楽。まずそれを素直に認める。
その上で、このつまらない快楽に耽っているのがいいのか、涅槃という究極の安穏、
2500年間、たくさんの人が目指して挫折していった、人間の限界を超えた楽しみ、解脱に達するのがいいのかをじっくり考える。
オナニーしたらしたでいい。それでも自分は、死ぬまでに解脱に達する。全ての煩悩を滅ぼして、苦しみを終わらせる、
不惜身命、解脱の為にはひとりの人間の命、肉体などは捨ててもかまわない、たとえ明日死ぬとしても、今日のうちに必ず解脱に達してみせる、
という覚悟でいれば問題ない。 オナニーは快楽。それは確かに同意です
だけど、オナニーした後の瞑想はあまり心地よくないので、それを思うと踏みとどまれることがあります。
それでもやってしまったら、賢者タイムのときにティッシュに出したものをじっと見つめる。
お世辞にも清らかなものとは思えない液体をよく見る。で、次にやりたくなったら汚れたティッシュを思い出し、あれを出すのかと思うと、なんとなくする気が失せます。 嘘つきが嘘を本当だと言って
傷口を広げているのに似ているのう 小乗の説では煩悩を尽くした阿羅漢の人は、眠らないか横臥したまま正念を保つから性的な夢を見ず、夢精しないらしい。
しかし、いわゆる大衆部の祖「大天(マハーデーヴァ)」は、彼が阿羅漢を自称しながらも夢精したという経緯を弟子(大天に仕えているのでザーメン汚れ袈裟を洗濯していた)に問われ、阿羅漢も天魔の作用によって夢精するという見解を示した
(異部宗輪論「余所誘・ほかのものにさそわれること」=阿毘達磨大毘婆沙論「天魔所嬈・てんまになやまされる、夢失不淨・むせい」)。
律蔵には、自慰・オナニー・マスターベーションなど故意の射精を禁じる「故出精戒"śukravisṛṣṭir, śukravisarga"」があり、
僧残法"saṃghāvaśeṣa"という大勢(20人以上)の比丘への懺悔によって僧団に残してもらえる比較的重い罪に該当する。
律蔵は夢精について赦すようで、比較的重い罪「故出精(故意の射精)」にも相当せずに済む。 無漏というのは24時間、365日、正念にほころびが無い状態だとすると、
夢精はあり得ないね。
わたしレベルでさえ、夢の中でも抑制が効くのに、これより戒と定が進んだ
状態において夢精に至るとは考えられない。
>>499
三学の実習をしないと分からないよ。
知りもしないで嘘呼ばわりされても、本当のことだからどうしようもないね。 俺はノイローゼで療養してた時、夢精した事がある。
別に性的な夢を見た訳でもないが。
体が弱っていると出てしまう場合がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E7%B2%BE 一休禅師は大悟徹底した後、子供を作ったという噂がある。
阿羅漢になっても性機能が無くなる訳ではないみたい。
やろうと思えばやれるようだ。 テーラワーダとかあまり知らん通りすがりだけど面白いテーマなので書き込み
二人の若者が将来について議論し、一人は神聖な教えを求めて聖堂に入り、もう一人は世間の享楽のほうが良いと思い売春窟に住むようになりました
やがて聖堂に入った若者は、もう一人の若者が売春窟で楽しくやっていることを羨ましく思い、聖なる教えも結構だが、世間の楽しみを全て棄てて自分は一体何をしているんだろうと後悔するようになりました
売春窟に住む若者もまた自分の惨めさに満ちた人生を後悔し、聖堂に入った若者を思い、聖なる教えを求めて涙するようになりました
やがて死の時が来て、死神は聖堂に入った若者を地獄へ、売春窟に入った若者を天国に連れて行きました
心というのは不可思議なもので、制御するのも難しい
過剰に抑圧することによって、逆に悪い印象が強い影響力を持つようになることもあるし、制御することなく手綱を外して欲望のままにすることによっても、その印象を強く受けることになる アーナンダ尊者も、釈尊入滅前、女性についての対処を釈尊に尋ねた。
釈尊曰く、「見てはいけない、話してはいけない、慎しんでおれ。」
阿羅漢になっても、性欲に対しては気をつけないといけないようだ。 テーラワーダの戒律は、仏教徒にとっては直に接することのできる三宝であるから
テラワダの阿羅漢が自ら戒律を破って、在家仏教徒のサンガへの信を損ねるような
真似をするとは考えられない。
また、本能についての考え方は、有身見の有無によってまるで違ってくる。 自我(自己)が、ある種の錯覚に過ぎないとわかれば有身見がなくなる。
その状態では、生存本能すら捨てることはそれほど難しいことではなくなってくる。 ただし、生存本能の世界で生きている一般人に、そういう話をストレートにする
わけにはいかないので、有身見の誤りを見破った人も、おそらく黙っている場合が
多いと思う。 >>510
あなたは自分の修行を進めるには5ちゃんは止めるべきだと思う
そうすればもっと世俗からの厭離が進み離欲も進むだろう
今程度で良いというなら今のままでもいいが まず自我はある種の錯覚じゃなくて完全な錯覚ね。
有身見が無くなった預流果には貪欲、瞋恚は普通にある。生存本能は捨てられない。
阿羅漢果になれば命を捨てることは簡単かも知れないが。
戒律を破っちゃいけないって感覚は阿羅漢には無いと思うが。もうすでに自我が、慢が無いんだから。
俺には欲が無いぞ、阿羅漢に悟ったぞ、解脱したぞってのは慢がある証拠。
もうすでに、戒定慧も八正道も、仏法も何も関係が無くなった人が阿羅漢。
「我ありと思う心を捨てよただ 身の浮雲の風にまかせて」 一休 お釈迦様の初転法輪時には自ら悟った、解脱したことを宣言されているよね。 釈尊は特別。
法を説き初める時には、誰かがまず宣言しなきゃいけない。よりどころになる為に。
だから仏法僧の三宝も、僧とブッダを区別してる。 どうも悟ってない人ほど、聖者信仰が強いように思う。
聖者は清らかであるはずだ、煩悩が完全に無くなっているはずだ、人格が完璧であるはずだ。
聖者は自分が凡夫であることをよく知っていて、よく気をつけているから聖者と呼ばれているだけで、
自分が凡夫であることを知らない人こそ本当の凡夫。自分は聖者だと思っている人は救いようがない凡夫。 自分って、要するに五蘊だからね。
お釈迦さまに最初から答えを全部教えてもらってるのだが、意味がわからないんだよな。 聖者信仰してるわけじゃないのに、テラワダの伝統に忠実なだけで
聖者信仰してると思い込まれたりもするよ。
人が何をみてどういう反射をするか分からないので、もうどうしょもない。 その五蘊は因縁によって生滅している。
おっさんの五蘊は今までのおっさんの因縁により、おっさんのような五蘊を形成している。
ビールが好きかもしれないし、昼寝が好きかも知れない、女が好きかも知れない。
そうゆう事はない、ただの五蘊だ、人間ぽい感情などありはしない、というのが聖者信仰。 煩悩が無くなるのかどうか、すでに十結で説明されてる。
もし無くならないという主張なら、それは仏説に符合しない。 どこまでが煩悩か。
本当に欲が完全に無くなるのなら、スッタニパータに離欲を貪らない、と説かれない。
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
サーリプッタ尊者も甘い物が好きだったらしい。人間だから色々ある。
その人間をそのままに執着しないのが阿羅漢。 >>521
教学的には色貪、無色貪のことじゃないかと思う。
離欲を貪る、とあるからには貪があるはずだし、であるからには無明がある。
無明と貪りから離れて涅槃を目指すことを、離欲を貪るとは言わないでしょ。 >>gFVafdnV
参考までに聞きたいのですが、無常・苦・無我、はどこまで理解されていますか?
深く体感するところまであるでしょうか? >>523
ちょっとよく分からないけど、自分は離欲を貪るというのは、
ブッダがやられた苦行みたいな事なんじゃないかと思う。
食欲を無くそうとしたり、寝ないでいようと思ったり、生理的欲求を無くそうと一生懸命になることなんじゃないかな。 >>524
まだ全然です。
自我がないのは経験的に知ってはいますが、普段は自我で生活してます。
八正道が涅槃まで続いているのは見ました。(あくまで比喩的表現です) >>526
ありがとうございます。
私事で恐縮ですが、最近、頭での理解から体感での理解になりつつありまして。
全然違う感じで驚いているんですよね。間違いなく悩み、苦しみ、迷いは減りました。 >>527
なんともありがたいことですね。
仏法に出会えたことが何よりの宝です。
>>511
そうですね。
ありがとうございました。 >>526
たぶんそれは自我じゃないですよ。
一旦自我は存在しない妄想だと分かれば、自我で生活するとかありえないと思います。
わざわざ自我を妄想しながら生活するんですか? あなた達はヒンドゥー教徒ですか?
自我を幻影(マーヤ)のように扱うだなんて
いや、あなた達がヒンドゥー教徒ならそれでもいいですが
もし自我が心や心処を指すのでしたらテーラワーダではその存在は一瞬だけとはいえ実在であると認めています
だからテーラワーダの勝義諦には心や心処が入っているのです 自我は存在しない と何が認識するのだろうか
自我以外のものが 自我は存在しない と認識できるのか 自我、我はどこにも無いでしょう。
五蘊の中にも無いし、六根の中にも無い、心にも心所にも無い。
我を妄想する人には、妄想として存在するでしょうね。我見として。 >>531
一瞬でも涅槃を経験し、認識が止まった状態を経験すれば、
自我が認識から生まれる錯覚、妄想であることが分かる。
その瞬間、五蘊の中に固定した私というものが有るという見解、有身見が無くなる。 不善心所なんて悪い意味での自我に分類されませんか? スマナサーラ長老も似たような言い方してたかな。
私はスマ信者だから。 >>530
>テーラワーダではその存在は一瞬だけとはいえ実在であると認めています
このことはどこに書いてありますか? スマナサーラ長老が説法で、
「私は若い頃秋葉原によく行っていた。機械類をよく買ってしまうので、部屋に置き場が無い。」
とおっしゃっていた。
これを、「スマナサーラ長老は欲がある。聖者では無い。」と捉えるか、
「かっこつけて聖者のふりをしない、スマナサーラ長老は本物の聖者だ。」と捉えるか。
どちらも妄想であるのは確かだが、実は他者を見るときには自分自身の影を見ている。
欲深い人は他人に欲を見るだろうし、愚かな人は他人に愚かさを見る。 経験した涅槃の状況や認識が止まった状態を説明してあげればいろいろ参考になるのではないかと思う 確かに涅槃となぜ理解できたのかの判断基準とか興味ある 預流果に悟る瞬間は一瞬だから、それが涅槃だったかどうかは本人は分からない。
本人としては、「あれ?眼耳鼻舌身意の全てが動いている、一瞬も止まっていない、これは何であるとか、ここに何があるとか、認識は成り立たない。」という気づきはある。
後でマハーシ長老の本を読むと、どうやら涅槃で間違いないみたい。 >>538
http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm
上記サイトの
分別説部における「無我」の理解 ―人空法有
http://www.j-theravada.net/qa/gimon58.html
説一切有部を批判するためにテーラワーダ仏教がアビダルマを発展させたと言っても過言ではないほどです。
テーラワーダ仏教は「三世実有」に真っ向から反対するのです。テーラワーダにおいては、存在するのは、今の瞬間のダルマだけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%87%8F%E9%83%A8
経量部のページですが
説一切有部のアビダルマ説を批判・修正する。
「三世実有」説に対しては、現在に於いてのみ法有を認め…
(ここまでは経量部もテーラワーダも同じです)
https://gamp.ameblo.jp/2430soken/entry-12011887155.html
テーラワーダ仏教の勝義諦はそれぞれ変わらない性質をもつもの「自性がある」と言われています。
テーラワーダ仏教は法有で法空の立場ではありません。
など
説一切有部と経量部やテーラワーダの違いは法の実在を三世に渡って認めるか現在のみ認めるか
また法の分類の仕方など
※法とはここでは諸々の存在要素というような意味であり無常とか縁起とかの法則の意味ではありません >>543
ありがとうございます
これってミリンダ王の問いの例えを使うと
車は実在しないけどタイヤなりハンドルなりは実在するという意味なんですかね 最近、中村元の龍樹を読んでいるのですが
中村元によると説一切有部の法は概念であり、超越的実在という理解ですが
スマナサーラによると説一切有部の法は自然的事物であるように見えます。
中村元 龍樹より抜粋します
・有部は法の実在を説いたのであって、自然的存在の実在は説かなかった。
・存在はつねに時間的に存するが、法は、「それ自身の本質を持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、超時間的に妥当する。かくして法は有る、すなわち実在する、とされた。
・こういうわけで法は「もの」であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、この「もの」というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意せねばならぬ。
・故に「法有」の「有」とは「経験界において有る」という意味に解することはできないと思う。
・「中論」は決して従前の仏教のダルマの体系を否定し、破壊したのではなくて、法を実有とみなす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と解する傾向を排斥したのである。 ・以上は「ありかた」としての法を中心として考察したのであり、今日のことばでいえば
ほぼ概念の中に含まれるところのものである。ところがわれわれはその他に法有の立場の注目すべき特徴を認める。
有部は概念のみならず判断内容すなわち命題それ自身実在することを主張した。
つくられたものども(諸行)は無常である。しかしながら「諸行は無常である」という命題自身は変易しない。
もし命題自身が変易するならば、つくられたものどもは無常である、とはいえなくなる。
故に命題自身、すなわち「句」も実有であるとされ、五位七五法の分類中の心不相応行法の中に入れられた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています