>>302
自我に認知機能の意味を含ませると話がややこしくなります。
五蘊の識とかぶります。

仏教でいう自我、「私」は、純粋に「私がいるという思い」の事で、
これは有身見と呼ばれる煩悩で預流果に悟った瞬間に消えます。

>止めようとすれば、ますます動くものです。。
>止めようとか、放置しようとかせずに、ひたすら坐っていればいいんです。

只管打坐ならそうでしょう。
サマタ、ヴィパッサナーもしくは止観瞑想の場合は、若干意識して、サマタの場合は完全に意識して、
心の動きを止めます。
釈尊自身が説かれたとされるアーナパーナサティスッタでも、
「身体の動きを静めながら息をしよう」「心の動きを静めながら息をしよう」
とあります。

まぁ瞑想法によるんでしょうか。