生存に必要な暴力性は、肯定される。生命発生以来の真理である。
さもなければ、己の生命が失われるからだ。その意味で、イエスの
「敵を愛せよ」は完全な誤り。その証拠に、イエスを初めとして、敵を
愛せたクリスチャンは唯の一人もいない。イエスやクリスチャンは、
誰よりも敵を憎む。誰も守れないルールは、ルール自体が人間性の
洞察に基づいておらず、誤りだということ。
生存のための争いは、生存が確保されれば止む。争いの途中でも、
「相手を皆殺しにすれば、己の生存に必要な物資やサービスが
得られ無いし、己側の犠牲も多くなる」という「計算」が可能になる
し、生存本能による自他の死への恐れも存在するから、適当な
段階で和解が可能である。私はこれを、「生存本能による自動制御」
と呼ぶ。一方、生存に無関係な宗教やイデオロギーに起因する争いは、
架空の神概念やイデオロギーによって生存本能が破壊された結果
だから、この生命による自動制御が働かず、相手または自己側が
ほぼ皆殺しになるまでは、止めることが出来ない。

暴力性を論じる場合、この両者を明確に区別する必要がある。