>>455
暴力性の定義にもよるけど、俺がここで言った暴力性は
生存や繁殖といった進化論的な適応過程から逸脱した力の行使のうち
肉体的・精神的に種内の他個体や他生物を毀損する行動傾向のことね
もちろん暴力性の「原料」としてはヒトが進化的に獲得した適応的形質が元になってるんだろうけど

ピラミッド型の階層を持つ食物連鎖という概念自体はもはや古いものになってしまったけど
分解者の過程を捨象した生産者-消費者の階層性で言えばヒトは頂点捕食者とは言えるだろうね
頂点捕食者が必ずしも暴力的である必然性はないけども、雑食を含む肉食動物は
なんらかの攻撃性が発達していないとそもそも捕食できないのが普通だからね

慈愛についても、たしかにボノボで観られるようにヒトの近縁種では
社会的紐帯を強化するためのコミュニケーションが発達していて
ヒトにおける慈愛的振る舞いもその一環として捉えることはできるよね
おそらくこういった社会的振る舞いはチスイコウモリに見られるような
互恵的利他行動が元になってるんじゃないかと思う

進化論的解釈に完全に収まってしまう互恵的利他行動が原資だとしても
俺が言った慈愛は進化論的な適応過程を逸脱した行動の一形態で
暴力と発現形態は全く違っても、おそらくは過剰な力の消尽過程という意味では
同根なんだろうと思ってるのね

これは進化論がヒトに当てはまらないということではなく
進化の過程でたまたまヒトが獲得してしまった分節言語によって
ヒトは円環的な自然の過程を逸脱する力を獲得してしまったのであって
この分節言語が当の過程を加工してしまうからじゃないかと
というのが俺が考えてることで、宗教性の根源もいきなり進化心理学による解釈を持ってくるんじゃなくて
分節言語がヒトを含む自然に介入する文化のあり方として考えてみるべきなんじゃないかと
思ってみたりしてるわけね