啓蒙思想のなかで培われた自然権や人権という概念と同じで
ご隠居の生命教にも、生命を至上とする形而上学的な原理を措定することで
暴力性を制御する機能はあるんだよね

でもそれを一歩超えて人間という存在を考えたとき
人間はどうしてこうも暴力的で、それでもなおどうしてこうも慈愛を示すことができる存在なのか
という視点が欠けているように思われる

ご隠居は、人間の暴力性を創唱宗教の精神病の感染、慈愛を生命存続という目的のための精神機能
に還元してしまってるんだけど、人間の暴力性は創唱宗教の影響に限定されない普遍性があるし
慈愛は生命存続に直接関わらない、あるいは関係ないところでも発揮されるよね

俺は決して人間を特別視したりはしないんだけど
生命が生命にとって毒でしかなかった酸素を利用して莫大なエネルギーを獲得しだして以来
進化の果てに過剰なエネルギーの集積のひとつの極点として、ヒトという生物が生み出されてしまったと
認識しているから、生命の存続以上の「過剰性」にこそ人間の性(さが)の特異性が現れてると思うんだよね

そういう点から、ご隠居には生命教の教義はいったんカッコに入れて
生命の存続という原理では回収しきれない人間の性(さが)に
もっと目を向けてほしいと思ってるんだよね