外教の神様が菩薩や明王に調伏されて、
それまではその力を悪逆な暴力に使っていたのを調伏後は仏教を守護し仏弟子が育つ手招きをする、正しいことのために使うようになるべく改心する、
というのは密教の醍醐味だと思う。
しかもそれら外教の神様でももれなく如来蔵を持っているので本来は?仏なのですというのも。

外教の神様の悪逆非道な暴力は人の心にある貪瞋痴の象徴であって仏法僧に帰依し仏道を歩めば貪瞋痴は修行によって衆生を救済するという菩薩の大欲に変わる。
それは一切衆生に如来蔵が具わっているからできる、というかそうなる、ということになる。

密教を行する修行者は外教の神を手本とすべきと思う。