空に足跡なし
 〜現象に対する無執着は解脱です〜

概念の並べ替えで、面白い新しい概念、新しい思考が現れたと思いがちですが、必ずしもそうはなりません。
実在もしない、理屈にもならない、概念思考などはいくらでも作れます。
思考の、妄想の遊びをする人は、やがて自分が考えたことが本当にあると勘違いするのです。
永遠の天国、永遠の地獄、永遠の魂、絶対的唯一の神などの概念は、妄想と戯れた結果なのです。
このような概念は、道の重さを考えて出した答えのようなものです。答えを出しても、その答えが成り立たないのです。

 インドの宗教家、哲学家たちがおおいに議論した十種類の項目がありました。

  一、魂と身体は別々なものか
  二、魂と身体は同一か
  三、世間は有限か
  四、世間は無限か
  五、世間は永遠か
  六、世間は永遠ではないか
  七、真理に達した人は死後存在するのか
  八、真理に達した人は死後存在しないのか
  九、真理に達した人は存在すると同時に存在しないのか
  十、真理に達した人は存在することも存在しないこともないのか。

 この十問に、お釈迦さまは回答しませんでした。これらは実在しない概念の空回りだからです。
ウサギの角について、「長いですか? 短いですか?」とさまざまな議論をするようなものです。
仏教の立場は、長いか短いか答えることではないのです。まず、ウサギの角が実在するかしないのか、質問者の方で立証しなくてはならないのです。
魂と身体が同一か異なるかと答える前に、「魂の存在」を立証しなくてはならないのです。
人間は幻覚を作って、この幻覚が実在すると勘違いして、それからその幻覚について語ったり、対話したりします。
それは時間の無駄。どこにも進まないのです。
様々な幻覚を生み出す親玉は、「私がいる」という幻覚です。
仏教を実践する人は、まずその幻覚を破り、悟りの第一段階に達するのです。
その人には、この世で現れる全ての疑問に回答があります。だから、悟った人に「疑」はないのです。