行、サンカーラにも二種類あるようで、ひとつは現象、存在としてのサンカーラ。
そちらは無明に依存している。もうひとつ、身口意の三業を生むサンカーラ。
身口意の三業には善と悪がある訳だから、気づきは身口意の善の意業だろう。
となれば、無為涅槃という場合には、停止しているサンカーラは現象、存在としてのサンカーラで、意業、気づきはあり続けている。
涅槃、無為を覚知するのは気づきであり、智慧である、という事でいいんじゃないでしょうか。
アートマン無しでも説明できますよ。

有学は、「わたし」の本質、無我を理解していないのだから、「わたしが語る」と言ってはいけない。
執着を強化する。自分でもよく分かっていない単語を使ってはいけない。という理由じゃないでしょうか。