或いは、まさか先生...は、涅槃とは何もない「無」の意味として“自己はない”と述べていますか?
それとも、涅槃は「空」であるからという意味で“自己はない”と述べたのですか?
しかし、「空」というのは縁起の性質を示したものであって、ただ同じことを別の言葉で表現しただけのことです。
これは一切法(有為)のことであって、涅槃(無為)には該当しません。
『ウダーナ』において説かれた通り、涅槃(無為)とは縁起には拠らない一切外のことなのですから。
そして、元々から無為的性質であるところのアートマンが一切法(有為法)に抵触する筈がないのです。
従って、つまり一切法(有為)においてアートマンを認識することがないからといって、それを以て「アートマンが無い」ことの証明にはなりません
(一切法の中に無為を含め、涅槃を空/無我としたのは部派の間違いです)。

 【比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知されると。】
(『ウダーナ』8.3正田大観訳)

さて? この『ウダーナ』に示されたように涅槃を涅槃であるとして、
有為からの出離をそれとして覚知しているものは一体、何(誰)なのでしょうか?
要するに、この有為からの出離を覚知し、縁起に拠らない無為を自覚しているものこそがアートマンなのではないか、
とするのが、この私の見解なのです。
だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。

すべて、辻褄が合っていると思います。


〜これを以ちまして、先生からのレスに対する私からの返信としたいと思います。
元々、先生とは議論する目的ではなくて、アンケート調査の一環として先生のご見解を確認するためのものなのでした。
この後はまた続けて、その他の研究者の先生方にも同じ質問をぶつけてみたいと思っている所存です。
この度は、ご多忙のところを大変、ありがとうございました。
感謝!!


合掌