「涅槃においては自己はない」が、自我意識の喪失とするならばヒンドゥーでも同じだと思います。
アートマンを自覚するということは、つまり、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するということだからです。
分離意識は自己からは無くなり、分別の消滅した全体的な融合意識へと変性する。
つまり、あなたとわたし、それとわたしという分離ではなくなり、すべてが一つの融合された自己意識として自覚します。
そういう意味においては、ヒンドゥーにおいても“自己(個我)はない”として説かれます。

 【〔アートマンは〕行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、また内も外も含み、不生である(『ムンダカ・ウパニシャッド』
二・一・二参照)から、どうして、誰が、それに対して「〔これは〕私のものである」「〔これは〕私である」という観念をもつことが出来るで
あろうか。(18)
 「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって、〔アートマンに〕誤って想定されたものである。アートマンが
唯一である、という〔知識〕がある場合には、この観念は存在しない。種子が存在しない場合は、どこから結果が生まれようか。(19)
 アートマンを、未だ果たし終わっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という
観念をもたない、と見るその人は〔真理を〕見る。(22)
 もし「私のもの」とか「私は」という観念や努力や欲求は、本性上、アートマンにはない、ということを知ったならば、自己自身に安住し
続けよ。努力は一体何の役に立つであろうか。(23)
 アーマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。
それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である。(24)
 「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを
知っている者となる。29】
(同『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.)