『如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである』
(同著『心性本浄の意味』p13-15、注釈15)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf

では逆に、この私からいわせて頂けば、
何故? ブッダからの言葉の文意を素直に読まないで、
故意的に無視した読み方(ウパニシャッドのアートマン意を意識的に避けるかのような)をするのですか?
と、いいたいところです。

>>『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.T,p.149 G.)
>この訳は、誰の訳でしょう。わたしの読みでは、ちょっと違います。

これは中村先生です。
(中村 元著『自己の探究』p105青土社1980年発刊)より。

>嘘をついても、真実を語っても、自分自身はそのことを知っている、というところだろうと思います。--中略--
>あなたの「自己」は、本当に何をなしたのかを知っている、というのは、まさしく「自分自身」の行いであるからで、
>善いことと悪いことを行いうる「自己」と見なければなりませんから、「自己」を「本来清らか」とか見るような見方には立てないです。

これは“自分自身の行いなのだから、自分が分かっていても当然だ”ということではなくて
(また、“自己を本来清らか”だという意味合いとも、また少し異なったものです)、
何故、人間の心には善悪を判断する「良心」というものが備わっているのだろうか? ということをいっているのです。
人間、誰しもが生れつき持っていて、自分の心の中に内在していると見なされるこの良心についても、
原始仏教においては、あくまでもアートマン(自己)の問題として語られるのだということ。
私がこれを採り上げたのは何故か? というと、人間が生れつき持っている良心(善を成さんとする意志)という性質こそが、
実に、重要なアートマン属性の一つに他ならないからなのです。

『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、
精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、決して、私は見ることがない。』
(シャンカラ著/前田専学訳『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.35)