>>419-420
あなたはいつものスマ長老信者ですか?
僧侶の引用だけでは無理だと見ると、今度は学者さんの言説を引用ですか?
懲りませんね...。

ゴータマが否定したのは神そのものの存在ではなくて、
通常、この現象界において知覚できないものは説かないということに過ぎない。
それがアートマン(真我)であり、そして、ブラフマン(神)だということになる。
輪廻している存在である天部(神々)と絶対者であるブラフマン(神)とを混同してはならない。
にも関わらず、後世の仏教徒らはバラモン/ヒンドゥー教を仏教の下位へと位置付けるために、
意図的にブラフマンを天部の一つに過ぎない梵天として描いた。
これが仏伝における最も古くて典型的な神格化だった。
以降〜、梵天の関する記述のすべては後世の創作に過ぎない。

竹村牧男氏。なんと東洋大学学長という肩書ですら、
こんな時代遅れの化石のような教義をまだ鵜呑みにしてるとは驚きましたね...。
それらの説明のすべては、現象界(有為)の性質について教えたものであって、
現象界の本質が空性なんだということに過ぎないから。
元々、現象界の存在ではない(無為)アートマンとブラフマンがそれらの法に抵触するわけがない。
だから、最初から無問題です。

《「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。
『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」
が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」
という言葉も出てきます。
 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)》
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm

あの石飛道子女史も同じだ。
せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。