--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 >>384
(^。^)プロじゃないから。(笑)
好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいだろ。(笑)
他人の批評なんて気にすんな。(笑)
>冷静な態度で示したのが…木村藤子
了解で おじゃります
福来友吉(1869年12月5日 - 1952年3月13日)
超心理学者。東京帝国大学助教授、高野山大学教授
鈴木光司の小説『リング』に登場する、伊熊平八郎のモデル
御船千鶴子(1886年7月17日 - 1911年1月19日)
山村貞子の母親(山村志津子)のモデル
たとえば、架空の作り話であったとしても
部分的には本当の話を題材としている場合もあるかもしれない
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命…
果報(報い、果熟)を生じる因となる - 業(karman)
魂魄(こんぱく)
魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰す
https://www.youtube.com/watch?v=JgBxWod3-no
【青山繁晴】硫黄島の写真(幽霊の話し) >>378
だったら、>>352を取消しとけwww
ずっと、必要不可欠だという話しかしてないのに、
なぜ、しょきょの口車に乗っかって、魂中心で文章を作るか・・・w ┐(´ー‘)┌
>これは肉体が在ってのことだけれども、
>肉体には拠らない経験学修をしてくる
肉体による学習(→身体からの入力)を、
整理し、蓄積し、統合し、或る経験・知識・スキル・習慣(≒戒sIla)として
≪「身につけておく」必要≫があるのかないのか? と尋問してんだよ、こっちは。
一在家並みの馬鹿に戻っちまったか? >>宝珠 ああ、
でも、カラスやサロメや在家やらに対して、どういう反応をするか?
は、仏法理解度、及び対仏教の立ち位置、のバロメーターかもしれんwww 「尋問してる」とか。(笑)
日本語を知らんのかな?(笑)
要は「本当の私」は身体感覚器からの情報、或いは何らかの物理的情報入力無しに活動しうるのか、認識しうるのか、だろ?
そりぁ、宝珠さんとかは「本当の私」を仮定してるんだから、そうなれるしそれが目標でしょうよ。(笑)
仏教ではそれはないから如法であり如来如去なんだが、この辺の呼吸を間違えると他力思想になる。
これは招入門が目的地になっただけだが、ある意味ソチラも同じで、
三界万霊への普供養を単に現世に向けた慰めとするのも一端でしょうよ。
(^。^)いいか、お前ら!一切を供養するっていってんだから一切を供養するんだよ!ドン!(笑) >>380
>よって、免許を持っていれば、その車種であれば乗った「経験」がなくても別の「経験」で操作、運転出来ます。
>その車種であれば
>>362では、 『全く異なる形状・種類の車でも』 という条件になる筈だが?
敢えて無視か?w
>ある程度類推が
類推で済んだら、世の中の事故はもっと減ってるわw
ま、それはともかく
家族が増えて、スポーツカーからワゴン車に替えた時、結構擦ってる人多いと思うんだよねぇ・・。
車(自転車やバイクもそうだけど)の運転って、身体感覚の延長に他ならないからね・・。
車庫入れや縦列駐車になると、そこに空間認識力(≒距離感)も絡んでくる。
だから、(―こういう発言すると、フェミや人権連中がうるさくなるけどw―)
「女子は車庫入れ・縦列が苦手」という言説が広まっちゃうんじゃねーの?
或いは逆に、男子は台所仕事が苦手、女子は得意(でなければならない!)ってのも、
その分野での身体的経験の量の差異を、世間が男女(の能力)差に変換してるんじゃねーの?
それは、ひとえに、
身体的経験は、積まれれば積まれるほど、重ねられれば重ねられるほど、
反復されれば反復されるほど、その存在(人)にとっての能力・可能性、或いは特質、いい所・長所
になっていくんじゃねーのkし? >>378 なんか余計な文字が入ったが、
>>390
だからw、その前段回の話だよ。
生まれた直後の子でも、優れた阿闍梨やブッダ同様、動き、喋り、人々に法を説き、
居住まいが崇高で、四禅も自在で、一切の煩悩を制御し、静まった心で居るんだ。
或いは、生まれた後そのまま何も干渉せずにチューブで栄養を与え続け、
数か月・数年放っておいても、その子は着実に仏法を身に着けていくわけだ。
便利なぶっきょうだなーーーーー。 宝珠もしょきょも、
A、『一通り、人としての、社会人としての、知力体力感性を身に着け』
B、『仏法に於ける、近づくべきことと厭離すべきこととの分別をつけ、何がほうであるかを見、知り』
『その上でのその先は』
C、,『肉体的情報は不要だ』
という流れの中の C しか口にしていない。
勿論、感官の制御(或いは遮断)は口酸っぱく言われることなので当然だけれども、
そもそも、涅槃へ向かう為の準備段階に、身体的経験(と制御)が不要だとか、
あり得ないと思うんだが、違うのかなぁ・・・。 (―_―) >>393
どうも縁覚という存在をディスってるようにしか読めないんだが。(笑)
390に「仏教ではそれはない」と書いてるように、全てが縁起してるんだから、そちらの感覚に関するご意見には全面的に賛同してんだがね。(笑)
但し、俺はオカルティストだから違う考えってだけ。(笑)
(^。^)それと俺は「その上で肉体的情報は不要」だなんて話はしてない。(笑)
論理的には、極端な例だと、完全に断絶した存在を想定せざるを得ない、ってな話を書いただけ。(笑)
↓本当なのか?嘘なのか?
【新事実】
「女性は地図が読めない」はウソだった!?
男女不平等が女性の空間認知能力を低下させていたことが判明!(最新研究)
…
「女性は男性に比べ、地図を読めない人が多い」これは単なる女性への偏見ではなく
学術的な調査でも明らかになっている傾向である
だが、その原因は、もしかすると属する文化の女性に対する偏見にあるのかもしれない
…
アメリカやイギリスなど
男女の格差が少ない国ほど「地図を読む力」の
男女差も少なく
ナビゲート能力の高い女性も多いことが明らかになったという
_ _ _
おじゃるの知り合いに限定すれば
空間を把握・認識する能力?も
相手との会話を(正しく・正確に)成立させる能力?も
両方とも『とんちんかんぷん』な女性が多いという感じもする
(おじゃるも『とんちんかんぷん』であると自覚?しちょります m(_ _)m )
>縁覚
って何ぬねの?ということで↓とりあえず
スッタニパータ 36
交わりをしたならば愛情が生ずる
愛情にしたがってこの苦しみが起る
愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め
寂静な孤独を好む - 縁覚
↑こんな感じ? おじゃる? 師について四諦を実践して悟りを目指すのが声聞
独りで十二因縁などを観じて悟るのが縁覚
自分独りの悟りに止まらず一切衆生をも救済して共に悟りを目指すのが菩薩
声聞と縁覚は小乗の悟りで菩薩は大乗の悟りだという
しかしそれら三つの道は仏が衆生の機根に合わせて説いた方便であり仏の真なる教えはそれら三乗を乗り越えて
火宅に喩えられる娑婆の現象世界を超えたところに真実の悟りがあるとする
これを三乗方便一乗真実という
人はガンジス河の砂の数ほどの劫数分の過去世のどこかで仏と出会って法華経を説かれて仏の種(仏種)をその身に植えられている
だから人は誰でも仏種を発芽させて仏となることが可能である(人は誰でも成仏できる)とされる 397.迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
大乗の世界観としては
>仏の種(仏種)をその身に植えられている
ということで おじゃりますな?
ちなみに↓おじゃるの場合は
仮設としての
無明に依存しているのなら
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
という感じで おじゃります
自性清浄
心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている 行基が仏(菩薩)になれたのは法相宗だからではなくて過去世において法華経を説法されて具わった仏種が芽生えて以降、
法相宗で理想とする無住処涅槃に入ることができたから。
おそらく行基は前世も前前前世も仏であったし今もその行基以降何度目かの転生が仏として世界のどこかで衆生を救済しているのであろう。 401.迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。 老化すると、色んな言葉が浮かばなくなって、似たような話を繰り返すようになる。
これは人の世の習いで、脳機能の衰退から万人に起きる現象だ。
だから、お前らも「またクソ爺がー」なんて思わずに、尊敬と労り、仏教的には慈悲で接しなきゃダメだぞ?(笑)
(^。^)俺もこうなるんだと最近は身に詰まされてなぁ。(笑)
きっと当人の脳内では、もっと高尚な意義深い話が……どうなんだろ?(笑)
意識活動も停滞して簡単な反射が起きてるだけなのかな?(笑)
科学的にはニューロンの電位とか化学物質を観測して明らかに減退しているらしいが、
意識活動は本当に脳機能だけで成り立つものなのか?
脳死とか、心臓移植による人格的変化とか、生まれ変わりの話とか踏まえてこのクソ爺のレスを見ると、
やはりどうしようもないクソ爺だと思えてくるだろう?(笑)
>似たような話を繰り返す
↓
おじゃる「唯識とは…(なんちゃらかんちゃら)」
ポッタン師匠「大爆笑である!」
隠居師匠「生命とは…(なんちゃらかんちゃら)」
机師匠「すべて無である!」
その他諸々の師匠の方々
仏教だけに限定すると
同じような内容の話題になる可能性もあるかもしれない
↓それゆえに
https://www.youtube.com/watch?v=8WGhdZ7_jgs
京都怪談
三木大雲 - (座敷童のような)幽霊の話し >>403捕捉。
更に脳機能が悪化して植物状態、と言われる重篤な患者さんの場合、
脳死ではないから勿論法的にも生きてるんだが、ここから回復した、
つまり、長期に渡って外界から一切情報を受け付けられなかった状態から回復した人の場合、
以前ネットで読んだが、やはり意識は無かったということだった。
これと健常者のノンレム睡眠時はちがうのだろうか。
意識活動が無いという事は、何も体験してないということか?
マーティン・ピストリウス氏のような入力情報のみだと悪夢だが、
そうではない、完全な無意識状態だと一人の人格、人としての存在として扱うべきでは無いのか。
勿論、臨床的には人として扱うのが建前だが、マーティン氏はその著作で性的虐待まで受けていたと述べている。
また、本邦の介護施設でも様々な虐待が時折ニュースに出てくる。
綺麗事かも知れないがやはり、第三者としては、体験出来る、認識出来ると想定して接するべきだろう。
(^。^)まぁ、俺みたいな奴が言う事じゃあ無いんだが、お前らも他人事と考えずに、頭の片隅に入れとけよ。(笑)
人生は一寸先は闇だからな。(笑)
七氏さんは勿論、これを踏まえて飽くまで自分自心の一つの思考実験として書いてるんだが、バカが誤解すると本意では無いだろうから念のため。(笑) 冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。
何かを考えている限り普通の意識レベルに留まります。
夢を見るときはあなたは潜在意識下に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。
意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊椎を柱として、
無上の喜びの中心にいるのに気付きます。
その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。
医師とか看護師とかの方々は
「通常の生きている人」とは
別の感覚で
>(脳死ではなく)脳機能が悪化して植物状態、と言われる重篤な患者さん
を(植物状態のものとして)取り扱っているかもしれない
これは良い悪いということではなくて
善悪の判断を交えることのない平等性智?として
これは説明するのは難しいかもしれない
(「通常の生きている人」とは別の感覚で取り扱っているのなら
「悪いやつだ!」という批判の対象になる場合もあるかもしれない)
仏教のことだけに限定すると
同じような内容の話題になるけど、とりあえず
おじゃるは
通常のときでも
妄想の渦の中に巻き込まれているけど
いま風邪を引いて
寝ている時に
熱に浮かされて重度の妄想障害で おじゃります
− これを対処するために −
(薬を飲むと更に悪化する場合もあるので薬は飲まずに)
(妄想の渦の中に巻き込まれるのではなくて)
少し離れたところから「妄想を見る」
という感じになるようにしちょります
おじゃる記憶によると
確か、宝珠殿から
「少し離れたところから見る」ということを
(妄想の渦の中に巻き込まれているよりも
「少し離れたところから」の方が楽なような気がします。それゆえに)
ご教示して頂き、ありがとうございます m(_ _)m >>407
(^。^)ねーよ。(笑)
>>408
風邪の時は葛根湯と滋養強壮ドリンク飲んで暖かくしてネットなんぞせんで寝てろ。
「悪いやつだ!」という批判の対象に
> (^。^)ねーよ。(笑)
_ _ _
>ネットなんぞせんで寝てろ
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
(通常のときでも、妄想の渦の中に巻き込まれているけど)
寝ていると
熱に浮かされて妄想障害が現れて
「寝たり - 起きたり」を繰り返しているので おじゃります
↓更に
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
これも↑やっちょります
アージュニャー第6のチャクラ
眉間のところが、むずむずする・くすぐったい
少し離れたところから見る あのなぁ。
困った人だな。
えー、昔の中国の医療では、風邪は文字通り風の邪気に中ったと考えられてました。
また、道教では、周天の時に邪気を巡らせたり妄想したりすると、病になると伝えられてます。
(^。^#)わかったら、ちゃんと寝てろ!いいな! 410.バカおじゃる、は心理学をやっているバカである。大爆笑である。
承狂元密教僧へ
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
>釈迦仏教の矛盾について
これを読むと
↓隠居師匠か?紐師匠か?という感じがする
釈尊の仏法は暗い印象を受ける
とてもついていけない感じを受ける
それは人生は苦であるという設定である
苦の原因は欲望(煩悩)であるから…
_
おじゃる妄想としては
無明している世界から離れるための対機説法として
たとえば、上座部系の場合は
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
(愛別離苦とか・求不得苦などの、もととなる)
無明の意味を理解して、これを前提とすることが出来るのか?出来ないのか?
↓無明を前提とすることを出来ないのが
隠居師匠か?紐師匠か?という感じで おじゃります
(風邪で、また熱が出てきたので おじゃります) 414.無明を前提とする、のがバカおじゃる、である。大爆笑である。 彡⌒ ミ
⊂(´・ω・`)つ
/// /::/
|::|/ ⊂ヽノ|::|」
/  ̄ ̄□o ̄ ̄/|
/______/ | |
|------ー----ー|/ >>414
「無明などはない」などと抜かすアホは勝義馬鹿!!
それはあくまでも勝義の視点であって、
我々、凡夫はそうじゃないから。
もしも、無明がなければ、
こうして我々は生れて来ないから。
無明のない人間は転生してこない(母胎に宿らない)。
要するに、こうして両親を持って生れてきたということは、
無明に陥っているということに他ならない。
だから、そこから抜け出すことが仏道修行です。 417.それをバカ修行と言う。修行バカと言う。大爆笑である。 仏教で否定されてるのはキリスト教の天主のような絶対神です。
神自体は否定されていませんが神の過去世は人間だったりしたものが善業を積んで天部に生まれ変わって神となったりします。
つまり神といえど輪廻する存在でありその意味では人間や餓鬼や畜生や地獄の亡者と同列ではあります。
しかし元々の起源でいえば、釈迦牟尼仏が言うには世界はまず光音天界がつくられそこには光音天という神様が出現したとのことです。
光音天として寿命が尽きたものがその後誕生した梵天界の梵天として生まれ、梵天の中で堕落してものが人類の起源になったと説いています。
詳しくは長部起源経に説かれています。
起源経
パーリ仏典経蔵長部の第27経
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B7%E6%BA%90%E7%B5%8C 「無我」と「縁起」を理解すれば仏教思想は腑に落ちる
https://mananavi.com/%E3%80%8C%E7%84%A1%E6%88%91%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%8D%E3%82%92%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AF%E8%85%91%E3%81%AB/amp/
【仏教は絶対者を持たない】
「この因・縁・果の関係性のなかで、個々の実態は“空(くう)”です。そこに常住の本体はありません。
これは、現象のようなものから、絶対者のようなものまで、同じです。
仏教のひとつの特徴は、宗教的な絶対者みたいなものを実体化しない、ということです。
“絶対”とか“神様”みたいなものをデーンと置いて、そのもとに人間が生きていくのではなく、現象の本質本性を「空」でとらえる。
「有」ではないが、「無」でもない。「空」なのです。
常住の本体とか実在とか、そういうものを徹底的に否定したところに成り立っている見方・考え方です。
このように、人間の主体性を縛るものを、仏教は何も持っていない。
掟もなく、支配もされていない。そうしたものを一切超えて成立しているのが仏教なのです」
このような仏教の“神”観は、キリスト教の“神”観にも影響を与えているという。
なかには仏教の空性(くうしょう)で“神”を考えたほうが、イエスが説いた本来の“神”に近いのではないかという意見もあるという。 419.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。 420.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
> (縁起しているもの)一切を超えているのが仏教(の涅槃)なのです
ウィキペディア参照
宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
それゆえに
> サドゥー(サードゥ)
あらゆる物質的・世俗的所有を放棄して
瞑想などにより解脱を得ることを目標としている
戒・定・慧・解脱・解脱智見
般若の智慧と慈悲によって解脱を観照する 466 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:08:42.48 ID:zCoMQJAc
>>460
いやいや!癒されないか?
あの情深いところとか。
そも、でおはカムイ君から真心の慈悲を受けている。ならばその恩を返さねばw
まああるところではじま
513 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:44:31.90 ID:zCoMQJAc
>>509
シャロンさんがでおを肯定するセンスを持っているように、俺もカムイ君を肯定するセンスを持っている。
それらのセンスに助けられた君じゃないかw
518 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:48:10.47 ID:zCoMQJAc
>>515
シャロンさんはでおーに優しいカムイ君を見てくれているはずさ...w
な、でお。(圧力)
http://www.onedhamma.com/?p=6788
18/10/28 …野狐の声が、自分の中で聞こえてくる
今回の podcast法話は
いまだ証していないのに既に証覚を得たという、独り善がりの
(増上慢)野狐禅について
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
…もし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます
…業感縁起…
_ _ _
(勝義諦としては↓これで良いのかもしれないけど、とりあえず)
たとえば
仮設としての
縁起している世界も認めることもなく
業感縁起も認めることもなく
『すべて無なのであるから
それゆえに、只管打坐も必要がない!』
とか逝っちゃてる師匠とかが野狐禅である。と云うことであるらしい 宮崎哲弥は自分は仏教者だから霊魂の存在も輪廻転生も認めないと言っていますが 429.それは宗教の問題ではない。
なんでか。それは科学の問題である、からである。バカには理解できない。 >>419-420
あなたはいつものスマ長老信者ですか?
僧侶の引用だけでは無理だと見ると、今度は学者さんの言説を引用ですか?
懲りませんね...。
ゴータマが否定したのは神そのものの存在ではなくて、
通常、この現象界において知覚できないものは説かないということに過ぎない。
それがアートマン(真我)であり、そして、ブラフマン(神)だということになる。
輪廻している存在である天部(神々)と絶対者であるブラフマン(神)とを混同してはならない。
にも関わらず、後世の仏教徒らはバラモン/ヒンドゥー教を仏教の下位へと位置付けるために、
意図的にブラフマンを天部の一つに過ぎない梵天として描いた。
これが仏伝における最も古くて典型的な神格化だった。
以降〜、梵天の関する記述のすべては後世の創作に過ぎない。
竹村牧男氏。なんと東洋大学学長という肩書ですら、
こんな時代遅れの化石のような教義をまだ鵜呑みにしてるとは驚きましたね...。
それらの説明のすべては、現象界(有為)の性質について教えたものであって、
現象界の本質が空性なんだということに過ぎないから。
元々、現象界の存在ではない(無為)アートマンとブラフマンがそれらの法に抵触するわけがない。
だから、最初から無問題です。
《「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。
『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」
が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」
という言葉も出てきます。
ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)》
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
あの石飛道子女史も同じだ。
せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。 では、その「縁起」という法はいつどのようにして生じたのか?
それは何故あるのか? を、あなたのすべての知識と理解で以て答えてみなさい!
絶対にできっこないから。
ゴータマすらも説くことをしなかった、
“法(ダルーマ/ダンマ) ”を生じさせ規定している存在、
その力こそが絶対神なのだということ。
つまり、法そのものが神だといってもいい。
仏教界において一方的に悪者扱いにされている『説一切有部』だが、
否しかし、彼らが採った見解“三世実有・法体恒有”は素晴らしい着眼点だったということ。
その持っている視点がとても鋭い...。
彼らの法こそが恒常永遠の存在だと説いたことが批判の対象となったようですが、
法こそが神に拠って規定されているものであるから、それは神の意志の如何によっては永遠であり、
また、或いは瞬時によって断滅されるもの。神無くば、縁起の法すら生じ得ず、
神の意志一つで如来すらも一瞬にして掻き消えてしまう。
それが神というものだ。
聖書には、実は二つの神が説かれる。
つまり、ヤハウェ(主)とエロヒーム(父なる神)だ。
万物の絶対神としてのヤハウェと、我々の魂を肉体に吹き込まれた我らが父なる神(神々/複数形)だ。
この金星から飛来された神々、エロヒームの御一方が永遠の青年と呼ばれるこの惑星の天帝サナット・クマラだ。
京都、鞍馬山寺弘教(天台宗から単立)では本尊、大天狗魔王尊として祀られている...。 >>429
自称仏教徒ほど怪しいものはない。
仏教徒として自ら自称するということは、つまり、典型的な間違いだらけの常識仏教の篤い信奉者ということだ。
真実に気付くようになった者というのは、決して自ら仏教徒などとは自称しない。
現存する仏教信仰で正しいところなどは皆無なのだから。
ゴータマは無霊魂の教えなどは説かない。
原始経典を真面目にしっかりと読めば、無霊魂などという理解が間違いであることはすぐに気付ける筈だ。
だいたいにして、“霊魂”と一緒クタにして語る者というのは「霊」とは何?であり、
「魂」とは何?のことかも分からずに語っていて、
しかも、その「霊」と「魂」の違いすらも分からないという馬鹿タレばかりだからだ!!
「霊」というのは、それが異常状態にある時には世間では幽霊などと呼ばれる。
これを仏教では餓鬼として説き、雑阿含『好戦経』にはモッガラーナの目撃談とこれを是認するゴータマの教えが説かれている。
『餓鬼事経』(ペータヴァットゥ)では施餓鬼による救済の必要が説かれる。
また、良い霊存在の典型としては中部経典第十八経『闍尼沙経』で死後のビンビサーラ王だった神霊とゴータマとの対話がある。
「魂」というのは、五蘊中の「識」のことであるということが『ディーガ・ニカーヤ15経』で説かれ、
「識神」が母胎に宿ることが増一阿含経『三宝品三』に説かれている。
尚、アートマンについては仏教では無記とされて説かれていない。
だから、アートマンを「霊」や「魂」などと混同する愚を犯すではない! >あの石飛道子女史も同じだ。
>せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
>洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
>最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。>>431
その対話時に、
石飛氏bbsへ投稿したものをこちらにもアップしておきます(一部省略)。
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[10831] Re:[10828] 無我とアートマン
---略---
>わたし自身は、もともと、この「非我・無我論争」そのもの自体、どこかにゆがみのある考え方だと思っています。
>「〜でない」「〜がない」という、この違いが、このアナートマン(アナッタン)というブッダの教えの核心だとは思いません。
その核心とは何でしょうか?
それは、つまり「無記」のことですか?
それとも、アートマン(の有無)そのものに対する無執着こそが無我の教えの核心部分だ、
ということを言っているのでしょうか?
>うーむ、ご質問が、ご質問が、うまくつかめません。「増支部」1.6について、考えればよいのですか。
>それとも、“自性清浄心”について、メインに考えるのでしょうか。
はい。そのどちらについてもです。
>「増支部」ですと、チッタ(心)は、アートマンではないです。
>さらに、“自性清浄心”が、「無為法」であるというのは、どこに書いてありますでしょうか。
>この発想そのものが、何かブッダの教えとは違うことを考えていらっしゃるような感じですね。
>逆に、、お尋ねしたいのですが、「心」とあるのに、どうして、あえて「アートマン(自己)」だと思うのですか? もしも、この問題がただ単に、これは“「心(citta)」なのだからアートマンではない”というだけで済む話であれば、
仏教界において、最初からこのことがこれほど論議の対象になる筈はないのです。
だから、これはそうではなくて、この文意が示すものが一切法(有為)を超越した概念を意味しているから問題になっているのです。
まず、その単語一つを見て判断するやり方というのは如何なものかと私は思います。
あまり旨い譬えではないかもしれませんが、もしもここに「地球という星には全体表面積の70.8%を占めて、
全体がひとつづきになって陸地以外の凹所にたたえている塩水というものがある。」という文章があったとします。
そして、それを持ってくるよう指示がなされたとした場合には、この私は文意から判断してこれは海洋の海水のことだと理解するので、
私はどこか近くの海岸へ行って海水をコップに汲んで持ってきます。
けれども先生のやり方というのは、まるでこの単語は「塩水」だからといって、
ただ台所から水道水に食塩を混ぜた食塩水を持ってくるようなものだと思います。
果たして、それは著者の意味したもの(塩水)に対して、本当に正解のものとなるのですか?
それとも、あくまでも文中に「海水」とは書かれてはいなかったからといって、別にこれで正解なんだと主張されますか?
『比丘らよ、この心は浄潔である。
そして、そ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(水野 弘元訳) この「自性清浄心」(心性本浄説)が仏教論議の対象になっているのは、何故なのか? というと、
これが、“心は自性として(本来、生まれつき)清浄である” という意味の文意であるから、
それが一切法の“縁起の理法”に抵触するものと見なされるからです。
縁起的観点から普通に述べる場合には、“修行における完成形としての心は煩悩から解放された清浄心だ”という言い方は在りますが、
けれどもそうではなくて、これは外来の煩悩に塗れる以前の心は本来的には清浄そのものである、といっているわけです。
しかし、仏教的には通常は、煩悩に塗れていない衆生というのは一人もいないのであって(つまり、煩悩がないならば母胎には生れて来ないから)、
人間というのはすべて、オギャ〜と生まれた瞬間にはすでに「無明」(煩悩の根源的性質)に被われているものとされるからです。
けれどもここでは、本来の人間の心というのは清浄なものなのだといっているわけです。
この無自性の世界において、心は自性として清浄なものだと述べているところが、実にアートマンと重なる部分だと言えるわけです。
要するに、これがアートマンの持つ三大属性(“不生不滅にして永劫恒常”、“完全なる清浄性”、“非物質性”)の一つだと言えるものだからです。
『〔それは〕全体であり、一切に遍満し、寂静であり、汚れなく、虚空のように安定し、
部分をもたず、行為をもたず、一切であり、常住であり、二元対立を越えている、〔と知るべきである〕。』
(『ウパデーシャ・サーハスリー』T,15.37)
では、どうして最初から、
ここには「心」ではなくて「アートマン」と書かれていないのか?
何故ならば、アートマンは決して煩悩に塗れることがなく無始の初めから永久に清浄なものだからです。
この経文が意味するものは、すなわち私たちの心というものは深層域においては阿頼耶識、
更には、集合的無意識〜アートマンへと繋がっているのだ、という可能性を示すものなのです。
そして、この自性清浄心を説く聖句の文意からは、そのままこれが「無為法」と理解されるのも頷けるものであって、
実際、大乗の「如来蔵思想」というのは、この自性清浄心を発展したものだからです。
そのことは、水野弘元著『心性本浄の意味』を読めば分かります。 『如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである』
(同著『心性本浄の意味』p13-15、注釈15)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf
では逆に、この私からいわせて頂けば、
何故? ブッダからの言葉の文意を素直に読まないで、
故意的に無視した読み方(ウパニシャッドのアートマン意を意識的に避けるかのような)をするのですか?
と、いいたいところです。
>>『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.T,p.149 G.)
>この訳は、誰の訳でしょう。わたしの読みでは、ちょっと違います。
これは中村先生です。
(中村 元著『自己の探究』p105青土社1980年発刊)より。
>嘘をついても、真実を語っても、自分自身はそのことを知っている、というところだろうと思います。--中略--
>あなたの「自己」は、本当に何をなしたのかを知っている、というのは、まさしく「自分自身」の行いであるからで、
>善いことと悪いことを行いうる「自己」と見なければなりませんから、「自己」を「本来清らか」とか見るような見方には立てないです。
これは“自分自身の行いなのだから、自分が分かっていても当然だ”ということではなくて
(また、“自己を本来清らか”だという意味合いとも、また少し異なったものです)、
何故、人間の心には善悪を判断する「良心」というものが備わっているのだろうか? ということをいっているのです。
人間、誰しもが生れつき持っていて、自分の心の中に内在していると見なされるこの良心についても、
原始仏教においては、あくまでもアートマン(自己)の問題として語られるのだということ。
私がこれを採り上げたのは何故か? というと、人間が生れつき持っている良心(善を成さんとする意志)という性質こそが、
実に、重要なアートマン属性の一つに他ならないからなのです。
『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、
精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、決して、私は見ることがない。』
(シャンカラ著/前田専学訳『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.35) 無明を除いた本来の心は空であり、アートマンではない。
本来無一物とも言う。涅槃とも言う。
涅槃には、良心もなく、汚れもなく、無明もない。
あらゆる概念を持ってきても捉えられず、言語で述べることもできない。 >>437のつづき.
Re:[10833]「Re:[10831] 無我とアートマン」
>しかし、その時、ジーヴァ・アートマン(個我)とパラマ・アートマン(最高我)の区別が生まれます。
何故ならば、ジーヴァ・アートマン(個我)はアートマンそのものではないからです。
彼ら(ヒンドゥー)は輪廻の主体を「ジーヴァ」(ジーヴァ・アートマン/個我)と呼び、これも無明から生じた幻(マーヤー)に過ぎぬものと説きます。
これは魂であり、仏教の説く輪廻主体「識」(後の「阿頼耶識」)に相当するものです。もちろん、これは「アートマン」ではない。
このことについては、ラマナ・マハルシもこう述べています。
『知覚認識できる対象には[現象としての]終わりがあり、知覚認識する主体をジーヴァ(個的生命)であるとするなら、ジーヴァ(個的生命)
とて現象としての終末がある。現われ出るものは何かを見い出し、その現象の破壊(最後)を見極めれば、不滅の真実在 sat (Self) を覚智現成し、
アートマン Atman とは何かを覚了する。新たに現われ出るようなものはいずれ消え去ることになり、それはジーヴァ(個的生命)あるいはその知
覚認識対象であって、アートマン Atman ではない。』
(Talks 1_0704)
>区別があるということは、ブラフマンはブラフマンと考えているからです。
>ブラフマンがアートマンになったら、もはや、ブラフマンの名前はなくなり、アートマンだけが残る、ということではありませんね。
いえ、これはそういうことではなくて、
例えていうならば、“大海の海水がブラフマンであり、これをコップで汲み取ったものがアートマン”だということになります。
区別とはいってもこういうことなのであって、けれども中身はもちろん同質のままです。
これは単に、個的な意味合いを持つかどうかの差異なのです。 >涅槃に入ったならば、自己はありません。
すみません。
ここへ少し長めに引用させてもらいますが、
これらの先生の主張は一体、いつ撤回されたのでしょうか?
【つまり、自己はあるまたは自己はないと書くことができるか、ということが問題となる。もしこのように述べられるのであれば、「自己」は、
おそらく「法」と呼びうる存在であり、そして、当然「生じ滅する存在」とブッダが承認したことになるのである。
しかし、このようなことは阿含経典の中には見当たらない。これにかんしては、中村元博士の『原始仏教の思想』(上巻一六五頁)にも、初期仏
教では「アートマン(アッタン)は存在しない」とは説かれていない、と明言されている。
したがって、ブッダにとって「自己」は生じ滅する法ということはありえない。もし、ブッダが「自己はない」と語ったとすれば、当然生じ滅
する法として「自己はある」も語っていなければならないからである。ブッダの公式に載せられる語でなければならないからである。--中略--
それだから、ブッダは「自己はない」とは語らなかった、そして、もちろん「自己はある」とも語らなかった。いや、語りえなかったと述べた
方がいっそう正しい。(p161-162) --中略--
実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが「自己はない」は説きえないことがはっ
きりしている今となっては、これは当然のことだが。】(p166)
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社2005年刊) 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。これは、「主語+述語」の文の、述語に
置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我
ではない」という意味 です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ論理学』の
【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べる
ことができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。ただ、いつの頃からか「無我
(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)
これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(管理人エム著/マニカナ掲示板過去ログ2739.)
先生もここで「部派」について言及されていますが、
パーリ聖典といえども、その成立過程というのは部派仏教の時代と重なって書かれたのであって、
そして、それがそのままこれらの部派教団によって今日まで所持されてきた。
そして、その教義の拠り処はアビダンマなのであって、仏典とは必ずしもイコールでありません(一切法についての判断が異なっている)。
つまり、仏教史的には「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」ということなので、
現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派というのは一つも存在していません。
この仏教者たちにとって現在でも一般的な認識となっている、“アートマンは無い”ということを勝手に言い出したのは部派仏教であることについては、
すでに多くの研究者たちによっても明らかになっているものと思われますが? 如何でしょう? 「涅槃においては自己はない」が、自我意識の喪失とするならばヒンドゥーでも同じだと思います。
アートマンを自覚するということは、つまり、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するということだからです。
分離意識は自己からは無くなり、分別の消滅した全体的な融合意識へと変性する。
つまり、あなたとわたし、それとわたしという分離ではなくなり、すべてが一つの融合された自己意識として自覚します。
そういう意味においては、ヒンドゥーにおいても“自己(個我)はない”として説かれます。
【〔アートマンは〕行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、また内も外も含み、不生である(『ムンダカ・ウパニシャッド』
二・一・二参照)から、どうして、誰が、それに対して「〔これは〕私のものである」「〔これは〕私である」という観念をもつことが出来るで
あろうか。(18)
「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって、〔アートマンに〕誤って想定されたものである。アートマンが
唯一である、という〔知識〕がある場合には、この観念は存在しない。種子が存在しない場合は、どこから結果が生まれようか。(19)
アートマンを、未だ果たし終わっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という
観念をもたない、と見るその人は〔真理を〕見る。(22)
もし「私のもの」とか「私は」という観念や努力や欲求は、本性上、アートマンにはない、ということを知ったならば、自己自身に安住し
続けよ。努力は一体何の役に立つであろうか。(23)
アーマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。
それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である。(24)
「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを
知っている者となる。29】
(同『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.) 或いは、まさか先生...は、涅槃とは何もない「無」の意味として“自己はない”と述べていますか?
それとも、涅槃は「空」であるからという意味で“自己はない”と述べたのですか?
しかし、「空」というのは縁起の性質を示したものであって、ただ同じことを別の言葉で表現しただけのことです。
これは一切法(有為)のことであって、涅槃(無為)には該当しません。
『ウダーナ』において説かれた通り、涅槃(無為)とは縁起には拠らない一切外のことなのですから。
そして、元々から無為的性質であるところのアートマンが一切法(有為法)に抵触する筈がないのです。
従って、つまり一切法(有為)においてアートマンを認識することがないからといって、それを以て「アートマンが無い」ことの証明にはなりません
(一切法の中に無為を含め、涅槃を空/無我としたのは部派の間違いです)。
【比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知されると。】
(『ウダーナ』8.3正田大観訳)
さて? この『ウダーナ』に示されたように涅槃を涅槃であるとして、
有為からの出離をそれとして覚知しているものは一体、何(誰)なのでしょうか?
要するに、この有為からの出離を覚知し、縁起に拠らない無為を自覚しているものこそがアートマンなのではないか、
とするのが、この私の見解なのです。
だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。
すべて、辻褄が合っていると思います。
〜これを以ちまして、先生からのレスに対する私からの返信としたいと思います。
元々、先生とは議論する目的ではなくて、アンケート調査の一環として先生のご見解を確認するためのものなのでした。
この後はまた続けて、その他の研究者の先生方にも同じ質問をぶつけてみたいと思っている所存です。
この度は、ご多忙のところを大変、ありがとうございました。
感謝!!
合掌 >また、その説は釈尊はアートマン説だったが部派以降、ほとんど無我説になったというような論理だと思われます。
>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)
正確には、
ブッダがウパニシャッドと同じアートマンを説いたと主張しているのではなくて、
「アートマンは無い」などとブッダが説いたということは部派仏教の勝手な論理であって、到底、本来のブッダの言説とは見なされない。
それにも変わらず、アートマンを説くヒンドゥーは有我論(妄想)であるとして馬鹿にしている
平均的な仏教徒らの愚かな姿勢のことを私は指摘していっているのです。
ブッダが、「アートマンは無い」などと説くことがないのは、自らがその理由について述べた無記の姿勢からみても明らかなことです
(もちろん、その逆の「アートマンが在る」とも説きませんが...)。
【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(『サンユッタ・ニカーヤ』44 第10経/森 章司訳)
>本質的にはパーリ『梵網経』などに明らかなようにアートマンに執着していては解脱、
>涅槃、戯論寂滅に至らないというのが仏教に一貫してあると思います。 「アートマンは無い」という見解に固執することもまったく同質の執着なのですから、こちらも同様にして涅槃には至らないでしょう。
パーリ『梵網経』の主旨とは、“アートマンではないもの”をアートマンと誤認している
当時のバラモン行者たちの間違いを指摘したものだと私は解しています。
彼らが誤認したものが「魂」(ジーヴァ)、輪廻主体の「識」です。意識の焦点をここに定めることに成功した行者は、
驚異的な神秘体験(能力)を得ることができるからです。
すみませんが、
私には議論する意図はないのでこれにて失礼します。
互いの更なる進歩向上を心より平安を祈念します。
ご意見をありがとうございました。
(以降、特にどうしても必要と思われない限りは投稿を控えたいと思います)
Re:[10902]-2
あっ、すみません。
もう一言だけ付け足しておきたいと思います(汗)。
>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)
基本的には、すべての仏教諸派が無我説に立っていることは存じています。
だから、現存するすべての仏教諸派というのは、アビダンマに立脚するために根本的に間違っているのだとこの私は主張します。
涅槃(無為)は、無我/空ではありませんから(アートマンが実在かどうかは別に置いておくとしても...)。
「空」というのは縁起する現象界の性質についての別表現です。なので、涅槃は縁起に拠らない境地(『ウダーナ』8:1)なのですから、
これを「空」とする理解は間違いです。
『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。--中略--
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』
(『ウダーナ』8:1片山一良訳) ふむ。
石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw
最後のも、
訳した片山さんに、 「そこにアートマンがある・いる」 という意図は
微塵も欠片も河沙の砂粒ほども無かろうてw
まあ、それでも、 「仏典を読んでください」 としか、先生は言わないだろうけどw 同じく、「無我」(「アートマンではない」の意)についていうと、
ブッダは『苦なるものは無我である』(SN.111)といっているのですから、苦を滅した安楽の境地である涅槃が無我である筈がないのです。
これはもう、殆どトンチンカンのレベルです。この馬鹿げた矛盾というのは、すべての伝統仏教が仏典の記述を無視して、
ただ伝統と称して与えられたもの(部派のアンビダンマ教学や部派口伝)を有難く盲信してきた結果です。
『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91)
無我についても同様で、
これは現象界(有為)の性質についての実態を示したものであるので、有為を解脱した無為である涅槃が無我である筈がないのです。
ブッダは「苦なるものはわたしの我ではない」といっているのですから、これを仮にそのまま言い換えるとしたならば、
苦を滅した涅槃の境地は“わたしの我である”ということにも言葉上としては成り得ることになります。
これは、例えばですけれど...。 ゴータマが自らが説いて直接指導し、その教えも経典としても残されたというのに、
では何故? ゴータマ以降の第八番目の仏陀は輩出しないのでしょうか?
もしかしたら、随所において仏典を無視して部派のアビダンマ教学を盲信
(例えば、無我説の「アートマンはない」という見解に執着)してしまっている間違いが影響しているのかなぁ...
などともすら、この私は勘ぐってしまいます。
弟子たちは私(ゴータマ)には従わないとも、予言(SN.20.7.4-5)によって見通されてしまっていますし...。
『彼らはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを受持すべくよく
熟達すべきものであるとは考えないであろう。--中略-- 弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとし、
耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。』
(『サンユッタ・ニカーヤ』20.7.4-5中村 元訳)
以上です。
では、失礼しました。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- >>438>>442
自分の言葉はないのか?
あなたにはそんな些細な常識すらもない?
>>451
はぁ? 「法」には真理という意味、存在という意味の二つある。
「無我」には私、私のものでないという意味と、実在、実体は無いという意味がある。
諸法無我には、存在には実在は無い、実体は無いという意味もある。
全ての存在は頭の中にあると言ってもいいかもしれない。
そういう意味では、私もアートマンも、猫も杓子も、釈迦も達磨も、どこにも実体は無いと言える。
どこにも、何も無くなった状態が涅槃であり、不戯論。
そこから見ればもう何も議論することは無くなる。
あれこれ考える必要が無くなる。頭の中が空になる。 >>454
だからw
片山先生にも直談判しに行けよ、ってこと。
>自分の言葉はないのか?
ID:hl7qebxF師匠が中観帰謬を理解してるのか?わからないけど
とりあえず中観帰謬の場合なら
仮設としての
無明に依存している
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
(無明に依存して)いま我らによって分別されている
中観帰謬を理解した上で、中観帰謬を前提とするのなら
仮設としての
無明に依存している
自分の見解は
>自分の言葉は↓
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
(無明に依存しているのなら)
是の人達は皆、仏を見ることはない
ちなみに
おじゃるは、中観自立で おじゃります m(_ _)m
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
>>459の補足
いま我らの見解(分別)に依存して
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」が
現れ変化して滅しているので
それゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
自相(自性)ではない
それゆえに
中観帰謬の場合は
そのような自相(自性)を、世俗の次元でも否定します
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。と掴もうとしている想いも手放して逝く
↑中観帰謬の場合
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
基本的には、無明に依存している
>自分の言葉
という中観帰謬としての対機説法で おじゃります >>447
訂正:
(29)節
×『アーマンを、「私」という観念の主体であり、』
○『アートマンを、「私」という観念の主体であり、』
>>448
>だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。
補足:
これが核心に迫る決定的な根拠部分でしょう!
【〔尊師いわく、---〕
[なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。]
[心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまったので、『わたし
が語る』といってもよいであろう。また人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいであろう。] 】
(サンユッタニカーヤ.T,3:5)
【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248) >>451
>石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw
読解力ないな...。
さすがのセブンも歳をとったか?
(まっ、お互いさまだけれどw)
>>457
一代も推奨の“直訳”の先生か...
はい、アンケート候補に検討しておきますよ。
>>455
【警告】
自分自身の言葉を語らず、
ただ黙々とコピペ転載やリンク貼りばかりしかしない者にも当スレからの退場を願う。
これも、当スレの戒律(マナーとルール)「条項」に加えさせて頂く!!
>>458
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。
真っ当な議論ではこの私に勝目がないものと分かると、
今度は、ただの荒らしへと成り下がるのが自称仏教徒の姿ということなのか? >>461
サンユッタニカーヤからの引用はその後の
真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。
を入れないのはミスリードを誘うことになる
自分の都合の悪い箇所を削るのは卑怯というもんやで宝珠さん
(l.3.5)【敬わるべき人】(第三章 剣)サンユッタ・ニカーヤ I
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52183038.html
ID:CgQX8rBP師匠?
(宗教とかに興味がない人の)誤爆?
(あるいは)嫌がらせ?
牛丼とか書いてあるので
「坊さんが肉食べても良いのか?」とすれば
仏教議論になるかもしれない
宗教による制限
…
原始仏教では、比丘(僧侶)は糧(かて)をその日ごとで乞食(こつじき)することにより食を得
与えられた余り物の食べ物に肉が入っていようがなかろうが差別なく食べることになっていた
とくに南伝(上座部のパーリ経典)および北伝(大乗仏教)のなかでも古い経典においては
釈迦その人が肉食をしたことが記述されている
さらに、釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は
提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからである
と記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている
…
生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が
殺す所を見なかった肉
供養のために殺されたと聞かなかった肉
自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた
おじゃるは
焼肉カルビも食べたい おじゃる 涅槃を覚知する、無為を覚知することはできない。
覚知するという行為がサンカーラ、有為になってしまうから。
だから涅槃には「なる」ことはできても「知る」「感じる」ことはできない。
自分、私が存在するという意識が全くなくなった状態が涅槃だから、以降その人には「慢」が無い。
慢が無いとは、私という存在は実在しないと知っているという意味。
私は実在しない、無我であると正しく知っているからこそ、「私が語る」と言ってよい。
なぜならそれは執着、苦しみを生まないから。
無明に依存することのない
仏そのもの
般若の智慧と慈悲をもって
解脱智見
四神足をもって
円成実性をもって依他起性を見る
(無明に依存することのない)
このときにおいて
真に力量ある人は、世間における名称を知って
言語表現だけのものとして
〔(「仮設としての」という意味において)仮に〕そのような表現をしてもよいのである
↑こんな感じで おじゃりますな?
>涅槃を覚知する、無為を覚知する
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
上座部 パオ・セヤドー
…
阿羅漢たちは答えました
「もし、八定と五神通を証悟していないのであれば、あなた方は、どのようにして阿羅漢果を証悟したのですか?」
…
…
仏陀は言いました
「先に法住智、その後に涅槃を対象とする道智」
(解脱を知覚して、そして解脱智見を知る)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
(主体でもなく・客体でもない)涅槃の世界において
般若の智慧によって観照された対境としての一切法の真実絶対の姿を実相般若という
円成実性をもって → 依他起性を見る
https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
我所ではない・我でもない。と知覚して住むことである
(そして涅槃も知覚して住むことである) >>467
>(解脱を知覚して、そして解脱智見を知る)
解脱智見
解脱すれば、解脱したとの智が生じ、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>
と知るのである。
これが解脱来た時の決まり文句っぽくなっている となれば、涅槃にもある種の智慧、気づきが残っていることになりますね。
スッタニパータと矛盾するような気がします。
細かいことは気にするなという事でしょうかw
1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?
おたずねしますが、そのことをわたしに説いてください。」
1037 「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅(しめつ)することによって、
名称と形態とが残りなく滅(ほろ)びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」 >>470
宝珠さんに言わせれば名称と形態が残りなく滅びた場合、つまり涅槃において現象世界からの出離を覚知する主体は、
五蘊の何かじゃなくて真我アートマンである、ということになるんじゃないかな?
(無明に依存することなく)
智慧をもって
識別作用が止滅した。と知覚して住んだときに
解脱智見を知る
阿摩羅識(あまらしき)
真我 = 真如、如来蔵
唯識学会
第九意識とは完全なる涅槃
という真如縁起としての対機説法であるけれども
ただし
中観帰謬の場合は
真我である。という『想い』も手放して逝く よく読んでみると、確かにブッダは智慧と気をつけることが止滅するとは言ってないですね。
アジタは智慧と気づきが消滅するんですか?と聞いたのに、ブッダは答えていない。
識別作用と気づきは別ものだとブッダは捉えてるみたいですね。
よくよく考えてみれば、「識」は無明由来だから、気づき、智慧とは無関係でしょうね。
勉強になりました。 >>463の通りなんだがね・・(苦笑
なんか、「やり方(≒読み方)」が一在家っぽくなってきたなw >>宝珠 >>463
ご指摘ありがとうございます。
別に、何の都合も悪くはないですよ。
確かに、そこまで全部とも考えましたが、ただ長くなるだけなので止めたまでです。
理由としては、私がアピールしたいこととは直接的には関係がないので...。
そして、強調したいがために敢えてピックアップ的に抜き出していますから。
ただし、○○であるからとして、前段の文意に大切なただし書きが付くものとして、
その部分が必要不可なに場合には、もちろん省かないほうが賢明なことについては了解しています。
(省略した後半部分の内容については)
そりゃ〜すべて所詮は、ただの言語上の表現に過ぎないのだから、
そんなことはもちろん、仏教を論じる我々にとっては当り前のことですよ。
この経文で肝心なことは、“涅槃に到達した完成者は”『わたしが語る』(または<わがもの>)
と言ってもよいということの意味ですよ。
つまりは、そうでない者(未完者)というのはそれはできない、と。
その資格がないということになるのだから。
では一体、それは何故なんだ?? ということが重要でしょう。 >>475
>つまりは、そうでない者(未完者)というのはそれはできない
>では一体、それは何故
凡夫の口にする 「私は」「私が」 は、
まさに我見の見本、象徴、極みとしての
「オレがオレが私が私が」「オレの物私の物」
に他ならないから。 行、サンカーラにも二種類あるようで、ひとつは現象、存在としてのサンカーラ。
そちらは無明に依存している。もうひとつ、身口意の三業を生むサンカーラ。
身口意の三業には善と悪がある訳だから、気づきは身口意の善の意業だろう。
となれば、無為涅槃という場合には、停止しているサンカーラは現象、存在としてのサンカーラで、意業、気づきはあり続けている。
涅槃、無為を覚知するのは気づきであり、智慧である、という事でいいんじゃないでしょうか。
アートマン無しでも説明できますよ。
有学は、「わたし」の本質、無我を理解していないのだから、「わたしが語る」と言ってはいけない。
執着を強化する。自分でもよく分かっていない単語を使ってはいけない。という理由じゃないでしょうか。 >>476
そりゃそうだ。
>>477
だから〜
涅槃に達した完成者こそが真人、
真実の自己(アートマン)に目覚めた者だいってるわけですよ。
別に、バラモンたちの語るアートマン云々ということではなくて、
あくまでも仏教の説く境地としての涅槃の状態=真実の自己の状態(真我)として。
では、涅槃とはどんな...
>涅槃とはどんな
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…
(無明が依存している)縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
_ _ _
↓大乗の場合は
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
般若の智慧と慈悲をもって
円成実性をもって → 依他起性を見る
移り行く世界の様を、ありのまま見つめている
無住処涅槃
智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず
しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから涅槃の境地にもとどまらない
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>478
> そりゃそうだ。
w
だから、悟られた方に「我」がある筈がないのだよwwwww
まだ理解できない?w ┐(´ー‘)┌
>悟られた方に「我」がある筈がない
(無明に依存することのない)
四神足の智慧をもって
我所という『想い』でもない
我という『想い』でもない
自相(自性)という『想い』でもない
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンという『想い』でもない
想うという『想い』でもない
想わないという『想い』でもない
非想非非想も手放して超えて逝く わしが 「おまえさんは男かい ? 」と質問したとする 。
おまえさんの答えは 「はい 」かな ?
こういうやりとりは 、現象の表面上に表れたものに関するものじゃ 。
しかし 、おまえさんは本当は、四大 (地水火風 )が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりにすぎないのじゃ 。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない 。 「大きい 」 「小さい 」 「あなた 」 「私 」など存在しないのだ 。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我 (アッター)も無我もないのだ。
私たちは、何かを得るためではなく 、手放すために修行をするのです 。
しかし 、名(ナーマ)と色(ルーパ )に対する執着を手放すことができるようになる前に、私たちはこれらの真の姿を知る必要があります 。
そうすれば 、自然と厭離の心が生じます 。
「私」とか 「私のもの」などといえるものはなく、すべてのものは無常無常なのです 。
私たちは 、なぜ「ニッバーナを得た」という言い方ができないのでしょうか ?
なぜなら 、ニッバーナを体験した人は 、もはや「私 」とか「私のもの」という考えを持たないからです 。
もし、そのような言い方をするのであれば、その人はニッバーナを真に体験してはいないということです 。
はちみつの甘さを知っている人は 、たとえそれを知っていても、わざわざ 「私ははちみつの甘さを味わっている 」などとは考えないものです。
(アーチャン・チャー) 隠居は、頑として了承しなかったがw、
仏法ってのは、主語の無い文法なのよね・・。 ブッダが「わたし」と書かれた箱を開けて、中身を見てみたが何も無かった。空だった。無我だった。
それに対して、「箱の中にはアートマンがあるんですよ、絶対に見えませんけど。縁起から離れていて、永遠に変化しないアートマンがあるんです。」
と言ってみても、まわりくどいだけ、言葉遊びのようなものだと思いますが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています