>>298
ブッダの説いた無我は諸法無我ですよね。
諸法の法は、色声香味触法の法で、意門の対象です。人間が考える物事、概念のことです。
それらに実体が無い。当たり前と言えば当たり前ですが。
だからアートマンであれ、霊魂であれ、思考される全ての「法」には実体は無いです。
なのでアートマンは無いというよりは、アートマンという実体は無い。見ることも聞くこともできない。考えることはできるが。
それについて考える事に何の意味がありますか、苦しみを無くせますか、という事だと思います。毒矢のたとえです。

無明も概念であり、実体は無く、見ることも聞くこともできませんが、無明という概念を利用して、苦しみを無くせます。
無明を理解するという事は真理を理解するという事ですから。

禅にもブッダの教えが残っています。達磨大師も元々テーラワーダでしょうし。大悟徹底、阿羅漢にまで行けば、全ての概念が抜け落ちているはずですから、
小乗だの大乗だのということは関係無くなると思います。捨てるものが無くなるまで捨てる訳ですから。私は通りすがりです。