>普通の捉え方

唯識とかを勉強してないと、わかりにくいかもしれないけど

Aさんにとっての普通なのか?
Bさんにとっての普通なのか?
Cさんにとっての普通なのか?

その当時、その地域にいた
ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)にとっての普通なのか?

釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある
ある時、釈迦がカピラヴァストゥの
東門から出る時に老人に会い、南門より出る時に病人に会い、西門を出る時に死者に会い
この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)
北門から出た時に一人の沙門に出会い
世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった

↓このような世界観を前提として

われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられる
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一応、念のため
この宗教においては
(『世俗的感覚を手放して超えていくこと』なので)
「大多数の人達にとっての普通!」というようなものは通用しない場合もあるかもしれない