>>184
> 「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。
> しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」と。


 真我は永遠に存在している。
 誰もが真我を知りたいと望んでいる。
 自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
 人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
 だが真我は永遠不変に存在し続ける。
 彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
 どうしてそうありえよう?
 真我は光ではなく、暗闇でもない。
 それはただあるがままに在る。
 それを定義することはできない。
 最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
 シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
 なもの、最微小より微小なものなどと記している。
 それらには何の事実的根拠もない。
 それはただ存在なのだ。(p21-22)
(ラマナマハルシ )


マハルシの説く真我とは仏典のニルヴァーナに似ている
あるいはマハルシは涅槃を体験したのかもしれぬ