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--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/08/01(水) 05:54:24.84ID:rYZcsElT
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0158宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/09/07(金) 14:25:39.89ID:6TFkzr0E
◇座談会◇ 葬式仏教の意義(上・下)
   だれのために葬儀をするのか、死後の世界はあるのか、
   霊魂は不滅か、葬式仏教でなぜ悪い?
   ――ヴェテラン僧侶が熱く語る
 
     出席者(五十音順)
       大谷俊定 (京都府・苗秀寺住職)
       長井龍道 (山梨県・龍華院住職)
       中村瑞峰 (埼玉県・曹源寺住職)
       正木 晃 (慶應義塾大学講師)
       松山宏佑 (宮城県・昌林寺住職)
     司会
      佐々木宏幹 (駒澤大学名誉教授)
0159宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/09/07(金) 14:26:46.40ID:6TFkzr0E
是非、私から皆さんに一緒に考えて頂きたい問題として、このページを紹介します。
そして、私が目を止めた箇所について抜粋させてもらいました
(かなり文章量がありますが、是非、皆さんには一度、このページすべてに目を通して欲しい)。

 【ただ曹洞宗の場合には、道元禅師が「心常相滅」を厳しく批判し、いわゆる霊魂を否定した、それとの問題がどうなんだということを
佐々木先生は提案しておられました。これに対する曹洞宗総合研究センターのほとんどの研究員が、基本的には死後の人格を認めない立場
です。今の宗門学者の主流は死後の人格ということを軽んずる、あるいは認めない方向で考えています。生者の方に重きを置く、生き残っ
た人たちの心の中に追慕する、というのが、どっちかと言ったら曹洞宗の主流というか、指導者の認識の主流ですね。そこに実は問題があっ
て、死者を相手にしない方向に葬儀を考えているわけですから、従って、宗教的儀礼の方はどうしても薄くなってしまう。
 葬儀を考えるときに、道元禅師は死後をはっきり説いておられます。「脱野狐身」の話、「断見の外道」への批判、「順次生受業」「順後次
受業」について、あるいは「刹那生滅」と「流転生死」の言説等々、死後について言及されている。ですから「心常相滅」で否定された霊
魂と、死後の人格としての霊魂とは意味が違います。そこを区別しなければいけないですね。
 水野弘元博士は「仏教は霊魂を説くのか否定するのかということがある。外教が説くような常住の実態としての霊魂は仏教ではこれを説
かないが、人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪
廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない」
(『仏教要語の基礎知識』春秋社)こう書いておられます。
 そういうことでございまして、結局大きな問題としては、葬儀に対する現代世相をふまえた上で意味のある葬儀をすべきだと考えるとき
に、あらためて死後はあるんだよということを説かなければいかん。それが今、曹洞宗はなされていないということです。
0160宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/09/07(金) 14:28:46.61ID:6TFkzr0E
 葬儀に対する偏見というか、あやまった知見というか、とにかく葬儀にまつわりがちな負のイメージを、なんとか払拭することです。こ
れまでは、葬儀というものが、葬式仏教と表現され、ねじ曲がった、よこしまな仏教と、よくない仏教として否定的なイメージで語られて
きたと思います。しかし実はそうではなくて、仏教の葬儀はブッダの葬儀から始まった。これは『大般涅槃経』にあるように、ブッダは生前、
自らの葬儀について詳しく指示していました。それから先祖供養の起源も初期仏教からある。そのあたりは『増一阿含経』に出てきます。
 あるいは最近、ブッダは魂というものを認めていた可能性が指摘されています。。「相応部」(サンユッタ・ニカーヤ)の中には少なくとも
二カ所、その証拠があります。それは「ヴィンニャーナ」という言葉の用例です。これまで「識」とか「識別力」と訳され、とくに注意を引
いていたわけではなかったようです。しかし、実は中村元先生がかなり以前から、岩波文庫の『悪魔との対話』の訳注に、「ヴィンニャーナ」
に対して「霊魂のようなもの」とか、「ドイツ語ではSeeleという」、つまり霊魂と書いているのです。さらに昨年出された「相応部」の新し
い訳(春秋社)では、「ヴィンニャーナ」に対して、本文はやはり「識」ですが、注にははっきり「たましいのこと」と書いてあります。

 玄奘三蔵が留学した頃ですから、六、七世紀段階におけるインド出家僧の半数は実際的には霊魂実在論だったというのです。この状態はイ
ンド仏教が滅びるまで続いたと書かれています。
 仏教における霊魂の話になると、必ずといって良いくらい出てくる無我説や非我説にしても、少なくとも当初は、たとえば私の特定の部位
を指して、そこに私がない、外部のものを指して、そこに私はいない、そういう意味だったのに、後世になってから拡大解釈されて、霊魂否
定論の意味になってしまったらしいのです。
0161宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/09/07(金) 14:30:02.55ID:6TFkzr0E
 宗門のお坊さんよりも、そういった科学者であるとか、現場のお医者さんのほうがそういうことに興味を持って、もうあの世があることを
前提に科学者同士が話をしているわけです。死後の世界がないと人間が本当に落ち着くことはできないと言い切っている。あの世がないと安
心などあり得ないと言っている。ここまで言っているのに、なぜ現代のお坊さんたちは迷っているのか、そういうことを私は感じるんですね。
何か、とりとめのない話になりましたが。

 私の場合は仏教一般じゃなくて、曹洞の坊さんであり曹洞宗の立場から言っているので、現在の宗学者は死後の人格を認めない。あるのか
ないのかなんて迷っている人はいるけれども、積極的に認めるという人はまずいないですね、現在は。そこに私は問題があると思うんです。

 話は変わりますが、去年の十二月、慶應大学の文学部の学生百人に、死後に霊魂があるかないかというレポートを書かせたのです。それを
読んだところ、あると答えた学生は全体の七〇%、女子では八〇%にも達していました。

 そういう時代なのです。霊魂あるいはあの世的なものに対して否定的なのは団塊の世代ですね。ところがこういう人たちでも、意識は変わ
りつつあるようです。現に、二年ぐらい前から、私が早稲田大学のオープンカレッジというところで開催している有料講座を受ける方が、俄
然、増えてきました。退職し、とくに配偶者を亡くしたりすると不安になるらしくて、あの世が気になるんですね。今までそういったことに
対して否定的だった人たちが、今度はそこを勉強したいという。
 それから『死生学研究』(二〇〇八年三月)のアンケート調査で、「お迎え」があったと答えた人は四五・六%に達します。このこと自体が大
な衝撃だと言われています。いろいろな宗派のお坊さんに聞いても、こんなにお迎えがあると誰も思っていなかった。さらに、衝撃的な事実は、
誰がお迎えに来るかという問いに対する回答でした。なんと五二・九%が「すでに亡くなった家族・知り合い」と答えているのです。反対に、
いわゆる仏菩薩はほとんど来ていないのです。阿弥陀如来にいたっては、ゼロでした。
0162宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/09/07(金) 14:30:50.95ID:6TFkzr0E
 葬儀、法事を行って、そのとき導師のお坊さんが霊魂なんかない、あの世なんかないということを軽々に言ってしまう例が少なからずあるそ
です。日本人の根幹の中に霊や魂に対する思いが相変わらずあるにもかかわらず、それをちゃんと受け取ってもらえない現代日本の仏教という、
この構造をどうするかですね。

 死後を説くというのは大変な問題です。誰かも言ってましたが、仏教は無常を前提としているというけれども、無常ばかりではない。だから
葬儀を通じて、死後があるということを私は積極的に説いているんです。道元禅師の教えからいうと、私たちは永遠の命を生きている。だから、
そういう意味では宗門の理解が足らないんです。

 今回の葬儀というテーマの中で、宗乗的な理論というか、それと現場との乖離があるということですね。葬儀の本質というのは、遺族とか、
弔いたい人がいるとか、それももちろん大事な要素だけれども、根本的には死者をどう見るかということ。宗門では死後を認めていない。そう
いう延長の中では、葬儀の意義を積極的に教える理屈が出てこないわけです。だから、わが曹洞宗はもっと宗学をきちっとして、繰り返しにな
りますが、死後のことをもっと説かなければいけない。】
 https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/bk_tusin_no33_2.htm
 https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/bk_tusin_no34_2.htm
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