止まってるみたいだから、ちょいと引っ掻き回そうか。(笑)

仏教とは、バラモンとヨガなどの当時のインドの常識の上に構築された。
従って、アートマンなどの魂魄に関する概念もまた、当時の認識の上に説かれたものだ。
では、そのようなモノが「在る」場合はどうなされたか?
当然、これこれこうだから、こうしたものですと、少なくとも修行僧には説かれただろう。
隠す意味がないし、理由もない。
では、そのようなモノが「無い」場合はどうか?
芥子を集めさせた様に、相手が傷つかない様にして、
それでもやはり何らかの方法で説かれた筈だ。
十四無記は、「考えても時間の無駄」という話であり、
従って、単に有無という単純な話では無いと言うことではあるまいか。
即ち、時空間を理解するには最新物理学でも完全では無いように、
魂魄もまた同レベルの、それこそ「覚位に至らねば判らぬ」レベルではあるまいか。
故に、その魂魄の用たる輪廻もまた同レベルの話であり、
この意味で
「仏教が輪廻転生を前提としている」とは言えないと言えると愚考するが、
諸兄の見識や如何に。(笑)

(^。^)仏教はな、仏陀の教えなんだよ。前提もクソモねぇわ、ボケどもが。(笑)