無我の教えというのは、正しくはアートマンは無いといったことではなく、
それら(五蘊)はアートマンではないという意味です(これを「五蘊無我説」という)。
だから、「非我」と訳されることが本来的には正しい。

なので、
「非我」の教えはそもそも「有我(論)」との対決の位置付けにはない。
非我の教えとは、「アートマンでないものをアートマンと見なすことなかれ」であり、
アートマンでないものをアートマンと誤認(同一認)することから我々の苦悩が生じるのだといっているのです。
これを言い換えるからば、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということ。

要するに、
ヒンドゥーとは方法論、その手法の違いの差でしかない。
尚、当時のアートマンを認知したつもりとなっていたバラモン行者たちというのはすべて、
アートマンでないものをアートマンとして誤認していたということ。
その指摘がパーリ『梵網経』です。

さーて、
では、久しぶりにあちら側にも一つ投稿しておきますか。