--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
https://www.youtube.com/watch?v=zJQazO4SwVs
Hiroshima Mon Amour訳
それは全くの生まれたて、10フィートもある赤ん坊
彼らはそれを『リトル・ボーイ』と名付けていた
7つの炭素、5つの水素、6つの酸素と3つの窒素
彼らはそれをトリニトロトルエンとも名付けていた
太陽をかすませる火の玉
それはもっとも残酷な死のかたちを約束した
ヒロシマ・モナムール
僕らはきみたちが唾を吐き捨て、また呪いの言葉を吐くのを
神様がお赦しくださいますようにと祈るばかり
太陽を辱める火の玉
大地に生きるものの影すら焼きつくす
雨は大地に渇きをもたらすために降りつける
干からびた人びとを砂漠のただ中に残して
戦争を終わらせるためのものだといわれていた
この爆弾を創り上げたことで、メシアに感謝を捧げた
そうして司祭も魔女も諸手を挙げて賛同したんだ
死こそが彼らを自由へと解き放つのだと考えて
太陽を辱める火の玉
大地に生きるものの影すら焼きつくす
雨は大地に渇きをもたらすために降りつける
干からびた人びとを砂漠のただ中に残して
ヒロシマ!
無我なのか?真我なのか?
565
>蟻んこが上から目線で人類の叡智を判定して分かったつもりになってる
(無明に依存することのない)
般若の智慧によって観照された → 縁起している世界のことを云ってるのかしらん?
たとえば
仮設としての
無明に依存している
おじゃるは
蟻んこの脳内妄想よりも更に劣る、てい脳である!ということならわかるけど
_ _ _
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
(無明に依存することのない)
如来は戯論を超過する
− これに対して −
(無明に依存している)
人は戯論を生じる。戯論して慧眼を破れば
是の人達は皆、仏を見ることはない >>108
この5ch『☆無我なのか真我なのか☆』スレの投稿者たちは、
何故? こちらのスレに来てこの私に対して反論したり、
または、逆に伝統的仏教者たちに物言いをしないのだろうか?
まっ、専用スレにて論議したいから建ったスレなんだと云われれば、
それまでのことですけれど...。
この私から言わせてもらえば、まず第一にして、
“アートマンは無い”という意味での「無我」vs「有我 (論) 」という図式、
その構図そのものからして間違ってる、ってこと。
無我の教えというのは、「アートマンは無い」といったものではない。
そのことについては、ゴータマ・ブッダ自らが、その意志をハッキリと経の中で示されている。
つまり、「アートマンは無い」などと説くことについては、明確に否定したのです。
それがアートマンの有無については示さないという無記の姿勢です。
【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(サンユッタ・ニカーヤ.44 第10経) 無我の教えというのは、正しくはアートマンは無いといったことではなく、
それら(五蘊)はアートマンではないという意味です(これを「五蘊無我説」という)。
だから、「非我」と訳されることが本来的には正しい。
なので、
「非我」の教えはそもそも「有我(論)」との対決の位置付けにはない。
非我の教えとは、「アートマンでないものをアートマンと見なすことなかれ」であり、
アートマンでないものをアートマンと誤認(同一認)することから我々の苦悩が生じるのだといっているのです。
これを言い換えるからば、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということ。
要するに、
ヒンドゥーとは方法論、その手法の違いの差でしかない。
尚、当時のアートマンを認知したつもりとなっていたバラモン行者たちというのはすべて、
アートマンでないものをアートマンとして誤認していたということ。
その指摘がパーリ『梵網経』です。
さーて、
では、久しぶりにあちら側にも一つ投稿しておきますか。 >>https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1487443014/567
>お釈迦さんが、菩提樹の下で何を見たか、
>誰も知り得ていない(伝わっていない)というのに・・・・。
いえ、それは知られていることだと思います。
これについては相当.何年も以前にこの私が述べたように、
菩提樹下の深い瞑想においてゴータマは、宿命智と天眼通による神秘的な超常体験をしたのです。
自分のあらゆる過去世のすべてを再体験して自覚した。
そしてまた、すべての人間の業に拠る死後の行き末と生まれ変わりを見たのです。
仏教の理法のすべてはこの体験にもとづいて語られたものです。
ここから業報輪廻、縁起、四諦、八正道と菩提分法、非我...すべての仏教理論が出てくることになる。
法(教え)を説くことを憂慮したというのは何故か? というと、
人々は到底、この宿命智と天眼通による神秘的な超常体験の内容を信じることなく、
理解しないものと思われたからです。 『菩提樹の下で瞑想をはじめてからどのくらいの期間で悟りを開いたのでしょうか。
いろいろな説がありますが、ここでは七日目としておきます。ゴータマ・シッダッタはついに悟りを開きます。
南伝仏教国ではヴァイシャーカ月(太陽暦の四月または五月)の満月の夜、
北伝仏教国では陰暦の十二月八日と解釈しています。日本は太陽暦の十二月八日です(「ブッダ伝」G参照)。
満月のその夜、まず天眼通(人の生と死の繰り返しを見ることができる能力)を得ます。
さらに夜更けには宿命智(自分や衆生の過去世の生涯を知る智慧)を、
明け方には因縁の理法(すべての事象には原因があり、結果があるという理法)を、
太陽が昇るころには四諦・八正道(生老病死はどうすればなくせるか。
それを滅する八つの実践法)を明察して、覚りを開いた――と仏伝は記しています。』
http://blog.livedoor.jp/taktag555-0216/archives/16890977.html
『[B]仏伝経典
@ NK.(vol.T
p.075, 南伝28 p.159);斯くて太陽がまだ〔西に〕傾かない間に、大士は魔軍を
打ち亡ぼし……初夜に宿住智を〔獲〕、中夜に天眼を清め、後夜に縁起を観ぜられた。……太陽が
さし昇る頃、……菩薩は一切智を得られ……。』
(【資料集3】仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧/菩提樹下の成道)
http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/2324.html
http://www.sakya-muni.jp/pdf/03_01.pdf では実際、
ゴータマは具体的には何を見たのか?
それがこれらの経だということになるろのです。
この天眼通についての経文(サンガーラヴァ経)とほぼ同一の内容が、
宿命智通の体験内容を伝えたこの沙門果経/出家の功徳に続いて説かれています。
『また、心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は過去の生存の境涯を想起する知(宿住通)に、
心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すなわち、ひとつの生涯、二つ、三つ、
四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯 を想起します。そしてそれは幾多の生成の宇宙期(成劫)、
幾多の壊滅の宇宙期(壊劫)、幾多の生成・壊滅を含む宇宙期を(通して)想起します。
「あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、
こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、
そこでも同じように、自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不幸を体験し、
これこれの年齢まで生きた。そしてその世から今のこの世に生まれ変わってきたのだ」というように、
具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。
たとえば、大王よ、ある人が、自分の村から他の村へ行き、その村からまた別の村へ行き、
そしてその村から再び自分の村へと戻ってくるとします。彼はこう考えるでしょう。「わたしは自分の村からあの村に行き、
そこでこういうように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そののち、その村からあの村へ行ったが、
そこでもこのように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そして今はその村から再び自分の村へ帰ってきている」と。
まさにそれと同じく、大王よ、心が安定し・・・堅固な不動のものとなったとき、比丘は過去の生存の境涯を想起する知に、
心を傾け、心を向けます。---(93節の繰り返し)--。
これまた、大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であります。』
(『ディーガ・ニカーヤ2:93〜94』出家の功徳) 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し不動になったときに、
多くの人々の死と生を知ることに心を向けた。すなわち、わたしは清浄で超自然的な天眼によって、
多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、
幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多くの聖者を非難し、
よこしまな見解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。
また、他のこれらの人々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、
正しい見解をもち、正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。
わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得られた第二の明知である。
ここに無明が滅び明知が生じたのである。暗闇は消滅して光明が生じたのである。
それはつとめ励み、努力している人に現れるのである。』
(『マッジマ・ニカーヤ100』サンガーラヴァ経)
>ゴータマは具体的には何を見たのか?
戒・定・慧・解脱・解脱知見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧と慈悲)をもって
ピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)
般若の智慧によって → 解脱を観照する
解脱を知覚して涅槃に住む
本来自性清浄涅槃そして無住処涅槃として
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
平等性智をもって
移り行く世界の様を、ありのまま見つめている
>『☆無我なのか真我なのか☆』スレの投稿者たちは何故? こちらのスレに来て反論しないのだろうか?
ここのスレの場合は
古代エジプト 多神教 一神教
ゾロアスター 拝火教
ヒンドゥー(バラモン)
チベット 中観自立
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
トゥルパ マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ;意成身)
エジソンの死者と交信
目で見たり、触れて感じたりすることのできない(隠されたもの)オカルト
など諸々、幅広いスレなので来ないんじゃないか?という感じ お前は馬鹿か?w >>112
それが、 「ある」ということ とイコールにはならないだろ? と。 ┐(´ー‘)┌ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1487443014/572
> アートマンの有無については、
> 自らが体験によって確認すべきことだということでしょう(経験主義)。
だから、 w
【ブッダ自身によって 】【経験的に】 【アートマンの存在(≒実在)が】 【確認できなかった】
から、 お答えにならなかった(→經証として残っていない) んじゃねーのか?
> アートマンは“非ず”としてしか語ることができないから。
で、 「非ず」以上を語れなかった ってことじゃねーのか?
それが、 >(経験主義)。 ななjねーのかい?w 「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」
「アートマンとして正しく見よ」!とは何が正しく見るのか?^^
因縁果師匠も
おじゃると同じように
脳に障害があるのかもしれない
それゆえに
『ひとつのスレにまとめろ!』と何回も説明しているのに
ひとつのスレに、まとめることが、できないんジャマイカ?
ここのスレだけではなく
他の板、スレも
スレの無駄遣いをしているので
ひとつのスレにまとめることができない
因縁果師匠は
5ちゃんねる掲示板を出入り禁止になると思う
『スレ立て制限がある!』ということを知らないのかしらん?
> アートマンは“非ず”としてしか語ることができないから。
> で、 「非ず」以上を語れなかった ってことじゃねーのか?
(「仮設としての」という意味で)
[縁起したものがある]という世界もある
[「…である」と定義することはできない「…である」ものではない]という世界もある
非想非非想の世界
その世界も手放して超えて
因縁生滅智 刹那生滅智
想受滅(無為法)
(縁起したものを離れることがある、それゆえに)
[そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない]という世界もある
波動関数(wave function)
[波1の世界と・波2の世界]が同時に存在できる
それゆえに
涅槃の世界も、(仮設としての)縁起している世界もある
導くための対機説法としては『涅槃の世界もある』という説明の方がわかりやすい
おじゃる妄想としては
アートマン = 非想非非想なので
それゆえに非想非非想(アートマン)も手放して超えて逝くものである。という感じもする
(机師匠は『すべて無である』と逝ってたけど、無である。という『想い』でもない) >>126は他のスレをウオッチしては草生やしてセブンみたいなやつだなw >>118-119
何歳なのか? は、知らないけれど...
もうセブン、まさかモウロクたかってんじゃないだろうねェ?(笑)
私は、今までに一度たりとも、
ウパニシャッドの説くアートマンそのものを、
「ゴータマが“在る”と説いた」などとは述べたことは一度もないからね。
「在るとも無いとも言わない」(無記)と、自ら公言しているというのに(イコールなんて)言う筈がないわ。
だから、
“そうは言わない”けれども経典を読むことが(師の本音を)分かってあげようねぇ、
ということを、この私はいってるのですよ。
実在が確認できなかったのは、有為(一切内)についてです。
五蘊と現象界においては捉えられないということ。
しかし、だからといって、それによってアートマンが無いなどということにはならない。
そもそも最初から、無為的性質であるアートマンが有為(一切内)にて捉えられる筈がないのだから。
ただ、ゴータマは迷信だらけのバラモンたちと同類に扱いされることを望まなかっただけのことです。
在るとはいわない理由については述べていますからね。
>>120-123
それは、言葉としての限界性というものです。
それらはすべて“主観”において確認される。
客観的に提示することはできない。 >>128
訂正:
×「経典を読むことが」
○「経典を読むことで」
×「同類に扱いされることを」
○「同類に扱われることを」 石飛氏のbbs『Magical Board』へ、
こんなに遅くなってから返信しましたよ(苦笑)。
http://manikana.o.oo7.jp/magical/magical.cgi
[10896] [10897]
まっ、あまりにも残念過ぎて、
もう議論する意思などこの私にはまったくない。
ただ、一つ二つだけチクリクリと釘を刺しておきましたから。
如来蔵は非仏教との松本史朗氏の見解に同意するならば、まだしも...
しかし、あのような擁護の仕方を見る限りは、どうやら石飛氏というのは、
あの一代と瓜二つの仏教マンセーの人なんだなぁと分かる。
つまり、ブッダは最高。その弟子たちと教団も最高で〜す。
だから、すべての仏教諸派はそれぞれにすべてが素晴らしいので〜す♪
といった感じか。
まっ、一代は“三宝に帰依”してれば仏教だといった。
ホー、その内容は問わないのかい? それがどんなに間違ってても帰依すれば仏教ねぇ...。
帰依心なら、オウムだろうと他のどんな宗教でも同じなのに...。
こういった感情的反応に陥っている者というのは、
真理真実を見極めることは絶対に出来ない。
冷徹なまでの迷信の排除と虚偽を見抜く批判的な精神がないことには無理だ。
もちろん、相手の悪口をいっぱい言え! ということではないけれど。
>チクリクリと釘を刺しておきました
たとえば
宝珠殿の場合は
「涅槃の世界と縁起している世界は、とりあえず別の世界である」
管理人エム氏の場合は
「一切法の中に、涅槃も含まれる」
この場合は
たぶん宝珠殿の説明だと、管理人エム氏には通じないと思う
たとえば
無明に依存している
おじゃるが
「涅槃もある」と妄想して
そして
(「…である」と定義することはできない「…である」ものではない)
「アートマン = 非想非非想である」と妄想しているのと同義である
「無明に依存している『想い』は妄想と同義である」
と管理人エム氏も、このような立場かもしれない
(たぶん中観帰謬のような立場かもしれない) >>131
ご意見ありがとうございます。
>管理人エム氏の場合は
>「一切法の中に、涅槃も含まれる」
>この場合は
>たぶん宝珠殿の説明だと、管理人エム氏には通じないと思う
はい、それはよく分かっています。
少しだけ指摘はしておきましたが、かなり面倒なので詳しく書きませんでした。
ただ私としては彼女の見解が分かればそれで良かったし、
別に、相手を解らせようなどとも思わないので....。
>とりあえず別の世界である
私は、経典の記述「ウダーナ」にそのまま従いますよ。
とりあえずというよりは、“完全に別世界”です。
だから、“超越”だとも私はいいますよね。
原語で到達できるような境地ではないですよ。
唯物論で理解できる筈もない。
さてさて(彼女のところはサッサと切り上げて)、
専門研究者との個人連絡先が知られているのは限られていると思うので、
調べて判明次第、次々と参りたいと思います。
専門家は相当数いますから...。
あっ、今夜の池上氏のオウム番組は必ず見たいと思います。
皆さんにも、お薦め〜 >>132
訂正:
×「原語で到達できるような」
○「言語で到達できるような」 >>128
>“そうは言わない”けれども経典を読むことが(師の本音を)分かってあげようねぇ、
まさに、そこが、
≪ 文言非我、【文脈】無我 ≫
だと、何年も前から言ってるだろうが・・・ ┐(´ー`)┌
(師の本音は、どっちなんだろうねぇ・・)
>それによってアートマンが無いなどということにはならない
同時に、 『ある』ということにもならないよね? 幼稚園児でも分かる理屈だよね?w
>在るとはいわない理由
「無い」からでしょwwwwww
あるなら、明確に「ある」と仰る筈。 それが、釈尊だから。
直接的説示をオブラートに包んで説示していたのが舎利弗や阿難だというのが、中村さんの見解では?w
勿論、自分は禅定を極めていないので、断定はできない。
もし、貴方が、禅定を極めて、その上で「確かにこのようである」と言うならば、
それを信じるしかないだろう。 が、そのような冷暖自知をしていないあなたが言うことならば、
私の見解と優劣の差は無くなるわけで、
寧ろ、貴方のような「願望希望を投影した悟り」でない分、私の方が有利だと思うのだなwww 止まってるみたいだから、ちょいと引っ掻き回そうか。(笑)
仏教とは、バラモンとヨガなどの当時のインドの常識の上に構築された。
従って、アートマンなどの魂魄に関する概念もまた、当時の認識の上に説かれたものだ。
では、そのようなモノが「在る」場合はどうなされたか?
当然、これこれこうだから、こうしたものですと、少なくとも修行僧には説かれただろう。
隠す意味がないし、理由もない。
では、そのようなモノが「無い」場合はどうか?
芥子を集めさせた様に、相手が傷つかない様にして、
それでもやはり何らかの方法で説かれた筈だ。
十四無記は、「考えても時間の無駄」という話であり、
従って、単に有無という単純な話では無いと言うことではあるまいか。
即ち、時空間を理解するには最新物理学でも完全では無いように、
魂魄もまた同レベルの、それこそ「覚位に至らねば判らぬ」レベルではあるまいか。
故に、その魂魄の用たる輪廻もまた同レベルの話であり、
この意味で
「仏教が輪廻転生を前提としている」とは言えないと言えると愚考するが、
諸兄の見識や如何に。(笑)
(^。^)仏教はな、仏陀の教えなんだよ。前提もクソモねぇわ、ボケどもが。(笑) https://jp.reuters.com/article/tk0577133-religion-world-idJPTYE8BI02P20121219
2012年12月 キリスト教、イスラム教に続き、「無宗教」の人口が3番目に多い
_ _ _
↓世界的に無宗教の割合が増えていくのなら
宗教に興味がない
↓
ヒンドゥー(バラモン)にも興味がない
↓
真我(アートマン)とか輪廻などにも興味がない
↓霊感商法してる宗教団体が多いという感じがするけど
(ウィキペディア参照)
創価学会は「霊魂は存在しない」と断言している
(宗教団体で霊魂の否定は珍しいような気がする)
_ _ _
脳神経外科医 エベン・アレグザンダー 死後の世界
https://www.youtube.com/watch?v=I_Y0S4Cbgks
(世界的に無宗教の割合が増えていくのなら、それに伴って)
心霊現象とかに興味がある人の割合も減少して逝くかもしれない
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
…「霊魂はある」といわねばなりません
もし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます >>136
禅歴数十年のジャンキー先生は人にキチガイだの首吊って死ねだの言ってるから大丈夫🙆♀
↓junkie ooyama師匠のことではなく
禅宗系の人の場合は
『すべて無である!』という意味不明なことを云う人が多い感じがする
仮設としての
縁起している世界の中の
無明を認めない
(或いは、縁起している世界も認めない)
勝義一辺倒の勝義房が多い感じがする
たとえば
縁起一代阿闍梨の場合は
『仮設としての』という意味で
縁起している無明を認める立場なので
それゆえに
縁起一代阿闍梨と勝義房が、しょっちゅう議論を戦わせていた
縁起一代阿闍梨のセリフ
『涅槃に逝く、その直前までは縁起に依存している!』
勝義房のセリフ
『(縁起している無明を認めないので、それゆえに)
そもそも仏法というものは円満に全てのものに
ゆきわたっており修行したり悟り証したりすることもない!』
↓おじゃるは中観自立の立場で おじゃります m(_ _)m
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B アートマンというのは現象世界にはないが4次元時空にはあるかもしれない 遍歴行者であるスバッダは 、尊師のもとで出家することができた 。教団に受け入れられることができた 。
教団に受け入れられてまもなく 、尊者スバッダは 、ひとりで 、群集から離れて暮し 、怠ることなく 、熱心に 、精神修養に努め励んでいた 。
まもなく 、それを得るために立派な人々が家から出て家無き状態に正しく出家するところの 、その無上の清浄行という究究極の目標を 、現世においてみずから 、さとり 、証し 、具現していた 。
そうして 「生存は尽きた 。清浄行はすでに確立した 。為すべきことは 、すでに為し終った 。もはやこのような状態にもどることは無い 」とさとった 。
尊者スバッダは 、尊敬さるべき真人の一人となった 。かれは尊師の最後の直弟子となった。
(大般涅槃経)
さて、尊師の最後の直弟子の尊者スバッダは不奔逸に修行して遂には悟り、「清浄行を確立し、為すべきことを成し終えた」つまり修行完成者(如来)となりました。
この尊師スバッダは修行完成者ですから乞われれば寿命を伸ばすことは可能だったのでしょうか?
また他の500人の阿羅漢、特に十大弟子や五比丘はどうなのでしょう?
乞われれば寿命を伸ばせたのでしょうか? 大乗仏教的に言えば、釈尊及び過去六仏以外は、
「仏陀(如来)」ではなく「阿羅漢」なので、それはない。 >>143
阿羅漢がスーパーサイヤ人なら、仏陀はスーパーサイヤ人3、といった感じw おはようございます。
こちら北海道でも、
台風21号に引き続いて震度7の大地震が襲って甚大な被害が出ています。
幸いこちら私のいる地域周辺では台風影響も少なく、地震による停電も約半日にて復旧しました(勤務会社は臨時休業中)。
とにかく亡くなられた方々とご家族には心からお悔やみ申し上げます。
まだ生き埋め状態の方々の救出と、そして、被害を受けた皆さまの一日でも早い平安をお祈りします。
M先生も無事な様子で良かったと思う(札幌も酷い状況です)...。
では、少しづづ投稿を再開します。 >>134
まずあなたは、
“議論の負け”(論証は終わりました)を素直に認められるような人間になりましょうね!
>>135
>>113-116
『沙門果経(出家の功徳)』、『サンガーラヴァ経』
におけるゴータマ自らの言葉すらも嘘ウソ扱いするんだから、
とてもじゃないが、あなたは仏教徒なんかじゃないな。
これも信じないなら一体、何が信じられるのか?
だから...
唯物論は仏教では間違いたと確定してる。
勝手に唯物主義を通すなら、そんなものは仏教ではないから。
ハッキリいいますが、唯物論が正しい可能性はパーセント的に限りなく0ゼロだから。
経験者(この私も含めて)に言わせてもらえれば、
唯物論(濃密物質自然科学の常識なるもの)の間違いは明らかで疑問の余地すらもない。
あなたのようにオウム返しのごとく超常性を否定し続ける愚かさというのは、
ただ単に、それはあなたの無知と未経験に起因するものでしかない。
以前、NHK特集でもやったように、
世界中には、大真面目に超常現象と死後の世界について研究している著名な科学者たちがいます。
彼らの中には研究を続けることでこれらに対して否定派側へと転身した者というのは皆無であって、
逆に、元々は否定派であり、すべてはただの思い込みや偶然の産物や脳内化学反応の所産に過ぎないとする姿勢にあった科学者が、
あるキッカケからその後の研究によって、それら以前の判断がすべて間違いだったと態度を180度変えた科学者が何人もいるのです。
自分自身でそれらの情報について調べることです。
まっ、どこかの誰かさんのように、
肯定的科学情報なるもののすべてはただの“ヤラセ”だといってのける馬鹿は救いようがないが...。
(不都合な真実に対しての三猿だな!!) >>137
> 2012年12月 キリスト教、イスラム教に続き、「無宗教」の人口が3番目に多い
まっ、おじゃるさんはわかってると思いけれど、
「無宗教」と「無神論」(唯物論)は違うということ。
無宗教というのは、
既存の特定の伝統宗教を信奉しないという意味であり、
これは宗教というものに対する無関心から宗教についての理解が乏し過ぎることを意味するか、
もしくは、既存のいずれも諸宗教にも強く支持できるところがないことであって(不信感も含め)、
これらの人々が必ずしも、無神論(一般には神を信じないこととして唯物論と同視される)ということではないということ。
一般的に今の日本人の状況を指す場合によく使われるのが、「無宗教」という表現。
これは無神論や信仰心の無さということではなくて、単に心から信じられる特定の宗教を持たないことを意味している。
これには新興宗教が引き起こしてきた悍ましい事件や犯罪行為、
そしてまた、伝統仏教についても金取りや葬式仏教的な胡散臭さなどが起因して、
蓄積してきた不信感が根強いことが根底にある。
つい先日は、
札幌で僧侶が妻と息子を殺害してその遺体の首を切断したという驚くべき事件が発生したばかり。
>>140
アートマンは縁起(有為)に拠らない領域にある。
従って、有為を超越しないことには認識できない(あくまでも主観の世界)。 超常現象(と呼ばれているもの)や人間の自我の秘密、生命の秘密、神や霊魂、、
などといったものは、今後科学によっても解明されていくでしょう。
「人間の意識は脳にはない」
AIに人間の意識や自我をアップロードすることは不可能です。 >>143
私も>>144に同意かな。
残念ながら、
そもそも五百羅漢といった数値も過剰表現であるし、
つまりは、これも神格化ということになるのかな...。
ゴータマを含めた過去七仏、そして、それ以降については、
弥勒の出現までは生ける如来が顕れることはない、というのが正しいのではないかとこの私はみています。
私も以前までは支持していた“阿羅漢=仏陀如来説(如来の十号) ”というのは、
恐らくパーリ聖典編纂者の意図(上座部もしくは部派テーラワーダの思惑)に拠るものではないか? と。
では一体、何故?
仏教の諸教団からは弥勒の出現までは如来の輩出がないのか?
つまり、それは何かが間違っているから。間違ったことをしてるからだろう、と。
というのが、この私の見方です。
では、
仏教徒たちは、いつ何処で何を間違えたのでしょうか?
(全仏教史の流れからみれば、やはり無我の理解の失敗が気になります)
>地震
宝珠殿の、友人、知人、親族の方々も無事だったのかしらん?
>「無宗教」と「無神論」(唯物論)は違う
おじゃるの知り合いに限定すれば、ほぼ100%
宗教に興味がない人は
↓
幽霊とか密教などにも興味がない。という感じがする
ちなみに、おじゃるの知り合いには創価信者が多いけど
創価信者は「霊魂は存在しない」と断言している
そういう意味では、無宗教 = 幽霊否定ではなく
ある特定の宗教団体も = 幽霊否定
(転生を繰り返す、リインカーネーションというのもあるらしいけど、とりあえず)
キリスト教 = 輪廻否定。という感じがする
_ _ _
とりあえず今、現状においては
>科学によっても解明されて
大槻義彦教授のセリフ
『心霊現象とかは、すべて、ヤラセ、仕込み、合成映像である!』
ちなみに、おじゃるは
目で見たり、触れて感じたりすることのできない
隠されたもの、オカルト(occult)肯定で おじゃります
因果律が成り立たない
実在論としては記述できず、非実在論的である
大きさのない電子(素粒子)
電子の大きさ(内部構造)については
標準模型においては内部構造のない点として扱われるが
電子が大きさを持つかどうか・内部構造を持つかどうかは判明していない
これまでの電子の衝突実験で電子に大きさがある兆候は見つかっていない
(現実的に存在するかどうかは別として)
シュバルツシルト半径が計算上存在する
_ _ _
↓おじゃる妄想としては
今までの古典力学として観測できないものも計算上は存在する
波動関数(wave function)
「今までの古典力学として観測できない世界」と
「今までの古典力学として観測できる世界」が同時に存在できる
我々が住む日常世界の他に全く異なる並行世界が存在することを期待させる
(電磁波とか、プラズマ(plasma)などで
間接的に観測できるようになる場合もあるかもしれないけど、とりあえず)
「幽霊の世界」と「(今、現状においては)幽霊を観測できない世界」が同時に存在できる
ある意味においては科学崇拝・科学信仰?
↓勘違いするといけないので一応、念のため
涅槃の世界の中に
↓
縁起している世界がある
↓
縁起している世界の中に
↓
「幽霊の世界」と「(今、現状においては)幽霊を観測できない世界」が同時に存在してる
(ウダーナヴァルガのギルギット写本)
縁起したものもある
縁起したものを離れることもある
縁起している世界から解脱すれば → 涅槃の世界
↓涅槃の世界は
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
_ _ _
大乗の場合は
無住処涅槃
仏性からの真如縁起
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観る
(円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)
>唯物論
承狂師匠は、天台宗なのか?真言宗なのか?わからないけど
ヒンドゥー(バラモン)否定かもしれないけど
(「仮設としての」という意味で)
天台宗の天海の江戸設計?
四神相応?
呪術・呪法?肯定であるらしいので → 唯物論ではないと思う
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
国土交通省
天台宗の天海 → 江戸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
天海の江戸設計
天海は
(人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする)
宗教的な面で設計に関わっていたとされる
_ _ _
↓魂魄とかも否定してるかもしれないけど
承狂師匠は(縁起一代師匠も?)
部分的には
ヒンドゥー(バラモン)の?
呪術・呪法?真言も、護摩法とかも?受け継いでいるかもしれない
臨済宗の以心崇伝(いしんすうでん)には
密教の
胎蔵界法
金剛界法
護摩法
如意宝珠法
呪術・呪法?真言とかも、わからないと思うけど、とりあえず
以心崇伝は
徳川家康のもとで
江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を
一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った >>151
>宝珠殿の、友人、知人、親族の方々も無事だったのかしらん?
御心配を頂いてありがとうございます。
全員無事で特に大きな被災の話は入って来ていません。
ただし、まだ両家の実家二軒ともが電力の復旧していませんが...。
>創価信者は「霊魂は存在しない」と断言している
創価学会は妙法なる不思議な仏の救済力を信じていいます。
ただし、死後の霊魂については無我の誤解〜及び無記の誤解からそういったものは無いとしているのでしょう。
日本の僧侶の多くもそういう輩が大勢いますね。
もちろん、「アートマンは無いが死後の霊魂(これはアートマンではない)は在る」という理解の僧侶たちもいます。
アートマンまで認める必要性はないけれども、僧侶ならばこうでないと話になりませんよ。
>キリスト教 = 輪廻否定。という感じがする
これについては何度か言及していますが、
これはローマ皇帝主催の宗教会議において教義から削除されたからです。
以降〜これを説くもの(カタリ派などの諸派)を神への冒涜思想として弾圧していきました。
こうして、現在の輪廻否定のキリスト教の常識が出来上がったです。
しかし、もちろん本来は違います。
>大槻義彦教授のセリフ
>『心霊現象とかは、すべて、ヤラセ、仕込み、合成映像である!』
馬鹿だからそういうことをいうのです。
確かに、世の中には偽物も多いが本物だってある。だから真実を見極める眼を持ちたければダメだと思う。
一応、あの人でも、科学的にも量子レベルでの思念影響(人間の心のエネルギーが物質に影響を及ぼす)
の事実については、TV番組上でも認めています。 >>152
>「幽霊の世界」
濃密物質ではなくても、
実際にはこれらもまだまだ物質レベルの範疇(有為)です。
だから、心霊存在については科学的にその存在を捉えることは可能です。
アストラル〜エーテルレベルのエネルギーは十分にキャッチ可能。
写真フィルムというのは、その微細なエネルギーに反応できる特殊なものです。
それから、高感度の電磁波検知器を使うことです。 ◇座談会◇ 葬式仏教の意義(上・下)
だれのために葬儀をするのか、死後の世界はあるのか、
霊魂は不滅か、葬式仏教でなぜ悪い?
――ヴェテラン僧侶が熱く語る
出席者(五十音順)
大谷俊定 (京都府・苗秀寺住職)
長井龍道 (山梨県・龍華院住職)
中村瑞峰 (埼玉県・曹源寺住職)
正木 晃 (慶應義塾大学講師)
松山宏佑 (宮城県・昌林寺住職)
司会
佐々木宏幹 (駒澤大学名誉教授) 是非、私から皆さんに一緒に考えて頂きたい問題として、このページを紹介します。
そして、私が目を止めた箇所について抜粋させてもらいました
(かなり文章量がありますが、是非、皆さんには一度、このページすべてに目を通して欲しい)。
【ただ曹洞宗の場合には、道元禅師が「心常相滅」を厳しく批判し、いわゆる霊魂を否定した、それとの問題がどうなんだということを
佐々木先生は提案しておられました。これに対する曹洞宗総合研究センターのほとんどの研究員が、基本的には死後の人格を認めない立場
です。今の宗門学者の主流は死後の人格ということを軽んずる、あるいは認めない方向で考えています。生者の方に重きを置く、生き残っ
た人たちの心の中に追慕する、というのが、どっちかと言ったら曹洞宗の主流というか、指導者の認識の主流ですね。そこに実は問題があっ
て、死者を相手にしない方向に葬儀を考えているわけですから、従って、宗教的儀礼の方はどうしても薄くなってしまう。
葬儀を考えるときに、道元禅師は死後をはっきり説いておられます。「脱野狐身」の話、「断見の外道」への批判、「順次生受業」「順後次
受業」について、あるいは「刹那生滅」と「流転生死」の言説等々、死後について言及されている。ですから「心常相滅」で否定された霊
魂と、死後の人格としての霊魂とは意味が違います。そこを区別しなければいけないですね。
水野弘元博士は「仏教は霊魂を説くのか否定するのかということがある。外教が説くような常住の実態としての霊魂は仏教ではこれを説
かないが、人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪
廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない」
(『仏教要語の基礎知識』春秋社)こう書いておられます。
そういうことでございまして、結局大きな問題としては、葬儀に対する現代世相をふまえた上で意味のある葬儀をすべきだと考えるとき
に、あらためて死後はあるんだよということを説かなければいかん。それが今、曹洞宗はなされていないということです。 葬儀に対する偏見というか、あやまった知見というか、とにかく葬儀にまつわりがちな負のイメージを、なんとか払拭することです。こ
れまでは、葬儀というものが、葬式仏教と表現され、ねじ曲がった、よこしまな仏教と、よくない仏教として否定的なイメージで語られて
きたと思います。しかし実はそうではなくて、仏教の葬儀はブッダの葬儀から始まった。これは『大般涅槃経』にあるように、ブッダは生前、
自らの葬儀について詳しく指示していました。それから先祖供養の起源も初期仏教からある。そのあたりは『増一阿含経』に出てきます。
あるいは最近、ブッダは魂というものを認めていた可能性が指摘されています。。「相応部」(サンユッタ・ニカーヤ)の中には少なくとも
二カ所、その証拠があります。それは「ヴィンニャーナ」という言葉の用例です。これまで「識」とか「識別力」と訳され、とくに注意を引
いていたわけではなかったようです。しかし、実は中村元先生がかなり以前から、岩波文庫の『悪魔との対話』の訳注に、「ヴィンニャーナ」
に対して「霊魂のようなもの」とか、「ドイツ語ではSeeleという」、つまり霊魂と書いているのです。さらに昨年出された「相応部」の新し
い訳(春秋社)では、「ヴィンニャーナ」に対して、本文はやはり「識」ですが、注にははっきり「たましいのこと」と書いてあります。
玄奘三蔵が留学した頃ですから、六、七世紀段階におけるインド出家僧の半数は実際的には霊魂実在論だったというのです。この状態はイ
ンド仏教が滅びるまで続いたと書かれています。
仏教における霊魂の話になると、必ずといって良いくらい出てくる無我説や非我説にしても、少なくとも当初は、たとえば私の特定の部位
を指して、そこに私がない、外部のものを指して、そこに私はいない、そういう意味だったのに、後世になってから拡大解釈されて、霊魂否
定論の意味になってしまったらしいのです。 宗門のお坊さんよりも、そういった科学者であるとか、現場のお医者さんのほうがそういうことに興味を持って、もうあの世があることを
前提に科学者同士が話をしているわけです。死後の世界がないと人間が本当に落ち着くことはできないと言い切っている。あの世がないと安
心などあり得ないと言っている。ここまで言っているのに、なぜ現代のお坊さんたちは迷っているのか、そういうことを私は感じるんですね。
何か、とりとめのない話になりましたが。
私の場合は仏教一般じゃなくて、曹洞の坊さんであり曹洞宗の立場から言っているので、現在の宗学者は死後の人格を認めない。あるのか
ないのかなんて迷っている人はいるけれども、積極的に認めるという人はまずいないですね、現在は。そこに私は問題があると思うんです。
話は変わりますが、去年の十二月、慶應大学の文学部の学生百人に、死後に霊魂があるかないかというレポートを書かせたのです。それを
読んだところ、あると答えた学生は全体の七〇%、女子では八〇%にも達していました。
そういう時代なのです。霊魂あるいはあの世的なものに対して否定的なのは団塊の世代ですね。ところがこういう人たちでも、意識は変わ
りつつあるようです。現に、二年ぐらい前から、私が早稲田大学のオープンカレッジというところで開催している有料講座を受ける方が、俄
然、増えてきました。退職し、とくに配偶者を亡くしたりすると不安になるらしくて、あの世が気になるんですね。今までそういったことに
対して否定的だった人たちが、今度はそこを勉強したいという。
それから『死生学研究』(二〇〇八年三月)のアンケート調査で、「お迎え」があったと答えた人は四五・六%に達します。このこと自体が大
な衝撃だと言われています。いろいろな宗派のお坊さんに聞いても、こんなにお迎えがあると誰も思っていなかった。さらに、衝撃的な事実は、
誰がお迎えに来るかという問いに対する回答でした。なんと五二・九%が「すでに亡くなった家族・知り合い」と答えているのです。反対に、
いわゆる仏菩薩はほとんど来ていないのです。阿弥陀如来にいたっては、ゼロでした。 葬儀、法事を行って、そのとき導師のお坊さんが霊魂なんかない、あの世なんかないということを軽々に言ってしまう例が少なからずあるそ
です。日本人の根幹の中に霊や魂に対する思いが相変わらずあるにもかかわらず、それをちゃんと受け取ってもらえない現代日本の仏教という、
この構造をどうするかですね。
死後を説くというのは大変な問題です。誰かも言ってましたが、仏教は無常を前提としているというけれども、無常ばかりではない。だから
葬儀を通じて、死後があるということを私は積極的に説いているんです。道元禅師の教えからいうと、私たちは永遠の命を生きている。だから、
そういう意味では宗門の理解が足らないんです。
今回の葬儀というテーマの中で、宗乗的な理論というか、それと現場との乖離があるということですね。葬儀の本質というのは、遺族とか、
弔いたい人がいるとか、それももちろん大事な要素だけれども、根本的には死者をどう見るかということ。宗門では死後を認めていない。そう
いう延長の中では、葬儀の意義を積極的に教える理屈が出てこないわけです。だから、わが曹洞宗はもっと宗学をきちっとして、繰り返しにな
りますが、死後のことをもっと説かなければいけない。】
https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/bk_tusin_no33_2.htm
https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/bk_tusin_no34_2.htm >>158-162
特に、禅僧〜曹洞宗僧侶なんかには読んで頂きたいページです。 >>163
読ませていただきました^_^)
大変興味深かったです。
僧侶よりもむしろ命を扱うシビアな現場にいる医師などの方が、
命や魂に対して敏感なんだろうとも思いました。
ありがとうございます^_^*)/ 禅家が言う「永遠の命」は、「永遠に生きること」じゃねーよ ┐(´ー`)┌
そんなに不老不死が好きなら、フランケンシュタインにでもなっとけ。
禅家が言う「永遠の命」は
↓たぶん無住処涅槃のこと
智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず
しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから
涅槃の境地にもとどまらない
般若の智慧と慈悲
仏そのもの
仏性からの真如縁起
円成実性の世界からの → 依他起性している世界 >>146
>“議論の負け”(論証は終わりました)を素直に認められるような人間
それは、貴方自身に向けられるべき言葉でしょう?w
文献や各種資料・伝承― →それはそのまま、伝承者たちの経験録に他ならないわけだが ―
の分析は、200%無我なの。
それを覆せるのは、
≪「私は」「これこれこの様な体験をし」「アートマンを」「確認しました」≫
という「実体験」だけなの。
で、 貴方には、その体験があるの? 私が見た通り、これこれこうでした、というものなの?
もし、そうでないとしたら、
貴方自身もまた、 【(貴方の系譜の中の)伝承を鵜呑みにしているだけ】でしょう?
伝統上座部の長老方とどこに相違があろうかwww
Aという系譜に於いて、aという伝承が伝えられている。
Bという伝承に於いて、bという伝承が伝えられている。
AとBどちらが、「あ」の中身を伝え得ているか、いたいどうやって比べてるんだい?
君の脳味噌の質を心の底から心配するよ。 腐り切ってんじゃねーかな?とw 禅家が言う「永遠の命」
一休宗純のところに、一人の老人が訪れて言いました。
「私は八十歳になりますが、もう少し長生きしたいのです。あと二十年ほど生きられるようご祈祷をしていただけないでしょうか」
一休禅師が答えて言いました。
「あと二十年とは欲の少ない人だ。それでよいのかな」
老人が慌てて言いました。
「できればあと四十年ほど長生きできればと存じますが」
「これはますます欲のない人だ」
「それなら、更に百年…」
禅師は老人を諭して言いました。
「五十年、百年余計に生きたところでどうなる。そのような小さな欲でなく、なぜ、永遠に生きようと大きな欲を抱かないのだ。
仏法の教えは、人が仏になって永遠に生きる道を説いているのだ。今からでも遅くはない。正しい仏教の教えに目覚めて、永遠に生きることを願いなさい」
老人は、一休禅師の諭しに目覚めて、それからは仏と共に生きるやすらかな日々を送るようになったということです。 168.それは生活の問題である。それは宗教の問題ではない。 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作先生を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)
tk@ >>165
仏教は、肉体上の不老不死などを目的とはせず、別にそれを説いているわけじゃないから。
涅槃の境地は永遠だということであって、それを自身が体感しているということ。
パーリ涅槃経にあるのは、延命は可能だという話です。
ヒンドゥーにおいても同様、肉体の不死を目的とはしていないが、
その気になれば数百数千年の維持も可能という意味。
重要なことは意識の永遠性です。
そして、
『煩悩の汚れを滅ぼした真人(阿羅漢)、すなわち、修行を完成した尊敬すべき人は「わたしが語る」と言ってもよい。』(SN.T,3-5)
とあるように、涅槃に到達した真人は“アートマン(自己)を自認できる”わけですよ。
ただし、迷信と誤解だらけのバラモン達とは一緒にしないで欲しい、というのがゴータマの想いですよ。
勘違いを起こしているバラモン行者らの主張はそのまま正しかったんだ、ゴータマもそれを同意したんだとは見られたくないということ。
だから、単純にアートマンは在るか? という問いには沈黙し、「在る」とは言わないのです。
アートマンについての教え方が違うのです。
>>167
認めたくない者は好きにすればいいのです。
その自由については認められる。
二十世紀最大の哲人クリシュナムルティからも、そのように言われているから。
「信じたい者には信じさせておきなさい」と。 >で、 貴方には、その体験があるの? 私が見た通り、これこれこうでした、というものなの?
>
>もし、そうでないとしたら、
> 貴方自身もまた、 【(貴方の系譜の中の)伝承を鵜呑みにしているだけ】でしょう?
> 伝統上座部の長老方とどこに相違があろうかwww
たとえ自らによる覚せい剤の経験が無くても、
それの製造過程や販売と入手経路、使用者当人の悪しき変化については分かる。
幻覚そのものが分からなくても、薬物幻覚という症状があることについては分かる。
それは夢見やVR体験のようなリアル感覚が起こるものらしいということについては理解できる。
そして、その使用についての是非も判断することができる。
アートマンそのものの実体験が無くても、
仏教の説く無我(非我)とは限定意であって有為についてのものであるから、
最初から有為を超越した概念であるところのアートマンには抵触しないものと理解される。
従って、有為を超越した境地である仏教のニルヴァーナがヒンドゥーの説くアートマンとは同義、
もしくは、類似の境地である可能性については理解することができる。
ゴータマが、そのまま「アートマンが在る」とは言いたくなかった理由を理解することができる。
以上については、すべて論証済みです
そして、この私は仏教のみならずヒンドゥーについても学んできたが故に、
両者に主張について公平に判断することができる。
しかし、あなたのような否定論者はヒンドゥーを知らない(学ばないから)。
あなたが知っているヒンドゥー理解は仏教徒側の偏見から語られたものにしか過ぎない。
論争が生じている両者に対する正しい判断というものは、両者からの公平な聞き取りが不可欠でしょう。
しかし、あなたはただ一方側だけの言い分しか知らないで勝手な判断を下している。
これが私とあなたの違いです。 真夏になるとどうしても汗ばみますけれど、
日々、念珠を持つ手汗の付着がすごく嫌なので、
どうしてもこれを洗って綺麗にしたいという衝動が抑えられず
ついに台所用中性洗剤を垂らした水へと数時間も附け込み、更には洗剤を含ませた歯ブラシでゴシゴシ洗いを敢行。
その結果、腕輪念珠及びパワー・ストーンと結縁灌頂記念の短念珠は問題なく綺麗になったけれども、
なんと成田山祈祷済の大切な真言宗本連念珠が脱色してしまった...。
つい先ほどダメ元で意を決し、
このほぼ生木状態の念珠にホームセンで購入してきたオイルステインを刷毛で塗りつけてみた。
見栄えは思ったより上出来に仕上がったので、あとは乾燥後で実際に使用してみてどうなのか?
というところです。
>>164
はーい(^O^)/
>>168
フム。とても良い逸話ですね >>158-162
この論議の中にも出てきますけれど、
もしも葬儀というものが、遺族とか生きている者のためにあるものだとした場合には、
身寄りも参加者も依頼者もいない死者だけの場合には、“葬儀の必要性はまったく無い”ということになってしまう...。
しかし、本当にそういうことでいいのだろうか? 僧侶としてどうなのか?
この死者にとっての葬儀の意義について、
その必要性の有無や如何に...。
『宗教家は、死者の弔いをする以上「死」についての専門家でなくてはならない。仏教の僧侶が供養をする意味は、亡く
なった人の魂をあの世へ送り、また遺族にも、人間の本質が魂であるということ伝えることにある。
僧侶があの世や霊魂の存在を信じていなければ、供養という行い自体が詐欺行為になりかねないが、そのような僧侶が増え
ているのが現状だ。寺院が求心力を失っている一因も、ここにあるだろう。
寺院消滅の危機がささやかれる現代。仏教界全体に「信仰心」が問われているのかもしれない。』
https://the-liberty.com/article.php?item_id=12778
私も同意します。
僧侶が霊魂の存在を信じていないくせに死者を供養するといって法要を行い布施をもらうのであれば、
その行為は詐欺に他ならないだろうと思う。
霊魂を認めない僧侶は予めそのことを依頼者に告げて、その上で年忌法要などをするかどうかを確認すべきです。
それでも構わないという依頼者のみを引き受けるようにし、いやそれでは無意味であり、詐欺に等しい、
と見なす者たちは、その僧侶(寺院)の下を去ることになる。 セブンは根っからの唯物主義者のようですから、
だから、“アートマンは無い”などという意味での間違った無我論を支持し、
そして尚且つ、死後のすべての意識の存続すらも認めないといった、
霊魂や心霊存在を完全否定する立場を採っているわけです。
まっ、そのような認識は個人のまったくのご自由なので好きにしてもらって構わないのですが、
しかし、そのような人間が僧侶であり、尚且つ、葬儀の導師(や助法)を務めたり、
年忌法要を営んだリ、各種供養(故人に対する)を修しているというのであれば、かなり問題がある。
セブンはこれらの死者供養には参加してるのかどうか? そのときどういう意識でそれは望んでいるのか?
については是非、伺いたいものです。
とにかく、霊魂否定の僧侶はこれらすべての死者供養の参加からは撤退を願う。
宗門は僧侶育成の段階において、唯物主義者は一人残らず排除すべきです。
それらに僧侶資格を与えるべきではない。
もしも曹洞宗そのものが、霊魂否定の見解にあるのならば、
宗門はすべての死者供養なる行為からは撤退して頂きたいと思う。
宗教者は詐欺行為に当たる犯罪からは手を引くべきです。 >>175
日本の葬式仏教は曹洞宗比叡山の四代目であり太祖と称された瑩山紹瑾がルーツなのですが
葬式のときに読む修証義の第一総序には道元の正法眼蔵からそのまま引用した
善悪の報に三時あり、ひとつには順現報受、ふたつには順次報受、みっつには順後次受、これを三時という、
仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむるなり、
しかあらざれば多く錯(あやま)りて邪見に堕つるなり、ただ邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
と三時業が載っていますし
曹洞宗が霊魂を否定したわけではないですよ
道元が否定したのはインドの我(アートマン)思想です
ただ道元は我に変わって宇宙は主客を超えた仏性であると言ってます
我論を仏性論に置き換えています
とにかく曹洞宗の瑩山紹瑾禅師がいなかったら葬式仏教というのはあるいは現代までメジャーな存在にはならなかったのかもしれません w
>>172
> アートマンそのものの実体験が無くても、
> 仏教の説く無我(非我)とは限定意であって有為についてのものであるから、
> 最初から有為を超越した概念であるところのアートマンには抵触しないものと理解される。
> 従って、有為を超越した境地である仏教のニルヴァーナがヒンドゥーの説くアートマンとは同義、
> もしくは、類似の境地である可能性については理解することができる。
> ゴータマが、そのまま「アートマンが在る」とは言いたくなかった理由を理解することができる。
> 以上については、すべて論証済みです
だからw
上の文章のまったく逆ver.が成立するでしょう? と言っている。
貴方がまさに上で述べるような検証・推論に依って、アートマンが否定されているの。
貴方の言っているのは、「文言非我、文脈有我」であり、
貴方が批判する伝統長老方の鏡像になっている、と言っているのですよ。
まだわかりませんか?
> 論争が生じている両者に対する正しい判断というものは、両者からの公平な聞き取りが不可欠でしょう。
だからw、 貴方が提示する数々のそちら側の証拠が、一一、縁起に反する、と言っているのです。
> これが私とあなたの違いです。
ホント、その通りですね。
で、貴方と違うことで、私は心の底から安堵しています。
こんな私でも、お釈迦さんの末席に辛うじて繋がっている、貴方のような反縁起に組せずに居られている、と。 >>175
この辺は一代も同じだと思うが、
「祈りを向ける対象が」「自分のかつて見知っている存在」かどうかは重要でなく、
かつて、自分と縁のあった者の後生を(≒転生先を)荘厳する、のが、仏式法要の構図な筈だけど?
つまり、霊魂として、アートマンとして、継続して存在しているかどうかではない、ということ。
そのような、継続した祖霊の考え方は、日本独特なんだよ。
日本以外では、まったく異なっている筈。
貴方は初スレから知っている筈だが、私は、複数の見方を提示し続けている筈だ。
勿論、個人としては、各方面から批判されるが如く断滅論者に分類されてしまうだろう。
が、それが現時点での自身の体験の限界からであるのは、指摘の通りとしても、
視線を向けている先に、ヒンドゥ的世界観は構築し得ない見通しなわけ。
それは、キ教イ教的唯一神を許容できないのと同じ。
貴方は(神智学では)、創造神を許容できるのかい?
もしできるなら、同じ世界観ならば、それはやはりお釈迦さんとは相容れないし、
まさに、それと同じように、有我と縁起は相容れないんだよ。 >>178
そんな勝手に...
都合よく一代と同じなどとは言わないでもらいたいね。
“転生先を荘厳する”って....いうけれど、
そもそも一代は輪廻転生を認めるがあなたはズーと輪廻否定派ではないか?
人間の死後に継続するあらゆる意識存在を認めないのだから、
つまり、輪廻主体(基体)の無によって輪廻しようがないから、というのがあなたの信条でしょう。
もしも宗門が輪廻肯定(またアホみたいに霊魂は無いが、業がそのまま輪廻の力となって云々..など)
であったとしても、あなた自身は輪廻否定でしょうが。
それとも、
“自分自身で経験してないものについては何も分からないからといって[無回答]”、
という立場をこれらすべてについて表明します? >貴方は(神智学では)、創造神を許容できるのかい?
>もしできるなら、同じ世界観ならば、それはやはりお釈迦さんとは相容れないし、
私の理解では、
法(ダールマ)を規定している力を「神」と呼ぶ。
それら“縁起の法”を作用させ、有為と無為のすべての背後にある根源こそが神。
つまりは、神無くしては縁起すらも作用できないし、業報輪廻も生じ得ない。
従って、業報輪廻を超越する如来も出現し得ないことになる。
神の意志その如何によってすべてが在る。
だから、神の意志その一つによっては如来すらも一瞬で掻き消得てしまう。
それが「神」というものです(神智学も同様だと理解)。
一般的には、
“仏教では神は説かれていない”とされているが、
これについては単に説かれなかっただけなのか? 完全否定なのか? については、
今後も課題として検証を続けたいと思う。
『サンガーラヴァ経』に説かれる神が、至高者にして創造主であるところの唯一神、
無始の初めより存在して永遠に在り続ける神のことを意味して述べた可能性については保留中です。
尚、この前の指摘によれば、原語では「ディーヴァ」(天)となっているけれども、
しかし、全体の文意としてはその他の仏典中においても普通に出現しまくりで、
ゴータマと対話しまくりの神々(夜叉やヤッカ、天界の天部ら)のことだとは到底、思えないのですが...
何故ならば、ここでいう「神」とは、“普段は説くことをしない”という文意なのだから。
『「本当に、神は、この世に存在しているのですか。」
「私は、神が居ることを、自ら確めている。故に、居るのかと問われたら、居ると答える。
しかし、問われないならば、答えることはない。」
「ゴータマよ、その訳は、如何してですか。」
「人々は、神が居ることを、徒に信じている。確めることなく、信じられている、からである。」』
(『マッジマ・ニカーヤ』第100経/サンガーラヴァ経.第4章) で、もしも可能であれば是非、
セブン個人の考えとして解答を願いたい質問事項があります。
任意ですから、もちろん答えられる範囲で構いません。
宜しくお願いします。
Q1. あなたは住職ですか? それとも先代が現役なので跡継ぎ(若さん)ですか? またはその他...。
Q2. 通夜葬儀、各年忌法要、各種の死者(祖霊)供養の導師(または時導師や脇導師)は務めますか?
Q3. Q2.でハイの場合、その儀式は遺族や生者のためのものですか? それとも死者当人のためのものですか?
それともその両方のためですか? その理由についてもお願いします。
Q4. 亡くなった家族の死後がどうなるのかについて遺族に訊かれたら、あなたはそのとき何と説明しますか?
以上. >>180
補足:
ゴータマは結局、
縁起の法が何故あるのか? といったことについてはまったく教えなかったのだと思う。
それは今のあなた方では知り得ないし、そんなことよりも今刺さっている矢を抜くことが先決だ
(そうでないと死んでしまうぞ!)、といった具合だったでしょう。
ただし他の宗教では、その摂理(法)が神(の意志)そのものであるとして説かれるということでしょう。
私の理解としては、ただそれだけの違いですね。
何も無くしては(縁起すらも)生じ得ないから。 >>63-64 >>91-93
つづき...
マンガ本ですけれど、
これを読めば、天部の神々というものが如何に自意識が強くて我がままであり、
そして、とても恐ろしいものであるかが分かります
(自分が何番目に拝まれるかなどについてはとてもシビアに見ており、その不満を露わにする)。
日々、それらの存在と向き合って法を修する現役密教僧の実録ドキュメントがこのシリーズ本です。
その時々において、本物の密教僧が何を見て何を感じとっているのかがリアルに描かれています。
それらが本人だけの思い込み幻想などではないことについては、
第三者的にも物理的な現象と結果がハッキリと伴っていることからも分かります。
場合によっては命懸けで向き合っている。
こういう内容については、殆ど知り得ないので非常に貴重なものです。
『密教僧 秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』全5巻
『阿闍梨蒼雲 霊幻怪異始末』 1巻・2巻
永久保貴一(著) HONKOWAコミックス そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティを〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、大勢の比丘たちと共に城市から出て、樹皮行者のバーヒヤが命を終えたのを見ました。
見て、比丘たちに語りかけました。
「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を収め取りなさい。寝床に載せて運び出して、燃やしてあげなさい。
そして、彼のために塔を作りなさい。比丘たちよ、あなたたちと梵行を共にする者が、命を終えたのです」と。
「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を、寝床に載せて運び出して、燃やしてあげて、そして、彼のために塔を作って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。
近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、樹皮行者のバーヒヤの肉体は焼かれました。そして、彼のために塔が作られました。彼には、どのような〔来世の〕境遇(趣)がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。
「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。そして、法(教え)を問題にして、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。
しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」と。 >>184
> 「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。
> しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」と。
真我は永遠に存在している。
誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。(p21-22)
(ラマナマハルシ )
マハルシの説く真我とは仏典のニルヴァーナに似ている
あるいはマハルシは涅槃を体験したのかもしれぬ >>185
投稿をありがとうございました。
私から見ても、
ヒンドゥー聖者(アヴァターラ)の中でもマハルシはトップレベルとみています。
神智学徒も大勢、彼の元へと通って御言葉を受けています。
マハルシの場合は聖典の記述がこうだから〜ではなくて、
彼自身の如実の経験のままに自然と発露されている言葉なのだと思います。
だから、余計にそれを理解するのが難しいです。
そこに解釈がない(数百〜数千年以上昔の聖典の記述やそれを解釈している論書などではない)から...。 君たちはアートマンがー、経典がー、真我がー、涅槃がーとか言いながら、
そのまま寿命が尽きて死んでしまうんだろうね。
そして君らが頑張って蓄えた、知識も見解も至高の体験も、全部無常に滅して無くなってしまうんだろうね。 まあ古来から学僧や仏教学者が
わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。
では満足いかずに無我と輪廻は矛盾するだの輪廻の主体は何かだの業思想は仏教ではないだの色々と論争しているからな 覚者も悟った途端に首をはねられれば、
現世ではそこで一巻の終わりです。
ですがこれはもったいないことでもなんでもないのです。 まあ、宗教5ちゃんねるも、57歳ニートのクソジジイしか
いないんだけどね(笑) 悲しいことに今回、
発生した「平成30年北海道胆振東部地震」では、とうとう40人の死者が出てしまいました。
ところで、人間の死後には霊魂なる意識は何も存続しないとする見解のアホ僧侶たちは、
遺族も身寄りも誰もいない遺体だけの場合には、葬儀を行う意味はあるとみているのかどうか?
本当にそこは完全に僧侶と遺体だけであり、参拝者や関係者の一人すらもいないという場合を想定して。
これについては非常に興味深いものがあります。
とにかく、この私からの提案としては、
あらゆるすべての宗派を問わず、唯物主義にある僧侶については直ちにその資格を剥奪すべきです。
そして、これから新たに僧侶となるべき人間の中からは絶対に唯物主義者を入れてはならない。
“自分の家(代々の寺院)を継ぐために”などという理由で、これらの唯物主義者に僧侶の資格を与えるべきではない。
これが日本仏教界がまずしなければならない最初にして第一の必要改革です。
たったこの一つのことを実行することで、日本仏教が大きく生まれ変わることをこの私は保証します。 >>187
>そして君らが頑張って蓄えた、知識も見解も至高の体験も、全部無常に滅して無くなってしまうんだろうね。
そんなことはない。
一度、インターネットにアップしたデータ(文章)というのは基本的には消えることはないとも言われている。
ちゃんと検索にも掛かるし、また偶然に目にする者もいるでしょう。
それから、この私はこの5ちゃんだけに限らず、
今後についてはブログやツイッター発信についても検討している。
すでに私の作成した神智学関係のサイトページについては、
出版された書籍にもそのアドレスが掲載され推奨サイトとして紹介されている。
この私は、自らの睡眠を削って遊びで投稿してきたわけではない。 >>192
データが残っても誰も読まなかったら意味ないですよ。
読んだとしてもその人の心に残らなかったら意味ないですよ。
心に残っても、すぐに忘れられたら意味ないですよ。 >>194
すべての物書きに同じことを言ってみなさい 宗派を問わず死後の成仏が保証されてる日本と違って
上座部仏教やヒンドゥー教の国々では人は死んだ後に直ぐに輪廻するので遺体の扱いもぞんざいだし墓を建てたりもしないと聞いた
ヒンドゥー教だと遺体は火葬した後遺灰をガンジス川に流すのが一般的らしい(南インドや西インドのヒンドゥー教徒はどうしてるのかは知らないが)
しかし輪廻転生を信じているので唯物論者でないのは確かである
無我にこだわる上座部も決して唯物論ではない >>173
素人のオイルステイン塗りが仇となったのか、
念珠の中糸にも染みた塗料の影響なのか、これを使用したらすぐに斬れてしまった...。
修理には安い新品が変えるだけ費用がかかるのはもう分かっているので(過去に2本の修理経験あり)、
今回は思い切って、新規に普段用と少し高価なタイプの2本を購入し、今、到着待ちのところです。
初めて白ぽいタイプ(星月菩提樹)をチョイスしてみました。
はたしてどんなものでしょうか。
>>194
そんな誰でも、
ただ否定するだけならば簡単なことですよ。
では、どうしたら良いのかを述べるべきです。
あなたからの建設的な意見をね。
>>196
>無我にこだわる上座部も決して唯物論ではない
もちろん、正しく理解しているならばそうです。
経典の教えにも在る通り、肉体が諸元素に還元されようとも「識」が輪廻主体となり(『DN15,55-71』)、
生前における業の作用によって次の転生へと入る(転生が止むのは完成者だけ)。
また、人によっては餓鬼(『パーリ小部.第7経』ペータヴァットゥ)と呼ばれる状態にもなるし、
これが知覚されたときには幽霊だということになる(『雑阿含/好戦経』)。
そして、唯物論は六師外道として語られ、また「邪見」(人間の最も低き見解「来世を信じない者は悪事を行う」『Dhp176』)
として戒められています。 日本仏教の宗派でも基本は殆ど変らないと思うけれども、
葬儀の中には必ず「授戒」と「引導(作法)」という儀式が組み込まれています。
その意味は無くなった故人を仏弟子として戒を授け、そして、死後の行末を導くことです。
しかし、これを行っている僧侶自身が死後の生存も来世も信じてないのであれば話になりません。 >>197
建設的な意見を言うなら、解脱する事です。
諸行無常の世の中では、解脱にのみ価値があります。
解脱以外のものには価値は無いです。
四諦八正道を実践することにのみ価値があります。 ブラフマン(梵)が海ならば、アートマン(我)はうず潮
ブラフマン(梵)が大気ならば、アートマン(我)は台風や竜巻
単なる物理現象であればそのうち消えて無くなるものだけど、ブラフマン自体が意識体であるので、
アートマン自体も意思を持ち、存在へのこだわりを持ってしまいなかなか消えない。
一度の生では満足できず、魂の入れ物を探して輪廻する。 >>199
その通りなのですが...
しかし、殆どの普通の大衆というのは、
そんな残りすべての生涯を山野へ籠るみたいなことはできませんよ。
それに...通常は、全生涯を掛けても今生だけでは完成者にまでは成れません。
普通の場合は、専門的な修業に明け暮れても完全解脱までに何生涯も必要です。
>>200
アートマンは輪廻しません。
輪廻主体は「識」であり、いわゆる「魂」(Jivaジーヴァ)です。
「識」(魂)はアートマンではありません。 >>201
びっくりしました。
素直な人ですね。5chではめずらしいです。
素直な人は意外に早く悟れるみたいですよ。 此の身今生に向って度せずんば、更に何れの処に向ってか此の身を度せん 【奇跡】米スラム地区に「仏像」を設置しただけで犯罪率80%低下!
強盗、密売、売春が激減…「ブッダは中立だから良い」
https://tocana.jp/2018/08/post_17961_entry.html
奇跡というものではないけれども、
米カリフォルニアの犯罪多発の無法地帯で仏像(ブッダ像)を設置したところ犯罪が激減したという。
ここにゴミを捨てちゃダメだという気持ちにさせるのだろうね。
そして、人の良心が刺激されるのか犯罪もここではしなくなっていく...。
つまり、欧米人でも仏像に神聖さを感じるということでしょうね。
動画もありますが、特に仏教の信仰者ではなくても一様に敬虔な気持ちになるようですね。
まさに素晴らしい効果です。 >>205
はい、間違いです。
尚、残念ながら、それらがごく一般的な理解なのでありまして、
仏教者らもそのような間違った見解に対してアートマンやヒンドゥーについて云々と論じたりしているのです。
最初から間違ったものについてアレコレ論じるているのだから、これでは当然、仏教徒も正しい見解が得られるわけがありません。
ゴータマの時代においても正しい理解にあるバラモンは少なかったようであり、
アートマンではないものをアートマンと誤認する行者が実際に多数いたのです。
自己の「魂」(輪廻主体)に目覚めた行者は、輪廻を通じたその驚異的な経験値と知識(そして、超常能力)を獲得します。
なので、これをアートマンだと誤認するのも無理もないことなのでありますが、
しかし、最終ゴール(解脱)はまだまだその先なのです。そのとき初めてアートマンを自覚できる。
ゴータマは、これらのバラモン行者たちの間違いを指摘したのであり、それがパーリ『梵網経』の教えとなっているのです。
実に、ゴータマが“アートマンが在る”ということを言いたくなかったというのは、
これらの間違った行者らと自分が同一見解だと見なされてしまうことをどうしても避けたいがためでした。
輪廻するということは未完(業に流されている)ということなのですから、
無始の初めより完全にして究極の原理たるアートマンが輪廻しているわけがないのです。
輪廻の核(基体)は「魂」(Jivaジーヴァ)であって、アートマンではありません
(尚、仏教の兄弟宗教と呼ばれるジャイナ教はこのジーヴァをアートマンと見なしました)。
仏教では、輪廻主体(魂)が「識」であると教えており、尚、これをアートマンと見なす愚については強く戒められています。
『アーナンダよ、もし識が母胎に入らないとすれば、いったい名色は母胎において凝固するであろうか。---中略---それゆえここでは、
アーナンダよ、これが名色の原因であり、これが縁由であり、これが起因であり、これが縁なのであり、それがすなわち識である。---中略---
この限りにおいて流転を繰り返し、この況位を表すことになる。それはすなわち、名色は識とともに互いに縁って生起するのである。』
(ディーガ・ニカーヤ 15, Mahānidānasuttanta /PTS vol.2, pp.55-71)』 もちろん、
ヒンドゥーにおいても正統なアヴァターラはアートマンは輪廻しないものとして理解しています。
以下に、シャンカラチャリヤとマハルシからの二つの言葉を紹介しておきます。
『弟子は、「その無明とは何でしょうか。その対象とは何でしょうか。また明智によって自分の本性に立ち帰るわけですが、その明智と
は何なのでしょうか」と尋ねた。
師は答えた。「君は最高我であって、輪廻しない。それにもかかわらず《私は輪廻しています》と言って、正反対に理解している。また
行為の主体ではないものにもかかわらず《(私は)経験の主体である》、(永遠に)存在するにもかかわらず、《(私は永遠には)存在しない》
(と、正反対に考えている)。-----これが無明なのです。」』
(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』U散文篇.第2章49-50/岩波書店刊)
『無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生などまったく存在しない。いまも、いままでも、そしてこれからも。
これが真理である。』
(『あるがままに---ラーマナ・マハリシの教え』ナチュラルスピリット刊)
『知覚認識できる対象には[現象としての]終わりがあり、知覚認識する主体をジーヴァ(個的生命)であるとするなら、ジーヴァ
(個的生命)とて現象としての終末がある。現われ出るものは何かを見い出し、その現象の破壊(最後)を見極めれば、不滅の真実在
sat (Self) を覚智現成し、アートマン Atman とは何かを覚了する。新たに現われ出るようなものはいずれ消え去ることになり、それは
ジーヴァ(個的生命)あるいはその知覚認識対象であって、アートマン Atman ではない。』
(Talks 1_0704) >>206-207
たったこれだけのことを理解すれば、
「アートマンが無いなら、死後の霊魂も何もない」といった馬鹿げた無霊魂感や、
「アートマンが無いなら、輪廻主体がないのだから輪廻しない。
従って、仏教の輪廻思想というのはバラモン思想の混入か意図的な方便使用だった」
もしくは、「アートマン無しでどのように輪廻を説明できるのか?」について、
業がそのまま働くだけで輪廻主体は別に無いのだとか、
または、やはり何かしらの主体がある筈だからと大乗では阿頼耶識が説かれるといった始末...。
〜といった類の馬鹿げた見解はこれですべて崩壊します。
尚、元々からゴータマは「アートマンは無い」などとは一度も述べたことはないし、
最初から無為であるアートマンが五蘊無我説(一切/五蘊にはアートマンは何処にも認識されない)に抵触する筈もないのです。
ただ、仏教徒には多数の唯物論者が入り込んだので、仏教の無我説を利用(誤用/悪用)しているのです。 宝珠真範さん、ご説明ありがとうございます。
しかし何度か読みましたが、理解力が乏しいようでよくわかりません。
簡単に言うと、
アートマンとは何ですか?
ジーヴァとは何ですか?
ジーヴァはアートマンの一部なのか、またその逆なのか、全く別のものなのか。
私は魂は宇宙の根本意識の一部であり、そのことを認識していないのも「無明」の
一つだと理解しておりました。
本来名前は何でもいいのですが、その認識の対象が異なるということであれば問題です。
今一度ご説明頂ければ幸いですm(_ _)m ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています