--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 ★最初期の仏教における輪廻
仏教では、輪廻を認めています。
「最初期の仏教は輪廻を認めていなかった」と主張する学者の方もいますが、
輪廻がないということは、死んだらそれでおしまいということになってしまって、
そうしたら最初期の仏教徒が、何から解脱するために
懸命に修行を行っていたかもわからなくなってしまいます。
インド思想の大きな流れからしても、
「兄弟宗教」とされるジャイナ教の教義からしても、
仏教が最初から輪廻を認めていなかったというのはありえない話だと思います。
仏教経典でも最古層の韻文資料であるといわれている、
スッタニパータ(Sn.)の第四章や第五章でも、
「想いということを完全に知って、激流を渡るとよい。
沈黙の聖者は、さまざまな所有物に汚されることなく、
煩悩の矢を抜き去って、修行につとめ励んで、
この世もかの世に対しても望まない」(Sn.779)
「両極端の中において、種々の生存に対しては、
この世に対しても、また他の世に対しても、
いまここで願うことがない」(Sn.801ab)
「愛し好むことが世にはびこったり、
あるいは貪りが世にはびこったりすることは、
欲望にもとづいて起こる。また、人が来世に関していだく希望と目的も、
それにもとづいて起る」(Sn.865)
という表現が見られ、「この世もかの世に対しても」
「この世に対しても、他の世に対しても」「来世に関して」は、
いずれも輪廻そのものを表現する語句ではありませんが、
現世と来世という両世界が用いられている点から判断して、
輪廻という世界観を前提として表現であると解釈することができます。 また、
「ピンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなくはげみ、
再び迷いの生存にもどらないように、物質的存在を捨てよ」(Sn.1121cd)
「ピンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなくはげみ、
再び迷いの生存にもどらないように、妄執を捨てよ」(Sn.1123cd)
という表現が見られ、どちらも再生することがないように戒めたものですが、
この「再生」という表現も、明らかに輪廻を想定できるものです。 さらに古層の韻文資料であるといわれている、
スッタニパータ(Sn.)の第一章から第三章には、
「全宇宙の生滅や生きる物の死して生まれる輪廻を考察し、
塵から離れ、汚れなく、清浄で、二度と生まれを繰り返すことがなくなった人、
その人こそがブッダといわれる」(Sn.517)
「この無明とは最大の無知であり、それによって永い間このように輪廻してきた。
しかし、明知に至った生きとし生ける者は、再び迷いの生存に戻ることがない」
(Sn.730)
という「輪廻」という言葉そのものや、
「悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、
10万ニラッブッダと36ニラッブッダの間、また5アッブッダの間、
地獄に堕ちる」(Sn.660)
「正しい法に従って得た財をもって母と父を養え。
正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、
死後にみずから光を放つという天界に赴く」(Sn.404)
など、死後に赴く世界についても書かれています。 【ミスリードの例】
(4)「釈迦は輪廻それ自体がマーヤだと悟った・・・」
これはおそらく正しいと思います。輪廻思想は、永遠の魂とか、過去世とか来世など、人間の認知の届かないことがらについての妄想ですから、ブッダはそのようなものは、「なんの役にも立たない」として無視(無記)しました。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである・・・。
(「毒矢のたとえ」)
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism47.html
引用した訳が間違ってるのか意図的に改竄したのか分かりませんが、毒矢たとえが載っている
「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経
での本当の訳は
マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在し、かつ、存在しない』という見解があろうと、『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』という見解があろうと、
あいかわらずせいがあり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html
ミスリードの訳では如来が人間となってて、
ブッダは人間の死後についてはどのような立場をとっても妄想となるので無記であったとしていますが、
あくまで如来の死後については無記であるというだけです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています