玄沙和尚はあるとき旅にでようとしてすぐ足の指を石にぶつけイテテ。この痛みは何処空着たのかと突然想い旅はやめて寺に
引き返したとか?雪峰和尚が何故お前は旅に出ないのかと聞いた。そうしたら、玄沙は「達磨は中国に行きませんでした、慧
可もインドに行きませんでした」と答えた。??テレビを見ている人が旅の番組で色々な所に旅する気分になるけど、冷静に
見ればテレビの光が色々に変化しているだけ、見ている人はテレビの前に居る。あたり前だ私は今パソコンの前で2ちやんの
朝の出鱈目を書いている。色即是黒写っても写らなくてテレビはテレビパソコンはぱそこん光の乱舞だけど真っ黒なパソコン
の前で見続けるのは辛い、けど坐前つまり坐前禅なら盲見続けられる視でも空たまには空でも色々な光も見ないと?色即是空
空即是色。テレビやコンピューターの機会がないと見ることも無い暇でもつまらないお年よりもいるし、まあそれもよいか。
  (続き)固体化は、空間と時間を介して生じるたんなる現象にすぎない。現象は、私の脳髄の認識機能によつて制約された。
認識能力のあらゆる客体化の形式以上のなにものでもない。だから固体の数多性と相違も、単なる現象にすぎない。いいかえれ
ば、私の表彰のななかにのみ存在するにすぎない。私の真の内的本質は、それがわたしの自意識のなかに私自身にとってのみ
直接にあらわれるのと同様の直接性をもって生きとし生けるものの中に存在するーこの認識、サンスクリット語でtat tvam asi
すなわち(汝はそれなり)という定式がその定着した表現となつているこの認識こそ、同情としてあらわれる、だからあらゆる真
正な、つまり無私な徳がそれにもとずいている認識、あらゆる善行がその実在での表現であるところの認識である」すべての
神話の比喩は、まさに地域の生活のあらゆる様相を通じてはたらいている自己のこの作用の直観から派生したものであり、その
影響の特徴と定義できるかも知れません。それは儀式、教育的物語、祈り、瞑想、年毎の祭などを通じて表出されます。