>>289
ええ、そうなのですが、そういう話でもないというのか(^^ゞ

たとえば わたしやあなたや、あなたの子や孫が 熱中症で道に倒れたり
災害にあい、生き埋めになっている時に、
助ける人、連絡する人、蘇生する人、医師や看護婦など
その中に誰ひとりとして、クリスチャンがいなかったら?
しかし、感謝の気持ちでいっぱいになるでしょう。

それをどのように理解するのでしょう。
十分あり得る話です。

自分はクリスチャンだから、助かったんだわと、
傲慢に命を助けてくれた人々に対して自分の小間使いのように
感じるのか
それとも、宗教などこえて、愛の前にひたすら謙虚になり、
その人たちに敬意と感謝を示す、清潔で捕らわれない
気持ちを持つことが出来る聖霊に満たされているのか。

このように何事かあった時以外も日々をそのような心で
送ることが、キリスト者ではないのでしょうか。

よきサマリア人の譬えのように。

信仰、信心が神とイエスキリストにあるということは、
自分にとって聖霊が水や空気のように当たり前に
意識しなくても、自転車が乗れるように身についており、
血肉になっており、
そんな私が、社会の中で生きている、暮らしている
のであって、頭の中でキリスト信仰が分裂しておれば、
それは、邪念や、狂妄につながっていきます。

シュタイナーの幼児教育の実践における成果は
イエスキリストと比較するとか、そういう事では
まったくないし、する必要もありませんよね。

梅干し一個が救ってくれることもある、
それが理解できるのがキリスト者の輝きだと
思います。(^^ゞ