>>398
> 私は出し惜しみなどしない。

ということは、出し惜しみをしない「私」というものが、「それ(出し惜しみしない)」以前に存在することとなる。

では、 「それ」以前の「私」 とは、何であろうか。

それは「私は(〜を)しない」 というのだから、その「しない以前に存在している何ものか」ということになる。

それはしないという作用以前、つまり、あらゆる作用以前に存在している何ものか、という ことになってしまう。

すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。

だがいったい、そういう現象(作用)に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか?

第一、その私って、いったい何なのだろう?

もしそういう私があるとしたら、「それ」が「しない」とは、どういうことになろうか?

もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「しない作用」と結びついて、はじめて「しない」ということもできるということになるほかない。

しかしながら、いったい、しない作用のみが、どこかにあると考えられようか?

これはおかしな話である。

ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。



ってねw