■■■釈迦は輪廻転生を説いでない?■■■
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輪廻からの解脱、涅槃に至る道=八正道を説いた。
輪廻転生について確かめる方法は、大きく分けて二つある。
ひとつは、仏説、つまりお経でどう説かれているか確かめる。
もうひとつは、八正道を修行して自分自身で確かめる。
前者は論理。
後者は観測。 仏説を経典に依るならば、
仏陀は輪廻転生はあると言ってるし、すべての教説の前提になってる。 八正道の修行のうち、正精進、正念、正定の三つは、戒定慧の三学のうち
定学に相当するのだが、その定学を修めた段階における正見、正思惟は、
説法や経典教学、あるいは議論等の言葉や文字を通して学んだ知識概念
としての理解ではなく、洞察による理解になってくるが、その段階では
自分自身の瞑想修行を通して感得した洞察から、輪廻転生の実相も分かる
ようになってきます。
簡単にいうと、止観の禅修行をやれば自分で分かります。 八正道の正見、正思惟が、三学の慧学、すなわち悟りの智慧に相当する。 我々は無我なのに、何がどうして輪廻(転生)するのか?という疑問が
あると思いますが、それはこの身体と、身体に生じる自己認識(自我意識)が
自分の本体だと思っているから出てくる疑問であるはずです。
坐禅をやっていくと、そもそもその自我認識が、ある種の錯覚であることが分かります。
そこから先は、輪廻や無我を理解するのは簡単になります。 率直に本当のところを述べてしまうと、
我々が、悟りや解脱の教えである仏説が間違ってるだろうか、と判断する前に、
我々の思考や認識が間違っていないだろうか、とチェックする必要があるわけです。
まずあなた自身の心の眼の曇りを取らないと、あなた自身について正しい判断は
できませんよ、ということなのですが、
社会常識的には、なかなかこういう発言はできません。
禅僧は大抵黙っているでしょう。
理由は色々あると思いますが、ひとつには上記の理由も大きいのではないかと
思っています。 現代の僧侶も、輪廻転生がないと信じ切ってる人には転生の話はしないよ。
禅僧同士とか、出家修行者同士は、輪廻があることを知っている場合が多いので
そういう相手には輪廻転生前提の話は普通にできる。
一般人相手に話すと、オカルトだの神秘主義だの、変な目で見られて、かえって
害になり兼ねないので言わないだけ。
中世の世界で、地球が丸いっていう話をするのと同じで、それなりにリスクがある。 解脱しない限り、来世はある。
つまり、善業にせよ、悪業にせよ、業の報いを受ける。
生じたものはすべて老いて死ぬので、生まれるたびに愛するものとの死別と
自らの死によって全てを失う。
しかも人間に生まれるとは限らない。
そんなことを無限に繰り返しているのが輪廻。 悟っていない人が、悟った人(仏陀)の話を論評するということが、どういうことなのか
冷静に客観的に考えてみるべき。
無理筋です。 マトリックスの住人が、マトリックスはマトリックスだと語るネオ(だっけ?)に
マトリックスは現実ですと力説するのと同じ。 答え 釈迦は輪廻を説いてません❗
経典とは釈迦の名前でのフィクションです🎵 輪廻転生や因果応報や三世因果を
教えないと悪事を繰り返す人間に
教えるための対機説法なんでしょ? 人間の常識に収まらないものごとは、大きく分けて二種類ある。
常識より下が迷信。
常識より上が智慧。
理性にも二種類ある。
迷信に惑わされない理性と、
人智を超えた智慧を解する理性。
瞑想ができる人にとって、智慧は体験智となる。
瞑想ができない人にとっては、悟りの智慧からでてくる話は、信仰の対象となる。 釈迦牟尼という人物が、常識より下のレベルだったかどうか
よくよく冷静に検討してみるのも良いかも知れない。 自我が感じたように感じる。
自我を出発点にして考える。
自我を中心として物事を認識する。
普通の人間は、こういう風にしかできない。
でも、自然の摂理というのは、誰かの自我を出発点にはしていないし、
自我を中心になり立っているわけでもない。
いろいろと逆さま。
顛倒夢想しているのが、普通の人間の認識状態なのです。
わたしも瞑想が成功している時以外はそうです。
神仏の智慧(般若)というのは、自我から出てくるわけではありません。
自我を脱ぎ捨てたところに、もともとあるものです。 ○○様が言った。
○○様は神通力でわかる。
○○経に書いてある。
こんなのは根拠にならない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています