【聖書】ピッピのブログ通算13【生活】 [無断転載禁止]
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富士山も必ず噴火する日が来ます。
風の流れから言っても東京は火山灰の影響を免れません。
昨日は鹿児島の桜島が噴火しました。 >>124
ちなみにこれは昨日のミサの福音朗読です。 このヨブには罪がなかった。
こういう苦難があることを知らなくてはならない。彼は贖いを知っており、神との親しい交わりがあった。
ヨブ3章
24 わたしの嘆きはわが食物に代って来り、/わたしのうめきは水のように流れ出る。
25 わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。
26 わたしは安らかでなく、またおだやかでない。わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」。 薄められた酒について聖書は良い書き方してないんだけど、私はアルコールに弱くて薄めなくては飲めない体質。
顔は真っ赤になるし、頭痛がしてくる。
子どもの頃、母方のおじに「大学へ行ったら無理やり飲まされるぞ」と脅迫されたわ。
だから酒に強くなれ、と。
もうめちゃくちゃよ。
ワインは一口だけでも悪酔いする。でも日本酒は升酒のんでから印象が変わった。あの塩がいいね。
人生で二度飲んだっきりなのだが。 アイスたくさん買ってきました。
一気に食べないように気をつけたいと思います。 本日の『manna』マルコ 4:26-32
神の国のたとえ
26
またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
27
夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
31
またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
32
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
33
蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」 私はとても悲しい。
毒麦ニューエイジの反キリストたちがみことばをふさいでいる。 教皇ツイッター
カルメル山の聖母、おとめマリアが、神の山へと向かう皆さんの日々の旅路を共に歩んでくださいますように
#教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #おとめマリア #カルメル山の聖母 シャワーの後、立ちくらみがするほど暑かった。
夜は涼しい風が吹く。夜は優しい。 キリスト信仰を持たない人は、どんな立派なことをしていても終わりの日に否定されます。
この恐ろしさを知っているのが、私とパウロ。 考えてもみてください。
歯噛みして泣きわめく理由を。
彼らは良いこと、正しいことをしてるつもりだったのです。 私の悲しみがわかりますか。
ファッションブローチのようにキリストを褒めて、他の思想や宗教を尊敬する態度が、どれだけキリストを侮辱しているかを理解しない人がいます。
ちょこっと舐めては「美味しい」と言い、またべつのものを舐めては「素晴らしい」と言い、結局この人は自分自身の舌を賛美しているにすぎないのです。 本日の『manna』マルコ 5:1-13
悪霊を追い出す力
(ピッピ談)
一人の男の体の中から豚の体の中へ入ることを願う悪霊たち。
地上の生き物に入るほうがいいと感じるような場所が、彼らに住まうことを許されているところの環境なのでしょう。
そこがどこなのか、どんな場所なのか、想像のかぎりを尽くして考えてほしい。
行きたいわけないでしょう?
解説はこの男がキリストを伝える務めを果たしたことから、今度はあなたが語ってくださいと結びます。
私たちは証し人です。キリストが私の人生に何をしてくださったかを私たちは伝えていきましょう。 あの苦しみがなくなってから、私はいつまた襲われるかと不安を抱きつつ暮らしています。
はっきりと神の中止命令を聞いたわけではないのですから。
ヨブにも第一弾が過ぎた後、第二弾がやってきました。
ヨブの苦しみの終わったことは、神との明確な会話と前以上の祝福された環境が戻ってきたことで確実になります。
聖ファウスティナにもキリストとの明確な会話があり、言葉で説明を受けていました。
私の場合はそれがありません。曖昧なイメージの中で、いつ戻されるかわからない恐ろしさを前に堪え続けています。 私の苦しみの始まりは、私がキリストの花嫁を辞退したことからです。
マグダラのマリアと幸せになってくださいと言い放ちました。
権威と信仰の否定ではなく、花嫁として拒否したことの何がそこまで災いだったのでしょうか。
反キリストはこの隙間を利用して、私とキリストの間を徹底的に潰そうとしたのです。
どんなに恐ろしい出来事だったかは、リアルタイムで報告してきました。わからなければ過去ログで読み直すか、今気を引き締めてください。 その人の苦しみはその人にしかわかりません。
おのおの、恐怖することが違うからです。
しかし苦しみの度合いは同じです。
覚悟してください。 http://www.pauline.or.jp
今日のことば
神を求める気持ちが消え、味気なく、圧迫されているように思えたり、霊的な活動ができないと思えるときにも、うろたえてはならない。そんな気持ちになるのも恩恵であり、よいことなのだ。/
…私たちが目の見えない人を案内するように、神はあなたの手を引いて闇の中を導 いてくださる。見たこともない道を通って、どんな想像も及ばないすばらしい目的地へと。自分一人では、決してこの道を見いだすことはできないし、その目的地にたどり着くこともできない。/
十字架の聖ヨハネ/『祈りの泉 365のことば』 あのときの蝉の幼虫が死んでいた。
背中は割れていたけど、出られなかったようだ。 私も時々、背中が霊的にばっくり割れる感覚があるけど、出たような気がしない。 お風呂の排水口の蓋も割れた。
金属なのに…。
明日、買って来なくちゃ。 私は愚かで力のない者です。
あなたの御心のまま裁かれることをとても恐れ、悲しむ者です。
どうぞ罪を赦し憐れんでください。
私は聞いた。
「赦さない」と。
それでとても打ち震え、怯えています。
私の神、私の主よ、あなたの勝利を喜びます。
どうぞあなたの民と永遠の安楽にお住まいください。
もしも心を変えてくださるなら、私を贖いお守りください。 ヨブの友人が言う
ヨブ5章
17 見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。
18 彼は傷つけ、また包み、/撃ち、またその手をもっていやされる。
6章
1 ヨブは答えて言った、
2 「どうかわたしの憤りが正しく量られ、/同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。
3 そうすれば、これは海の砂よりも重いに相違ない。それゆえ、わたしの言葉が軽率であったのだ。
4 全能者の矢が、わたしのうちにあり、/わたしの霊はその毒を飲み、/神の恐るべき軍勢が、わたしを襲い攻めている。 ヨブの言葉も友人たちの言葉も長いので、しかも友人たちの言葉にも真理が含まれているゆえ、つい無作法に引用してしまうことがあります。
あまり読んでいない、あるいは学んでいない、ということが丸わかりになりますね。
もう色分けしておかなくちゃいけませんよ。 http://www.pauline.or.jp
今日のことば
日常生活において、あるいは神とのかかわりにおいて、現在先の見えない闇の中におかれている人よ。静寂を保ちなさい。
闇の中で口を開くのは間違っている。闇は、耳を傾けるための時間なのだ。/
オズワルド・チェンバーズ/『祈りの泉 365のことば』 教皇ツイッター
イエスは愛の文明を、わたしたちが日々生活する状況の中でともに建設するよう、わたしたちを招いておられます
#教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #愛の文明 #召命 今日のスイーツはローソンのすいか杏仁プリンです。
ちょうど一個残ってた、よかったです。 本日の『manna』マルコ 6:7-13
十二弟子の訓練
11
あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
12
こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、
13
多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。
(ピッピ談)
足の裏のちりを払い落とすしぐさは、昔、ラビたちが異邦人の地から出てくる時に、そこの汚れを落とすためにしていたことだそうです。
たとえガリラヤのユダヤ人たちであっても、イエス様から派遣される弟子たちのことばを聴かない人々は、異邦人と同じだという意味だ(使徒 13:51) そうです。 http://www.pauline.or.jp
今日のことば
苦悩する魂は神に近い。/聖ペトロ/『祈りの泉 365のことば』 ヨブ6:9
どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、/み手を伸べてわたしを断たれるように。
10 そうすれば、わたしはなお慰めを得、/激しい苦しみの中にあっても喜ぶであろう。わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。
11 わたしにどんな力があって、/なお待たねばならないのか。わたしにどんな終りがあるので、/なお耐え忍ばねばならないのか。 今日は昨日より暑くなる予報です。
まだ日の出前なので冷んやりしています。 おにぎり食べたいと書き残して餓死した人を忘れまい。 米国の話ですが、テレビ番組で見て信じられなかったのが、スーパーの値引きクーポンを集めて全額無料にする主婦。
他人からもクーポンを譲ってもらい、カート山盛りをタダにしてもらっていた。
日本ではまずない。
これ以上はだめですよとか、但し書きがありますからね。
その米国スーパーは制限なし。クーポン全額有効なんだから。
これはクーポンだから他人が譲ってくれるのよ。損する気持ちにならないのだろう。
お金だったらあげないだろうね。
たとえ利息分であっても。 街頭募金を見たら、私もよく入れていた。
赤い羽根募金、あしなが育英会、小さな外国人の子どもがカタコトで「できますか?」と言ってくる時も。
東京で統一協会の詐欺募金を知ってからは、慎重になった。
あざとい。
福岡の繁華街・天神でも犬たちを座らせ募金をしてくれる人を待っている個人を見る。
障害者なのかホームレスなのかわからないような身なりをしていて、寄付するのを躊躇してしまう。
はっきりと生活費のためですと書いてあったら問題になるのだろうか。路上パフォーマンスでお金集めている人をYouTubeで見ることはあるが、この人はただ座っているだけだ。
利息利益だけで食べていけるような身分だったら、一日一万円を入れてあげたいわ。
座ってるだけで月30万円の収入を与えて彼の生活が変わるところを見たい。
私が経営者だったら、何か楽な労働をさせて同じだけの収入を与えたい。 何か楽な労働、これが楽なだけで時間拘束の長いものだったりしたら嫌気がさすのよね。
こういう人は、きれいな収容場所を提供されても入らない。
東京のホームレスたちのドキュメンタリーを見ていたら、そんなケースがたくさんあるようだ。
知らない土地だったり、夫婦なのに男女別々の棟に入居させられたりして、拒否するのだそうだ。
わずかな労働でも一日中働いた人と同じ賃金で契約する神様のお話を、現実のものと考えない人はいる。
働くこと自体が好きな人もいる。低賃金でもお役立ちに価値をおく人が。
こういう人を先に雇って、主人が分け与えたい人に大盤振る舞いし、最低生活ではない平均的な生活を保つようにするのだ。
教師と奉仕者が喜んで働き、聴くだけの人も喜ぶ。
そこに犯罪の陰はない。罪を犯す人は、働いても働かなくても罪を犯すことを考える。
イエズスのたとえ話を荒唐無稽にする人には分からないことだ。彼らはシステムが罪を誘発すると思っている。
しかし心が罪を求めていくのだ。 すぐ終わりが来るからと、ちっとも働かないでいる人たちがいますと苦言を呈す弟子の手紙がある。
落ち着いて仕事をし、自分で働いて得たパンを食べて満足しなさい。
これなんかは喜んで働く奉仕者を募る言葉だろう。
いたずらに怠けるのはよくないからである。
勤勉は善である。
それでもイエズスのたとえ話には真実がある。
昔、エジプトの地でしゃかりき働かされていたイスラエル人がモーセに率いられ重い労働から解放されたが、一部の人はエジプトを懐かしみ帰りたがり、荒野生活には飽き飽きしていた。
最低生活とはこういうものだ。
だから平均的な暮らしができるまで援助したい。
生活保護では余剰分は翌月の支給から削られる。これでは少しずつでも働く気にはなれない。働くと余計な出費が増えるものだから。 日ごとの福音より
イザヤ38:8
「見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる。」太陽は陰の落ちた日時計の中で十度戻った。
詩篇
30・2b神よ、あなたはわたしを救い、
死の力が勝ち誇るのを許されない。
マタイ12:8
人の子は安息日の主なのである。」 私、結論から読むタイプなんだよね…。
まだるっこしいのイヤ。 でも、イエス様の一夫多妻という結論には納得できないんですよね。
まだまだですね。 五百人の弟子たちに同時に現れたんなら、五百人の花嫁たちにも一人一人の花婿に見えないわけではないけれどね。 一人一人の花婿に見えればOKというわけですか。
それで納得できますか? 詩篇91
15
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え
苦難の襲うとき、彼と共にいて助け
彼に名誉を与えよう。 花嫁(もう離脱していたが〜)の危機には報いなくても、危機的豪雨からは逃れさせてくださいました。
神に感謝。 神様は御自分を知られたくてたまらないのよね。
御自身にこそあらゆる権威がお有りになることをご存じだから。 本日のスイーツ
からふるキューブゼリー(セブン)
底までヒンヤリ。 牛乳がなくなりそうなので午前中、外に出ました。あとは洗濯だけです。
もう、午後は何もせず横になっているだけ。 福岡市で記録史上最高気温更新しました。
38.3度ですって。 本日の『manna』マルコ 7:14-23
人の心の汚れ
20
イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
21
内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
22
姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
23
これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
(ピッピ談)
食べ物が人に罪を犯させるのではないと解説に書いてあります。
外見的な儀式のきよさは聖別のため、しかし神様の命令は戒めを守ることでした。
「汚れ」とは罪のことです。神様に反抗すること、自分を高めようとすること、神様から与えられた使命を果たさないこと、だそうです。 このブログをもうやめようと何度も思いました。
何日か前にも、もう開くまいと決意していました。
しかし、これが5ちゃん依存なのでしょう。
私は自分がどうすればいいのかわかりません。 自分が変われば、全てが変わるすよ。
ピッピさんは自分で何でもかんでも罪認定して、自分を窮屈にしてると思われ。 >>204
ゆっくりと明後日のことを考えている人にはわからない焦燥感なのです。 7/18 水曜日
私とキリストの間で何か決定的なものが欠けている。私はいつも悲しい。
悲しい。
こんな不幸な人間を作らないでほしい。
助けてあげてくださいと祈る。
天使を止めないでください。
疑う者ではなく、信じる人にしてあげてください。
7/19 木曜日
レギオンの泡とあの男はつながっているのかもしれない。
これはどんな罰なのか、任期はいつまでか。
いつ発狂してもおかしくない。
神の一言、神のご意志なくしては救われない。私にはこのルールがわからない。
先行きの見えない闇の中にいる。
ボーっとしている。
7/20 金曜日
神が私の使用人ではないことを確かに刻もう。神は私の主である。
私は見捨てられ、虐待されるままにされ、虚しい日々とすぐにでももたらされる恐れに支配されている。
私の心は憂いに囚われている。恐ろしい信仰の暗夜だ。
悲しい。 天使を止めないで、というのは
去年の苦しみの中で助けに降りようとしていた天使をイエズスが左腕を伸ばして止めたのですよ。
向かいの側にいた反キリストは隣にいた偽預言者のGO!サインで降りて来て私を襲ったのよ。 どんなに悲しいことの連続だったか、わからないでしょ。
あの事件をスルーすることができないの私は。 どこに足を置いたらいいのかわからない怖さ。
何にでも手を触れてはいけない気がする。
私の中には確かなものが何もない。
私の外にはキリストが栄光のままいらっしゃる。それを眺めているのみ。
私はまだ赦されていないと感じる。 私がやることは、全部、私の責任。
私の個性が選んでいる。
希望としてなら、主の栄光に参与する者でありたいと思う。
確信のないものはすべて罪だと言われたら、私は植物人間にさえなれない。何もわからなくされてしまったのだから。
私は反キリストを憎み、サタンを憎む。
これが御心に適っていないというなら、自分を変えることはとても難しい。
現段階では私は彼らをとても憎んでいる。 何が神の御前に正しいのか、正しくないのか、もう何にもわからない。
私の判断は私の選択というだけ。
私の判断という偶像なのだから。
自分の感覚を、はっきり祝福していただくまでは、私は苦しむし、悲しい。
その裁きがいつなのかわからないのは、不安。
このことは若い頃の反キリストとの交わりでも起きたことだ。
どちらにも動けない、指一本、心の傾きや反応の一つにも、恐れがつきまとう。
その反応一つで、何がどう変わるのかわからないから。
悪いことが起きる。
たとえば…
窓を開けたい。何度もシミュレーションする。そして開けたとたんに信じられないくらい変なことが起きる。
結果的には最悪のタイミングに窓を開けたことになる。
こういう恐れが現実になった。
私は反キリスト(あるいはサタン)から絶えず霊的な風を受けていた。
自分の考えなのか、外からの考えなのか識別できないほど微量な風を。
私の霊はマネキンのようだった。それほど恐ろしかった。 2000年にイエズスが来てくれなかったら、私は希望まで失っていただろう。
そのイエズスが偽物だったか、私の信じたいイエズスではなかったとしたら、私の混乱はさらに大きくなる。
私の知らないイエズス、私の出会っていないイエズスだとしても、私は彼の栄光を信じる。
たとえ私は地獄行きでも神の国はキリストのものだ。
それだけが唯一の信仰といえる状態。 私は裁かれても、キリストと彼の民は永遠に憩う。
それだけが慰めであり喜びでありホッとするところ。
私はキリストの勝利を頑なに信じている。
私が神に反する者であるかもしれないという恐れは悲しい。
そしてあらかじめ受けた苦しみが私をもっと悲しくさせる。
この体験は幻想とは違うのだ。あったことなのだ。私は神に見捨てられ、発狂の極みまで落とされた。
いつまた襲われるかわからない。
御心ならば救われたい。
御心ならば助けてください。
御心ならばあの苦しみにはもうあわせないでください。
この恐怖の止む確信が私にはない。
決定なさるのは神なのだから。
まだ続いている。少なくとも私は中止命令を聞いていない。
神の目線で自分を見るとただ破滅だけが広がるばかりで恐ろしい。
それだからいつも私は悲しいのだ。 私が聖母マリアを慕う理由。
私の涙をわかってくださる。
きっとわかってくださる。
イエズスは聖なるお方で厳しいお方でもあるけれど、聖母はイエズスより私たちに近い。 >>207
襲ったのよ、というのは性的な暴行レイプのこと お互いのことは労わるのに、神様のことは蔑ろにしている…
こんな内容のことが聖書に書いてありますよね。
世の中の助け合いを見ていると思い出します。 神の国は、見える形では来ない(新共同訳)
ルカ17章
20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
私は、この一節に霊的実現(性)を強く感じる。
「具体」などという浅はかな考えの何と狭い物質的想像よ。 他のことは何も変わらず、その人の内側が一瞬のうちに変えられ、悔い改めることになるでしょう。
この時が神の国の出現です。 朗読 わが理想を聞いて思うんだけど、幸福の科学が出していた霊言みたいな印象。
キリストがご自分の思いを「〜ではなかったでしょうか」なんて、言うかなあ。
全般的に無理難題も喜んで承知しなさいと語っているようなところとか、私はどうにも釈然としない。
申し訳ないけど。
http://rozario0318.com ミカ2章
2彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。
住人から家を、人々から嗣業を強奪する。
詩篇27
11神よ、あなたの道を示し、
いのちをねらう者からわたしを守り、
安らかな小道に
導いてください。
マタイ12章
そのとき、14ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
ヨブ7章
21 なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、/わたしの不義を除かれないのか。わたしはいま土の中に横たわる。あなたがわたしを尋ねられても、/わたしはいないでしょう」。 詩篇92:8
主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。
今日のことば
霊的生活における祈りが、日常生活における天気の話題と同じ程度のものだとしたら、だれをも満足させないし、ましてやだれの心もひきつけることができないのは、もっともです。
しかし親密な人間関係において必ずそうであるように、何であれ重要すぎて…あるいはつまらな すぎて…除外していいということがあり得ないとすれば、私たちの感情、疑問、助けを求める叫び…ひとことで言って私たちの抗議も、祈りの中にちゃんと位置を占めるでしょう。/
ゴードン・マーセル/『祈りの泉 365のことば』 マルコ9章
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
マタイ17章
17 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。
ルカ9章
22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。
26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
41 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。 食欲ないけど最初の食事をしています。
バナナとレモン水
一口食べて、リタイヤ気味。 シャンプー液とトイレットペーパーを購入するため外へ出た。
セブンにも立ち寄り、本日のスイーツあんころもちを買う。
ついでに関ジャニ監修のお弁当も購入した。温めますか?と聞かれ、冷たいお弁当ではなかったことに気づく。
だが食欲を増すためには熱いのもいいだろうと、温めてもらう。 雨雲が来てくれたァ❗
変な雲がちらほらあるのは見たが、まさか雨雲もやって来るとは。 本日の『manna』マタイ 6:5-8
あなたが祈るときは
6
あなたがたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(ピッピ談)
私は祈りが下手で、グループで祈り合うときも言葉がうまく出てこないのです。
でも一人で祈るときは誰をも意識せず神様に甘えることができます。愚痴も、苦しみも、飾り気なく訴えていました。
ただ指摘されてなるほどと思ったのが、私の祈りは感謝が足りないことです。当たり前ではない神の恵みへの感謝を忘れがちになることがしばしばです。
「かぞえよ、主の恵み」という歌がありますが、時々、いや意識しなければならないほど切羽詰まる時に、悲しみの中の木漏れ日みたいにして思い出します。
日々、思い出さなければいけませね。 雨雲は現在、停滞中。
西へゆっくりと向かっているが、なかなか動かない。
降っているところもありそうだ。 >>216
旧約聖書のどこかにこういう内容がなかったっけ。 ホセアとゴメルの関係を私はどうしても好きになれない。
まずホセアの情けないこと。
妻を愛しているというよりも、母や娘や姉妹に対する愛情のように感じる。
私がゴメルなら、多分廃人のようになっている。
これが夫の愛なのだろうか。まるで誠実な身元引き受け人のようだ。
「淫行の女をめとりなさい」
「愛人のもとへ行かせなさい」
「妻を連れ戻しなさい」
ぜんぶ神様の御命令です。
どんだけ惚れていたのかと思わなくもないですが、ホセアの意志ではないのですからね。
私はたぶん屈託無く笑うことはできなくなっているだろう。 私は未だに去年からの苦しい体験に震えていて、涙なく過ごす日はないくらいです。
見捨てられ、渡されて、助けてもらえなかった恐ろしい日々を、遠く感じることはありません。
私の悲惨な体験は何だったのだろうと、また繰り返されることもあるのだろうかと、考えて、また悲しくなります。
わからないことが悲しく、恐ろしいのです。
毎日考え続けています。
何かわかろうとしていますが、わかりません。
そしてもう起きてしまったのです。
あの恐怖の屈辱の日々を消すことはできません。
任期があるならその期間が終わるのをひたすら待ちます。
余剰感を入れての任期でしょうから。 エレミヤ
23・1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。
エフェソ
皆さん、2・13あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
マルコ
6:34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
ヨブ11
1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
2 「言葉が多ければ、答なしにすまされるだろうか。口の達者な人は義とされるだろうか。
3 あなたのむなしい言葉は人を沈黙させるだろうか。 https://www.bible.or.jp/main.html
今日の聖句より
見よ、主は御目を注がれる
主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い
飢えから救い、命を得させてくださる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています