つか、はっきり言えば悟りなんて釈尊のそれ以外客観的に証明不能
事実、釈尊自身がヴィパッサナー瞑想により悟ったということと、悟った後の話以外はしていない。
つまり悟りそのものが直接体験として何なのかを語っていないという史実が故に悟りは永遠に言語ゲームの中では定義されない。悟り(らしき)体験をしたと言うものは私含め腐るほど現れるが永遠に悟ったと論理的に言える者は現れない。

であるなら、少ないソースを辿り求道者であれば、釈尊が辿った瞑想は最低限体得するべきであるし、そこで釈尊が感得したマーヤや梵天(ブラフマン=大我とも言える)を直接体験するようなこと(神秘体験)しなければ語れることは少ないのではないやろうか?

釈迦の悟りのその瞬間の最も前後にこそ神秘体験があったのは此れは史実として残ってるのだから
恐らく神秘体験は非常に危ないし、マーヤやら梵天に会うようなキワドサがあるが「魔境で危ない」「人間性が損なわれるかも」と怖気づくのであればそれは生温いと考える
そもそも悟ることは人間的な行為とは背反するはずだし、天国地獄の善悪論とも全く関係ない
きわどそうであれ何であれ神秘体験の位置づけは全く決まっていない(例えば神秘体験を最も嫌った禅宗が、瞑想を最も行う宗派というのも面白い矛盾
つまり、魔境は危ないとか神秘体験は嘘だという考えは原理でなく、その考えを必要とするほど探求を生身で深くやっていたということを意味してる つまり道具としての考えでしかない)

なので多少のリスクを負おうと大変だろうと覚者を自覚するのであれば、目指すのであれば、既知の言語ゲームを脱構築し続けるなんてあまりにも生温い
結果としてそれを捨てようが拾おうが自らが未体験の修行に足を踏み入れることは圧倒的に必要と考えるが