>>383の続き
釈尊は苦行を否定されたが、それは当時の苦行であり、
各宗派の行、何らかの仏教的な思想から生まれた行とは違うと言える。
これは今でもヒンドゥの行者が行っている行と比較すれば明白だろう。
この行の線引きは、時代や社会で異なるが、釈尊の時代に戻るという選択肢は無い。
現代日本というぬるま湯で生活している我々が、日本で三衣一鉢で乞食すれば冬に凍死してしまうだろう。
当時のインドで釈尊が想定された中道とは、社会生活のみでの中道とは違うと言えるだろう。
廻諍論では「縁起」や「中道」などが「同一の意義と説かれた釈尊に帰依」する旨の序文がある。
従って、縁起や輪廻なども中道と同様となる。
この我々の想定する以上にシビアな中道に沿うものが正しい行であり念であり供養となる訳だが、
一般向けには常識範囲内での供養や思惟等が説かれる。
但し智慧波羅密➡中観の空の法門のみが一般まで開かれている。
では、次回に俺の妄想する中観的な視点から供養について書くとする?

(^。^)全て「俺の妄想する」仏教観だからな?(笑)
如来や法門が無尽であるように、個々の道も違うわけだから、特に独学の連中は眉に唾付けてな。(笑)
あと、バカカルトの連中は、もう何しても手遅れだから、こんなの見てないでボランティアでもしてろ。(笑)