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--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻

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0001宝珠真範
垢版 |
2018/06/26(火) 15:00:52.45ID:tJY6WIHj
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0088栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 12:45:56.70ID:cBB7LyCB
>>87
「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」

簡単に言えば、何も考えない思わないってことでしょ。
アホと何が違いまっか^^
0089おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 12:47:25.15ID:L0PoUEub
 
栄進師匠のスレ

>あらゆる観念、見解を手放して
>縁起している世界を手放して超えているのなら

>縁起している世界の中の
>誰とも争わない

仏そのもの
仏性からの真如縁起

平等性智というような意味なら

合ってるんじゃないでつか?
0090神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/28(木) 12:53:16.02ID:eZLMFcXj
●「止滅」という言葉

「ヨーガ・スートラ」の第一章の2番
YOGAS CITTA VRTTI NIRODHAHA
ヨーガは心の作用を止滅すること
というように訳されています。

「止滅」、というと、
止める、滅する、ですから、
心が止まって、消滅する、無くなる、
そのような意味かと思っていました。

しかし正直、これがどういうことなのか、わかっていませんでした。

考えが止まって、無になるような感じなのかな、と。

今回、お話を聞いてなるほどと思ったのですが、
止滅はサンスクリット語の「二ローダ」から訳されているのですが、
「二ローダ」は、問題を回避する、という意味があります。

ここでは、
望ましくないものから避ける、問題を取り除く、気づいている、より客観的に物事を見る、
ということなのだそうです。

ヴェーダーンタでの説明ならば、
アンタッカラナ・シュッディ
マインド(内側の道具)を綺麗にすることです。

私が止滅という言葉につけていた、勝手な意味の解釈のように、
間違った見方、偏った見方、主観的すぎる見方を取り除いて、
より真実に近い見方になること、それがヨーガの目的です。
https://www.smilebody-seitai.com/?p=14906

で、ヨガとは心の働きを止滅(客観視してコントロールする)する、のあとに続くのが

そのとき、見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。

で、見る者は純粋鑑賞者、サンスクリット語ではプルシャという言い方をします。

私たちが普段使っているココロという機能。
自分の意識の全てだと思っている・・・反応・知性・自我意識。

プルシャとはそれと全く別個にある、ただ見る存在。
事象に巻き込まれることなく事象を眺めている存在。
ココロの反応に巻き込まれることなくココロの反応を眺めている存在。
0091おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 12:53:33.05ID:L0PoUEub
 
何も考えないアホと何が違いまっか^^。という『想い』を手放して

その結果として

仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
無為法
「…である」ものではない

に成るんでつよね?違いまつか?
0092おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 13:05:23.08ID:L0PoUEub
 
>>90
本来の状態に戻り帰って
>本来の状態にとどまる

プルシャに戻り帰って
プルシャにとどまる

如来我(仏性)に戻り帰って
無住処涅槃

というような文脈で良いでつかね?

間違ってたら スマソ m(_ _)m
0093栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 13:27:44.33ID:cBB7LyCB
>>90
おまえら、ほんまプルシャだのアートマンだの仏性だの好きやな。
そんな人智を超えたものを相手にするんなら仏教は宗教やな^^
0094おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 13:48:24.50ID:L0PoUEub
 
栄進師匠も

「…である」ものではない
アートマン
真我

と云ってましたよね?

>仏教は宗教やな^^

たとえば
中観自立とか
中観帰謬などのように
哲学的な?
対機説法のようなものも、あるかもしれないけど

基本的には
仏教も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)でしょ?

違いまっか?
0095栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 13:53:33.95ID:cBB7LyCB
>>94
違います。
仏教はあくまでも悟りを開くための実践です。
悟ったからといって人間や自然の力を超えた超能力が使えるわけではありません。

と師匠が言っとった^^
0096おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 14:04:59.51ID:L0PoUEub
 
神通力(自在力)

四神足
観神足

般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する

(プルシャが → 縁起している世界を観照する)
  _  _  _

神通力(自在力)のようなものも取り扱ってる
対機説法もあるようなので

それゆえに
仏教も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)でしょ?

違いまっか?
0097栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 14:13:08.54ID:cBB7LyCB
>>96
原始仏教では神通力なるものを否定してます。

『〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッタは、他の一人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。

私が聞いたことは空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。
実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、
すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためのものでもなく、
死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。 』
(『テーラガーター』995〜997)
0098おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 14:35:16.14ID:L0PoUEub
 
>>97
神通力(自在力)
四神足
観神足
般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する
(プルシャが → (仮設としての)縁起している世界を観照する)

円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)

そして、その結果として

スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している

((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら)
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
  _  _  _

道元 普勧坐禅儀
((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら)
(仏法というものが円満に全てのものにゆきわたっているのなら)
修行したり、悟り証したりすることもない
  _  _  _

しかし、実際のところは
(仮設としての)有覆無記があるでしょ?
0099栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 14:54:06.20ID:cBB7LyCB
>>98
遊行の修行者であるスシーマは、尊者アーナンダのもとへ行き、「友アーナンダよ、わたしはこの教えと規律とのもとで清らかな行いを実践したいと望んでいます」と言った。

アーナンダはブッダにそのことを伝えたら、ブッダは快くそれを受け入れた。

そのとき、多くの比丘がブッダの面前で「生は尽きました。清らかな行いは完成しました。行われるべきことは行われました。再びこの状態にもどることはない、と知りました」と、開悟したことを明言した。

尊者スシーマは、比丘たちと挨拶を交わし、親愛と敬意に満ちた言葉を述べてから、比丘たちに質問した。

「このように知り、このように見ているあなたたち尊者は神変を体得しましたか。
あなたたちは、一〔身〕であったものが多〔身〕になり、多〔身〕であったものが一〔身〕になりますか。
〔身を〕顕し、〔身を〕隠し、あたかも空中〔を行く〕ように、壁を横切り、堀を横切り、山を横切り、障害なく行きますか。あたかも水中に〔出没する〕ように、海中に出没しますか。
あたかも地上〔を行く〕ように、水上を沈むことなく行きますか。
あたかも翼のある鳥のように、空中を結跏趺坐して進みますか。
あの大きな神力のある、大きな威力のある月と太陽とに、手で触れてなでますか。
梵天界に至るまで身体で行きますか。」

これに対して、比丘たちは、「友よ、そのようなことはありません。」と答える。

つづく^^
0100栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 14:57:13.02ID:cBB7LyCB
>>98
つづき

そして、スシーマは比丘たちに問うた。

「では、このように知り、このように見ているあなたたち尊者は、清浄で、人〔の耳〕を超えている天の耳で、天の人との両方の声を、また遠くと近くとの声を聞きますか。」と。

比丘たちは、答えた。

「友よ、そのようなことはありません。」

さらに、スシーマは比丘たちに、あなたたち尊者は、「さまざまな種類の前世の生存を追憶するのか。」
「天眼を持つのか。」「色〔界〕を超越して、寂静な無色〔界〕の解脱に身体をもって触れたのか。」という質問をする。

しかし、比丘たちは、そのいずれの質問に対しても、

「友よ、そのようなことはありません。」と答える。

さらに、スシーマは、ブッダのもとへ行き、ブッダはスシーマに、先にスシーマが比丘たちに聞いた同じ質問をし、スシーマは、そのすべての問いに対して、

「世尊(ブッダ)よ、そのようなことはありません。」と答える。

尊者スシーマは、ブッダと比丘たちの言葉に納得する。(『相応部経典』第2集・第1篇・第7章・第10節=「原始仏典 相応部経典 第2巻 P.239〜253 春秋社 参照)
0101おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 16:00:36.66ID:L0PoUEub
 
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって

自分の過去世(前世)を観照する
宿命通とか
六神通とか

四神足などの
般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する

円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する

そして、その結果として

最終的には
縁起している世界を手放して超えているのなら

仮設としての
縁起している世界の中の
すべて一切の諸法も手放し超えて逝く
  _  _  _

>>99>>100
その経典リンクがあれば貼り憑けてもらえませんか?
0102宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/28(木) 16:08:44.03ID:eUT7fuDJ
本日は不動尊の御縁日にて
今、菩提寺での大祭(戦没者英霊の慰霊供養&大祭護摩法要)
から帰宅したところです。

>>95>>97>>99-100
栄進さんへ---こんにちは。
以前に栄進さん相手宛てに投稿したいものと思っていたのに
(かなりの長文を途中まで書いてたところでした)、どうも私の方の都合でタイミングを失ってしまい、
そのまま擦れ違い状態でした...。

そりゃ〜確かに神通というのは目的ではありませんが、
しかし、完成された如来であれば必ず六神通の幾つかを発揮することができます。
そもそも輪廻の真理そのものが超常的な天眼で確認しなければ分からないことであって、
ゴータマは、この業に拠る転生の事実についてはバラモンの受け売りなどではなくて、
自らが確認した上でそのことを語ったものだと明言しています。
仏教は自ら体験していく道ですから。

神通はあくまでも目的ではなくて、解脱の過程において付随して自然と身に付いていくものです。
そして、普段はこれを無作為に使用することは厳しく戒められているのです。
スシーマという方は、最初から神通修得が目的で教団サンガに接触してきた人です。
無いものは無いで断固として通せば、相手は止む得ず諦めて去っていく...というのが道理です。
ゴータマはそういう人間には、決して神通の事実については明かされることがないということ。

あなたはアートマンを肯定しているにも関わらず、
まるで何か唯物論者であるかのような発言をすることは矛盾していませんか?
アートマンとはそもそも物質現象界を超越したもののことですよ。
だから最初から、現象界を超えた領域へと達しなければアートマンを見出される筈ずがない。
だから五蘊の中にはアートマンが確認されなくて当たり前です。
それには修行が必要なのです。そして、経験した者にだけそれがそれとして分かるのです。
0103宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/28(木) 16:15:38.58ID:eUT7fuDJ
>>66
【警告】
 あなたは条項4.に抵触しています。
 二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。
0104おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 16:16:27.04ID:L0PoUEub
 
栄進師匠へ

ありました↓これでつね?

ttp://expertizing30.rssing.com/chan-15834669/latest.php
第17章

神変を体得しましたか?
そのようなことはありません

そういったものを否定するのではなく
そういったものに関する「想い」や「見解」から解き放たれた境地が
ブッタの悟りであり、輪廻からの解脱である…
  _  _  _

栄進師匠へ

それでは↓このように訂正させて頂きます

栄進師匠にとっては、どうなのか?わからないけど

おじゃるにとっては

最終的には
縁起している世界を手放して超えているのなら

ということで

失礼いたしました スマソ m(_ _)m
0105おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 16:40:17.55ID:L0PoUEub
 
栄進師匠の場合は
世界観を一変させるほどの
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)とかを
否定するかもしれないけど

基本的には?やはり
>経験した者に分かる
というような対機説法の方が
おじゃるにとっては、わかりやすいでつ

ダルマキールティ(唯識派)
光が輝く
輝くこと(照明)を本性とする
(仮設としての)
自己自身を照らす
智慧と慈悲をもって自己を認識する
智慧と慈悲は光の如く
照明することを本性とし
他に依存することなく
自ら輝き現われる
照明するものと照明されるもの
(照らす側 − 照らされる側)

パオ・セヤドー(上座部)
智慧と慈悲の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます

おじゃるにとっては
『体を包む、智慧と慈悲の光がある』
というような対機説法の方が、わかりやすいでつ
0106神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/28(木) 16:58:51.35ID:a24YbFSd
>>105
ダルマキールティの智慧と慈悲はプルシャと変わらなくなってしまっている
本来智慧や慈悲は生まれ育むもので最初から完成されている常住無為のプルシャとは違う
0107おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 17:29:13.33ID:L0PoUEub
 
>ダルマキールティの智慧と慈悲はプルシャと変わらなくなってしまっている

それゆえに?
(瑜伽行唯識ではなくて)
瑜伽行中観派の
カマラシーラとかに論破される
というよな対機説法であるらしいでつ
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf 参照 ヨロ
  _  _  _

仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって

>智慧や慈悲は生まれ育むもの

仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる

無住処涅槃をもって
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

というような感じでつね?

間違ってたら スマソ m(_ _)m
0108栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 17:37:54.66ID:cBB7LyCB
>>102
いや、私の悪い性癖でして天邪鬼なんです。
おじゃる殿とかが神通力がある!と言えば、ついつい反発したくなるんです。
そもそも仏典が矛盾してまして、神通力やアートマンとか人智を超えた概念を否定もしてれば肯定もしてる。
だから議論になり論争になる。
仏教の究極の目標である悟り解脱とは、あらゆる見解を捨てることでしょう。
神秘的な何か、輪廻とかアートマンなどの想いから解き放たれること。
それは、何も神通力やアートマンや輪廻を否定するという意味ではない。
むしろ仏教はそれらを積極的に受け入れております。
だから仏教は、何でもありなんですよ。

なぜ、仏教はこれほどまでに寛容、悪く言えば支離滅裂で混沌としているのか。
要するに釈迦は誰とも対立し争いたくなかった。
論争することは苦しみですから。

あらゆる見解を捨てるってことは、逆説的に言えば捨てるという見解も捨てる、あらゆる見解を受け入れることですから^^
0109おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 18:04:38.63ID:L0PoUEub
 
>常住無為のプルシャ

無為法と同義のような感じもするけど

無為法の場合は
常住である。というような『想い』でもないので

それゆえに
無為法とプルシャは同義ではない

ということに、なるかもしれないでつね
  _  _  _

>おじゃる殿とかが神通力がある

「ある」と断定しているのではなくて
おじゃるにとっては
上座部 2.0のような
対機説法の方が、わかりやすい
という意味でつ

>捨てるという見解も捨てる

(おじゃるにとっては)
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して

その結果としての無住処涅槃
0110宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/28(木) 18:21:03.10ID:eUT7fuDJ
>>108
すみませんが矛盾しているのは、矛盾を感じるその人がただ勝手に混乱してるだけですから。
ブッダの教説には何一つとて矛盾などはありませんよ。矛盾することを説く人などそもそも完成者である如来などではないのです。
神通については、それ目的に近づいてきた人(スシーマのような)に対してだけ「無い」として成済ましただけです。
あと普段は神通の使用については最小限のものとして戒められています。
基本的には、仏典全体をみれば随所において六神通についての明確な解説があるでしょ!

アートマンについてゴータマの採った態度は「無記」なのであって、
要するに、それは在るとも無いとも示さないということです。
なので、「ゴータマは無いと説いた」というだけで、もうそれですでにゴータマの教えからは完全に逸脱しているのです。
ゴータマの態度は無記であり、そして、語られた言葉とは「それらはアートマンには非ず」(非我)というものでした。
それはつまり、「アートマンでないものをアートマンとして見るな」といってるのです。
ならばそれは、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということにもなる。
ただし、そのアートマンはその境地に到達した者だけにしか知ることも語ることもできないものなのです。
その体験を語る世界がヒンドゥーなのです(仏教は語らない)。

私個人はヒンドゥーも学びますが、
まず、だいたい仏教世界において「アートマンはない」とか
「ヒンドゥーは有我だからダメだ」などという人はヒンドゥーをちゃんと知りません。
ほぼ9割以上で、ただ一方だけの偏った話だけを真に受けている人ばかりですから。
論争が起こっている場合には、あなたは一方だけの発言を聞いて判断しますか?
そのようなやり方は平等で正しい判断の得られる態度だといえますか?

いいでしょうか?
仏典中には同一人物としてのブッダからは一つも矛盾は説かれてなどいないということ。
矛盾というのは読み手の問題にしか過ぎません。無知と誤解と偏見がそのすべて理由です。
0111おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 18:23:59.29ID:L0PoUEub
 
>あらゆる見解を受け入れる

おじゃるにとっては
最終的には
仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法も手放していく
涅槃

という対機説法がわかりやすいでつ
(最終的には、あらゆる見解をも手放していく)

(おじゃるにとっては)
導かれるためには
とりあえず
「涅槃がある」というような
対機説法の方が、わかりやすい。という意味でつ
0112栄進
垢版 |
2018/06/28(木) 18:35:04.92ID:cBB7LyCB
>>104
俺のネタ本バレちゃった^^
>>105
変性意識状態は経験したよ。


おかげさまで精神障害者2級です^^
0113おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 18:38:09.78ID:L0PoUEub
 
栄進師匠の場合は
唯識は苦手かもしれないけど
とりあえず

仮設としての
縁起している世界の中で

無明薫習に依存して

遍計所執性に依存して

我癡・我見・我慢・我愛に依存して

貪・瞋・痴に依存している

>無知と誤解と偏見

という意味でつ

(唯識が、わからないと
遍計所執性の意味も、わからない、かもしれないけど
とりあえず)
0114神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/28(木) 20:11:02.14ID:fc9/42S3
バービーきていたが、


バービースレ混迷の原因は。
ジャンキーだな。

ジャンキーが基地にゃんを呼び込み、栄進を呼び込み、
自動的におじゃるのレスが増え、因果果がムード寄ってきて、

バービーが激怒という流れだと・・・・笑。
0115おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 21:39:26.62ID:L0PoUEub
 
>おじゃるのレスが増え

栄進師匠の相手をしていた
『おじゃるが原因』ということでつね

失礼いたしました スマソ m(_ _)m

今回の
このスレにおいて
栄進師匠には
栄進師匠の立ち位置があり

おじゃるには
おじゃるの立ち位置があるので

日本語で
現代語訳で
初心者向けに
分かりやすい説明をしても
相手が納得しない場合もある
ということがわかりました

たとえば
栄進師匠 − 宿命通否定
おじゃる  − 宿命通肯定

というように
0116閻王
垢版 |
2018/06/28(木) 21:55:31.25ID:1PxHjrk2
>>115
閻王ー神経痛肯定だ!
0117おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/28(木) 22:07:44.80ID:L0PoUEub
 
おじゃるは
中観自立のような?立ち位置だけど

それでも、とりあえず
難しくて意味が、わからないけど
ダルマキールティ(唯識派)とか
カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかも
読んで勉強してる
途中なので
勝義一辺倒の勝義房の方々とかは
うっとうしいので
絡んでこないで下さいね

今は勉強してる途中だけど
中観帰謬
瑜伽行中観とかを
体感することができたのなら
絡んできても良いかもしれないけど
0119栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 06:49:19.67ID:RcTUzGgR
>>110
スシーマという神通力目的の人間を拒否するために「神通力は無い」と説いたんですか。

それは貴方の勝手な推測、願望ではないでしょうか。
スシーマを拒否するために釈迦が「神通力は無い」と嘘をついたという明確な根拠の提示をお願いします。

・尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
・基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
・もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
0120栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 07:10:39.81ID:RcTUzGgR
>>110
アートマンについてですが、恐縮ですが貴方のレスを師匠に読んでもらい意見を貰いました。
以下お返事。

それはまだアートマンを知らない者なのじゃ。 (注、宝珠さんのことだと思われます)
 アートマンこそ非ずとしてのみ現される法なのじゃ。
 お釈迦様はそれを知ってアートマンの法を正しく説いたのじゃ。

以上であります。
何か反論、ご意見があればよろしくお願いします。た
0121パーピマン
垢版 |
2018/06/29(金) 07:24:28.75ID:GC1UQuoD
仏典の中には、いわゆる「神通力」「超常現象」などの『超常的、神秘的事例』
の記述が数多く見られる。 例えば、
「六神通」「仏の三十二相」「誕生譚」 もそうだし、死亡時の大地震もそう。
また、バラモン三兄弟の絡みで、釈迦が
聖火堂で龍を調伏した話、それから、舎衛城の神変、ジャータカもたいがいだしw
法華経に至っては、それこそ神秘的事例でないものを探す方が難しいww

では、本当に2500年前の釈迦という人物は上記のような現象を起こしたのでしょうか?
仏教という一宗教の範疇を飛び越して、普遍的現象としてその是非を問うならば、答えは
NO と言わざるを得ません。(勿論、「信仰」はまた別の話です)

人間は、空を自由に飛び回れません。 火も吹けません。生まれてすぐ話せません。
舌が伸びたりもしないし、しゃべるウサギもいません。
・・・・・そのような現象は観測確認されていませんし、また生物学上、人間にそのような
機能が備わっていないことも判明しています。  もし、そのようなことを認めるのであれば
釈迦を 空想上のスーパーマンとして 扱わなければいけなくなります。
(事実、大乗の世界では、釈迦をそのような存在として扱っている宗派もありますが)
信仰の世界の枠を超えて、それを事実認識するのであれば、それはもう、いわゆる「オカルト」
の話です。
0122パーピマン
垢版 |
2018/06/29(金) 07:26:02.36ID:GC1UQuoD
問題はここからですw
⇒『では、なぜそのような話が仏典に記述されているのか?』
昔の人が、上記のような現象を実際に目撃した・・・・なんてのは考えられません。
しかし、記述はある。 それは何故か?・・・ということです。

最もよく言われるのは、いわゆる「神格化」というものですね。
後世の仏弟子たちが自己の宗教の開祖に対して期待する神秘性・・・・っていうやつですw
誰でも自分の信仰する宗教の開祖に対しては、それが偉大であるほど望ましいわけであって、
「普通の人間」であっては欲しくないわけです。そういう心情の反映でしょう。
他宗教とのバランス的な問題もあるでしょう。
他宗教の信仰の対象がとんでもなく神秘的で偉大な存在であり、仏教の開祖が、「普通の人間」
ならば、一般民衆に帰依を説く場合でも、カッコがつかないw・・・と。
まあ、中村氏はこういう方向性でみてますね。
0123神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 07:26:58.84ID:GC1UQuoD
また、「在家の価値体系の許容」  という視点もあります。
釈迦は在家の価値体系を決して排斥したりはしませんでした。 勿論、それは出家の価値体系とは
異なるものですが(そのあたりは、ダニヤの章に明らか)、 それはそれとして尊重していたわけです。
ですから、当時、民間で信仰されていた土俗信仰(呪術、占い等)も、許容範囲内であると判断すれば
(パリッタ等)排斥せずに、寧ろ方便として言及することもあったと考えられます。
そのような姿勢が、釈迦の死後、時代を経るにつれて、民間文化との融合が促進され、仏教に混入されて
いった。 密教なども元はインドの土俗信仰の混入であると考えられていますね。いわゆる体系的に整備
されていない雑密と呼ばれるものですが。
奈良氏は、このような側面を重視しているみたいです。

また、「人間というものは何かを信仰するとき、必ず拝む対象を欲するものだ。」という意見があります。(渡邊氏)
まことに尤もな意見であり、仏教ではそれが仏像製作へと繋がり、舎利信仰もその一種でしょう。
釈迦は大変賢い人だったので、世俗においてはそのようなものの必要性も理解したうえで仏塔の製作を指示
したのだと思います。
そのような信仰の対象となる具象化物が、次第に神秘性を帯び、それ自体が何やら有り難いもので、
超常現象の卸元となっていく。
日本全国にある「〜地蔵」「〜観音」などがその好例でしょう。
(例えば、刺抜き地蔵、洗い観音など)

仏典における超常事例の記述は、以上のようなことが起因となり、さらには仏典編集者の志向、信仰、信念、願望
また当時の時代背景なども影響し、  実に様々な要因が重なり合って現在のような形が形成されていったものと
思われます。
0124栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 08:14:47.08ID:RcTUzGgR
>>110
あと私のアートマン観ですが^^

「それらはアートマンには非ず」
、、、、これは違うと思います。
言い換えれば
「それらは非ずだからアートマン」です。

「五蘊はアートマンに非ず」ではないのです。
「五蘊は非ずだからアートマン」です。

つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^
0125ポッタン師
垢版 |
2018/06/29(金) 08:55:28.76ID:DDiNrn+c
123.それは心理学である。それでは宗教とならない。
0126神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 09:00:54.83ID:8B0R8GB9
>>124
非らず、非らず、とは「認識できるものはアートマンには非らず」という意味。
アートマンは常に見る側(主体)だから見られる側(客体)になることはない。
アートマンを見たとか捉えたと思ったらアートマンが見られる側、つまり客体になってしまうのでその瞬間それはアートマンではないことが証明される。
だからアートマンは捉えることができない。
捉えられないから。
壊れることがない。
壊されないからこだわりがない。
こだわらないから、つながれず、動揺せず、損なわれない。

五蘊は捉えられるものであり、無常で壊れるものであるのでアートマンではない。
五蘊のような認識の客体になるものはアートマンに非らず、そういうこと。
0127神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 09:04:56.04ID:8B0R8GB9
スーシマ経は有部の雑阿含経にも有部から別れたとされる分別説部の相応部にも載っている経典だが、
この経典の成立はやや後期に属すると思われる(増谷文雄)とのこと。
0128おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 11:53:03.66ID:b/+McRPl
 
>>124 栄進師匠へ

仮設としての
縁起している世界の中の
無明薫習に依存して
貪・瞋・痴に依存している
>一切の存在は非ずでありアートマンである

リンクの貼り憑け願います
論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします ヨロ m(_ _)m

ウィキペディアの
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない

これを見ると
仮設としての世界ではない
縁起している世界ではない
有為法している世界ではない
無明薫習している世界ではない

というような文脈のような気がしますが

栄進師匠としては
無明薫習に依存している
>一切の存在は非ずでありアートマンである
というような執着でつか?
0129おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 12:21:48.88ID:b/+McRPl
 
>>121 パーピマン殿へ
大変、失礼いたしました スマソ m(_ _)m

ということで、とりあえず
>勿論、「信仰」はまた別の話です

おじゃるは
どこの宗教団体にも所属してないけど
それでも
「そのようなこともあるかもしれない」と妄想(信仰?)しちょりまつ

たとえば
波動関数(wave function)
「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので

それゆえに
我々が住む日常世界の他に全く異なる
並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ

ttp://www.nikkei-science.com/page/magazine/0311/hologram.html
ホログラフィック宇宙

3次元のように見える私たちの宇宙は
2次元境界面について定義された

今までの古典力学とは
別の物理法則によって記述できる
(たぶん量子力学とか?)
  _  _  _

というのと同じように
0130おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 13:16:19.57ID:b/+McRPl
 
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

↓というような感じ?

ttp://tocana.jp/2017/07/post_13673_entry.html
宇宙に意識はあるのか? 2017.07.03

科学者が議論
「宇宙には原意識クラウドが存在し、人間も接続されてる」
  _  _  _

元始からの
すべての事象、想念、感情が
記録されているという世界記憶の
アカシックレコード(Akashic Records)みたいな感じ?
0131神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 13:17:55.99ID:+aiXhu7V
伽藍は腹毛のことだと勘違いされているようだが、元々そんなことはなく、英語の造語
おそらく同性愛者宿泊施設を運営するキリスト系団体の陰謀
0132神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 13:35:00.95ID:qN/d9Q+Q
誰でもできる在宅ワーク儲かる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
検索してみよう『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』

KI1
0133おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 14:39:04.41ID:b/+McRPl
 
>>124 栄進師匠へ

創めに神が天と地を造った
神は云った。「光あれ」。すると光が出来た
という旧約聖書とかに依って立っている

カトリック司祭の
ジョルジュ=アンリ・ルメートルとかの

膨張宇宙論
ビッグバン理論という仮説も

人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする

宗教の信仰のようなものに依って立っている
(科学信仰のようなもの?に依って立っている)

栄進師匠は
なぜ 『 超えたもの 』 に反発するのか?

その理由を ヨロ m(_ _)m
0134栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 14:42:48.43ID:RcTUzGgR
>>126
ググッてたらこんな解説のサイトがあったので丸写し^^

「インド哲学七つの難問」宮元啓一

【第3難問】本当の「自己」とは何か?

インド哲学で自己の議論を樹立したのはヤージュニャヴァルキヤだった。
紀元前700年前後の哲人で、ウッダーラカ・アルーニの弟子としてウパニシャッドを代表するともくされている。
ヤージュニャヴァルキヤは、世界がすべてアートマン(真我)にほかならず、そのアートマンが認識主体になりうる唯一のものだとみなしつつ、しかし認識対象にはなりえないとみなした。
では、アートマンは自己反映できないのかといえば、そうなのだ。
アートマンは把握することも表現することもできない。
それならアートマンを確認するには、「Aはアートマンではない、Bはアートマンではない、Nはアートマンではない」というふうに。
どうするかといえば、「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)というふうにしか言いようがない。
ヤージュニャヴァルキヤは、そう説いた。
 これははっきりいえば「自己は知りえない」ということである。
生きるものが生きる器の中にあることを器世間というが、アートマンはその器世間に内属してはいるだろうが、その全体を器世間という環境たらしめているものそのものであるからだ。
アートマンによる自己認識は不可能だという説である。
 仏教では心身にもたらされる作用のことを、まとめて五蘊(ごうん)という。
「蘊」とは集まりのこと、センシング・クラスターのことだ。
色蘊(色や形の集まり)、受蘊(感知する作用の集まり)、想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起するものの集まり)、識蘊(判断作用の集まり)の五つをいう。
 ブッダは五蘊いずれもが常住の自己ではないと説き、それゆえこうした頼りにならないものを錯誤して心身活動の根拠にしてはいけないと戒めた。
これを「五蘊非我説」という。五蘊には我(自己)がない、非我であるという説だ。
宮元は、ここにはヤージュニャヴァルキヤの哲学を正統に継承できているものがあると見る。

https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀
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0135栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 15:02:50.42ID:RcTUzGgR
>>128
>>134を見よ^^

>>133
アートマンや創造主神などは、人間の認識を超えたものです。
反発も否定もしてません。
それらは我々に認識できない、諦めましょう。
そんなもんより目の前の苦しみを何とかするのが悟りなのかも^^
0136栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 15:25:54.82ID:RcTUzGgR
>>123
パーピマンへ

これも某サイトの丸写しですが、ご一読を^^

【第1難問】ことばには世界を創る力があるのか?
 この問いは、言葉は真実を表明できるのかという問いである。
インド哲学は言葉が世界を創ると確信する。それが大前提だ。
だから言葉は真実(サッティヤ)をあらわせる。そう、考えた。
言葉には世界を創る力があるばかりか、根本的な真実(サッティヤ)をつくる力があるとみなされたのだ。
サッティヤはそれこそ「必ずその通りにものごとを実現する力をもつもの」という意味だ。
言霊っぽい。
 ふつうは、言葉なんてしごく感覚的なことで、心や真実をあらわしているとは思わない。
なぜなら言葉で嘘もつけるし、まちがったことも言えるからだ。
人や時代や土地柄によって言葉づかいもちがうし、いつも言葉が同じ意味で使われているとも思えない。
これがふつうの常識だ。
 しかし、インド哲学はそう見ない。
もともとヴェーダのマントラから世界が生まれ、言葉はブラフマン(宇宙原理)でもあったのだから、言語力こそがあらゆる力の源泉なのである。
印哲では、なんだって言語力で説明がついたのだ。
 それゆえ「その通りにものごとを実現する」には、たとえばサッティヤはカーマ(願望)と連合するほうに動いて願いを叶える気分をつくり、
ヴァチャナ(語句)と連合すればその気分が詩歌に至り、
そのヴァチャナをヴラタ(誓約・約束)と連動させれば、人生での約束事を保証していくというふうになるとみなされた。
いっときぼくが夢中になった5世紀の言語哲人バルトリハリは、言葉(語)そのものがブラフマンだとみなしたほどだ。
 というわけで、第1難問については、「言葉には世界を創る力があった」のである。

https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀
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0137神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 15:28:32.52ID:55+rNLUO
この(ダンマパダの)三つの詩句の初めの部分

「一切行(形成されたもの、有為法)無常」

「一切行(形成されたもの、有為法」苦」

「一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」

はいわゆる「法決定」といわれるものです。

テーラワーダの世界観においては

この三つが事物に備わる自性(それそのものが持っている性質)であり、

これがブッダの発見した自然の「真理」ということになります。
http://lllool.hatenablog.com/entry/2016/10/12/224622
0138神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 15:32:46.45ID:55+rNLUO
ヨガのブラフマンやアートマンはニルバーナか?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/04/050000

だから、おもしろいことに、ウパニシャッド哲学に書いてありますよ。
ウパニシャッド哲学はお釈迦様の時期に出始めました。かなりお釈迦様の影響もあったみたいね。
三つくらい、お釈迦様の時代に生まれました。当時、本はなかったから、テキストとして残ってはいません。

お釈迦様が、「これが自我ですか? いえ、これは自我にならない」「これが自我? 自我にならない」と調べて、調べて、これ以上何もない。
ということは、自我がないということでしょう。
そう結論付けたところで、ウパニシャッドでは、同じく「これは自我じゃない。これも自我じゃない。別なものです」

「別なものです」と、どうやって決める? 
そこが間違いなんです。ほんの微妙なところ。
だって、自我がある、と言う前提だから。
「これは自我ではありません。自我ではないんだけど、自我は別なところになる」「手は? 手は自我じゃないんだけど、自我は別のところにある」

そういうことだから、その方法では、初めから終わりまで間違えてしまいます。

だから、(ニルバーナとブラフマン・アートマンは)全く似ていないんですよ。
修行だったら、人間が考えるところだから似ているところはありますよ。



仏教になってくると、バイアスゼロの世界です。
自分が、ハチャメチャバイアスの世界で生きている自分が、バイアスゼロで真理を見る。
ありのままに見るとはそういうことなんです。
ヒンドゥー教はありのままに見ていないでしょう。あってほしいままにみているでしょう。アートマンとブラフマンで。
0139栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 15:50:18.96ID:RcTUzGgR
>>123
パーピマンへ、何が言いたいのかと申しますとですね。

仏典に出てくる誇大妄想的エピソードは、インド人には「真実」なんです^^
言葉が世界を作るんですから、我々から嘘に見えても彼らには現実の世界なんです。
またメタな話になりますが、そもそも現実とは何かですよね。

仏教では、一切が空なんでしょ?
現実も空、妄想も空。
つまり現実は妄想で、妄想は現実です。

なのに、パーピマンは鬼の首を取ったかのように、仏典の妄想部分を挙げつらっておかしいと指摘しますが。
おかしいのは、パーピマンさまあなたの方です^^

仏教を本当に理解されてるのなら、そのような指摘こそがおかしいとなるんですが。
私の方がおかしいのでしょうか^^
0140パーピマン
垢版 |
2018/06/29(金) 15:58:46.99ID:GC1UQuoD
>私の方がおかしいのでしょうか^^

wwwwwwwwww

そうですw
0141栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 16:15:40.71ID:RcTUzGgR
>>140
うるせー^^
そうだよ、その通りだよ。
クスリ飲んで寝る。
0142おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 16:22:58.09ID:b/+McRPl
 
>>141 栄進師匠へ

ヒンドゥー(バラモン)とか?
サーンキヤとかの場合は

プルシャからの → プラクリティなので

ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
インド哲学 七つの難問 宮元啓一

ヤージュニャヴァルキヤは
世界がすべてアートマン(真我)にほかならず
そのアートマンが認識主体になりうる
唯一のものだとみなしつつ
しかし認識対象にはなりえないとみなした
  _  _  _

「…である」と定義することはできないという
「…である」ものではない
真我のようなものからの → 縁起している世界すべて一切の諸々
という意味で

>超えたものです
>反発も否定もしてません
>苦しみを何とかするのが悟り

苦集滅するための方法は? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7)
0143栄進
垢版 |
2018/06/29(金) 16:40:29.42ID:RcTUzGgR
>>142
>苦集滅するための方法は?

常識的に答えれば八正道とかじゃないの。
ウィキに書いてあった^^
0144ポッタン師
垢版 |
2018/06/29(金) 16:46:43.74ID:wV5coBLk
143.八正道、か。
それは心理学である。
それは宗教ではない。
0145おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 16:49:02.16ID:b/+McRPl
 
>>138
ID:55+rNLUO師匠は
大乗否定かもしれないけど

真如縁起そして
頼耶縁起というような文脈においては

プルシャからの → プラクリティというサーンキヤと

大円鏡智からの → 阿頼耶識という唯識は

対機説法として似たような文脈があります

それゆえに
ダルマキールティ(唯識派)とかは
カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかに論破される
というような対機説法になっているらしいでつ

おじゃるの立ち位置は
仮設としての
有相唯識も肯定でつ
一応、念の為
0146神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 17:08:44.89ID:kd12FTso
せめて、臨床心理学とか認知行動療法とかにでもしておけば、一目置けたものを・・・w
0147おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 18:02:57.96ID:b/+McRPl
 
>>112 >精神障害者2級

栄進師匠は

心理療法の
認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT)

とかはしてないんでつか?
  _  _  _

おじゃるは

心理療法の
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ

これを実践しちょりまつ

ヴィパッサナみたいな感じ?
0148閻王
垢版 |
2018/06/29(金) 19:31:08.20ID:6WDxjkLj
>>140

確かにヘピーマンはおかしいぞ!
ヘピーマンの文句はパーピーマン
に言え!
0149宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/29(金) 20:03:41.82ID:Q/5hFX3A
>>120
あなたの師匠が誰かは分かりませんが、
もしも鬼和尚のことであれば、一言いってだけおきます。
たまにはあのスレを覗きますが(本人のサイトも読んだことはあります)、
私からはあの方の発言はすべて理解してるつもりです。
そして、とても高く評価しており(2ch投稿者で過去トップレベル)、これまで異論という異論も特にありません。
ただし、鬼和尚の方からはこの私の(いう)ことはよく分からないのではありませんか?
ただ切り取った一部だけでは分からないと思いますが。

そして、もちろんこの私は(非体験者なので)アートマンを知りませんが、
アートマンについての記述上の理解ならばあるつもりです。
私は仏教以外では、神智学、ラマナ・マハルシ、ヨガナンダ、ラーマ・クリシュナの教えを学んできています。
所持して主に読む聖典は、『バガヴァッド・ギーター』『ウパデーシャ サーハスリー』『ヨーガスートラ』などです。
0150宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/29(金) 20:04:31.59ID:Q/5hFX3A
>>119
あのですね...
ただ「無い」と書いてあったからない?って...。
だから、そういう読み方は国語の破壊でしょうと?
あなた自身が師匠ならば、ただ超能力が欲しいといった不純な目的の人間などに弟子としての深遠な法燈を伝授しますか?
弟子たちにも神通の使用は厳しく制限して戒めているというのにですよ...
再度、スシーマという人間の教団接近の目的を仏典上から確認してみましたか?

無いと書いてあったその一つの経文にだけその意味すらも解さずに固執して、
それ以外の百万倍もの経典中に説かれている神通についての明快な解説の事実を無視する態度が道理に適ったものですか?

あとで、私の方も仏典から抽出したいと思います。
少し時間貰います。
0151宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/29(金) 20:05:34.70ID:Q/5hFX3A
>>124
>つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^

“非ずだからアートマン。つまり、すべてがアートマンということ。”
それは結局、ヒンドゥー的なアドヴァイタ論でしょう。
つまり完成者は、唯アートマンであったという自覚に目覚めてすべてのマーヤが消散すると説くのです。
私個人はヒンドゥーも仏教も最終的には同一の境地(ゴール)に到達すると見ているので、
私にはその意味は理解できますが、けれども仏教ではそういう説き方はしないということをいってる。
そもそもゴータマの教説というのは二元論的な世俗諦なのであって、なのでそういった勝義諦は説かない。
では、あなたのいってるような教説はいったい仏典の何処にあるというのですか?

仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。

仏教には、
「アートマンが在る」という言い方はないのです。
あなたの、「アートマンは非ずとしてしか表現できない」まではイイです。
しかし、これを以てしてゴータマの非ずの教えは「アートマンを説いたことになる」は不可。
言えることというのはこれだけなのです。つまり、
決して、アートマンを否定したことにはならない。アートマンを否定などはしていない、と。
ただ、五蘊の中にはアートマンを見出すことはできないということだけです。
ならば、それは要するに、五蘊外にアートマンが見出されればいいことになる...。
0152宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/29(金) 20:07:42.47ID:Q/5hFX3A
ゴータマの説いたものは、
あくまでも非我(それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと語るなかれ)であって、
その採った態度は無記といものでした。
無記とは。そして、無記の態度を採ったその理由とは...。

 『ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはないのですか
(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、常住
論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反
問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じるのに順じるだ
ろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA me nUna pubbe
attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。』
(サンユッタ・ニカーヤ.44 第10 経)

無いものはどうしょうもないので、本当に無いのならば、ただ「無い」といえば済むことです。
しかし、そうしなかったのは唯物論と勘違いする者がでるから「無い」などといわないということ。
そして、「在る」と言わなかったのは、誤解を起こしているバラモンたちと混同されたくなかったからです。
0153宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/29(金) 20:13:26.17ID:Q/5hFX3A
>>148
【警告】
 あなたは条項4.に抵触しています。
 二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。
0154神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 20:22:09.87ID:kd12FTso
>>152

だからw


 「ある」と言っていないものを「ある」と改竄してしまうこと


への罪を、君は感じないのかい?w
0155神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 20:29:01.33ID:kd12FTso
追記するなら、

(弟子たちの伝聞・聞き書きからしか判断するしかないわけだが)、
その文脈の中で、 ≪「ある」という読み解き≫ と ≪「ない」という読み解き≫ と、
どちらの文脈に、「正当」性を見出せるか? ということに尽きる。
その担保が、全て仏教外(=外道)に依らねばならないなら、
それはもう仏教ではない。
『達磨以降の禅宗を、正統仏教とする方が遥かにマシ』かもなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


そして、弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。
0156閻王
垢版 |
2018/06/29(金) 21:10:30.68ID:FHsbVZ9J
>>153

【忠告】圧倒的な仏格違いを知れ!

南無南無 (-∧-)合掌・・・
0157神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 21:22:52.35ID:eBgQIuzv
>>151
>仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
>尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
>仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
>一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
>アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
>ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。

一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
どこにも我(アートマン)は存在しません
0158神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/29(金) 22:57:59.06ID:kd12FTso
いやぁ、スターウォーズ1stはよく出来とるねぇ・・
(勿論、あの時代ならではの(技術不足の)相乗効果を差し引いたとしても)
0160おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/29(金) 23:24:16.60ID:b/+McRPl
 
>ゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなる

[ キリスト 実在 ] で検索すると

キリストは実在したのか?というような文脈が出て来ますね
  _  _  _

そして [ 大乗非仏 ] で検索すると

大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものであることが明らかとなっている
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない

(意図的に?)編纂されたものなら

釈迦も架空の作り話だったのか?となる場合もあるかも?
  _  _  _

聖徳太子虚構説
従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである

聖徳太子も架空の作り話だったのか?
0161
垢版 |
2018/06/30(土) 04:23:42.63ID:w5Aa9bdl
ここのスレを読んでいると、
大まかにすると、魂が有るのか無いのかになるんじゃないの?
釈迦は魂が有ると説いたのか、無いと説いたのか。
真我を魂と定義してみれば、わかりやすいかもね。
感想ね、間違っていたらごめんなさい。
0162宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 04:37:07.06ID:iTajUNA7
>>154
誰も(私は)、
ブッダは「アートマンが在ると説いた」などとはいってないでしょ。
仏典から確認できる言葉とは、「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」です。

『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5)
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
 (Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)

私が主張しているのは、
ブッダは「無い」などとは説いてないのに勝手に無いということにして、
ヒンドゥーなどを有我論として見下すのを止めなさいということです。
ブッダの態度は無記ですから。
そして、アートマンについては否定していないから、実際上は在っても問題にはならないといってるだけ。
勝手に「無い」と説いたなどと改竄しているのはあなた方です。
それを仏典の記述から見出すことはできませんから。
勝手に解釈として(誤解して)「無い」と弟子が言い出しただけですから。

>>155
>弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
>そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。

別に全部を疑うわけではないし、その必要はないです。
仏典上、アートマンが無いという教えではないのに勝手にそう誤読したのは部派からであるといってる。
そのことを近代仏教学は指摘してるのです。
仏教学は仏典を研究してる。経典の記述を読むのですよ。

しかし、現存するテーラワーダ(長老たち)というのは部派の生き残りであって、
彼らは仏典の記述を無視して口伝を信奉してる。そう、部派からの間違った口伝を二千年間も忠実に...。
しかし、それは仏典の記述とは矛盾しているのであり、仏典に反するならばそれは仏教ではないでしょう、と。
0163宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 04:39:37.45ID:iTajUNA7
>>157
>一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
>どこにも我(アートマン)は存在しません

いやだから、
その一切の中へ勝手に無為法をも含めたのは部派のアビダンマであるといってるのです。
これは原始仏典上では確認されないことであって、つまり、まったくの間違いなのです。

 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
 部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異
なったものになった。(p151)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0164宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 04:49:56.48ID:iTajUNA7
>>161
いえ.違います。

仏教上、輪廻主体としての「魂」については認められています。
これをブッダは「識」として説かれてました。ただし、それはアートマンではないということ。
では、アートマンは無いと説いたのかということ、そうではなくて、決して無いなどとはいってないのです。
しかし、このスレ上でこの二つの違いすらも分からない無知な者たちが、
ただ勝手に魂もアートマンもごちゃ混ぜに味噌も糞も一緒にして、それらすべてが無いと説くのが仏教なんだと主張しているのです。
この主張には伝統テーラワーダの一部と、唯物主義者の二グループが参加しています。
私は仏典の記述から、この二グループの主張は間違いだとしています。
0165宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 04:57:50.22ID:iTajUNA7
>>156
ん? 誰と誰の格が違うと?
どうせ議論にまともについてはこれないのでしょう。
だから、「消えなさい!」といってる。
ここは参加人数を求めてない。
あなたは、二度と来なくていいですから(これが最終警告です)。
0166栄進
垢版 |
2018/06/30(土) 05:43:35.33ID:aIAhxINF
>>151
師匠に伺ったら、私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。
撤回いたします。
しかし宝珠さんの見解も正しくないそうです。

「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。 」

だそうです。
つづく^^
0167栄進
垢版 |
2018/06/30(土) 05:49:36.94ID:aIAhxINF
>>152
この宝珠さんのレスにどう返事すればよいのか分からなかったので師匠の智慧をお借りしました。
以下師匠からの伝言です。

『それは無記ではないのじゃ。
 非ずと言う言葉によってしか説けないアートマンを正しく現したのじゃ。
 アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ずなのじゃ。
 そもそも在るとか無いとか説くものではないのじゃ。
 そのように説くことも非ずなのじゃ。
 何かを説けばそれは非ずではないからのう。
 そうであるから無言によって真のアートマンを説いたのじゃ。 』

以上であります。
なにか異論反論ありますでしょうか。
自分で相撲が取れなくて申し訳ない^^
0168宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 06:54:26.20ID:iTajUNA7
>>166
>私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。
>撤回いたします。

了解しました。
尚、誤解を避けるべくいっておきますが、アドヴァイタが非真理だとはこの私はいってはいませんから。
こちらはまた異なる態度で以て示した真理なのです。
ただし、それを仏教とはいわないということ(ゴータマの教説ではない)。

>「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。」だそうです。

はい、この私もそう見ていますよ。
だから、ここでは唯物論者たちとテーラワーダ信者がこの私に執拗に噛みついてくるのです。
しかし、この両者というのは、本来は仏教議論の机上にすら上がることが赦されない唯物論者たちと、
そして、経典の記述を無視してただ伝統(部派のアビダンマと口伝)を盲信してる人たちですから。
勝手に「アートマンは無い」というだけで、それは仏教に反して非我と無記には抵触する。
(尚、私は「アートマンを在る」と説いたなどとはいってない)
0169宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 06:56:26.92ID:iTajUNA7
>>167
>師匠の智慧をお借りしました。

はい、構いませんよ(正直でとても良いです)。

ゴータマが説いたもので唯一、仏典から確認できる言葉とは、
「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」>>162です。
後の大乗の説く仏性、及び如来蔵の元となった
『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5) と、
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
 (Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)です。

私個人は、
百歩譲って大枠の大枠としては鬼和尚の見解に同意しますけれど、しかし、
“非ずによってアートマンを説いている”という言い方は仏典上では述べることはできないでしょう。
何故なら、バラモン・ヒンドゥーの説くアートマンを明確に在るものとして述べた記述は一つもないからです。
仏典から確認できる言葉とは、「私は在るとも無いともいわない」ということと、
「アートマンではないものをアートマンと見なすかなれ」です。
そして唯一、アートマン性質に合致する別言いとして、“本来の清浄な自己”について述べたことと、“真実の自己を探究せよ”というものです。
ただ言えることというのは、非我(非ずの論法)の教えというのはアートマンが無いということにはならないということと、
また、『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。
0171パーピマン
垢版 |
2018/06/30(土) 10:20:43.17ID:8Hs1bIHJ
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、

われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)


「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)

「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、⇒『仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。 』

(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁)
0172パーピマン
垢版 |
2018/06/30(土) 10:21:39.55ID:8Hs1bIHJ
無我相経・・・・・

「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)
病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』
と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に
かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ
が出来ません。
受は無我です。・・・・・・以下繰り返し
相は無我です。・・・・・・
もろもろの行は無我です。・・・・
識は無我です。・・・・」

と、このように五蘊は無我である と説きます。
五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した
ものでしかない。

「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。
このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ
と説いています。 片山一良 訳 解説 


・・・・・・・はい、わかりますね?
どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。
その存在を示唆する記述さえも全くありません。

勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。
あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。
賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に
一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」
と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw

「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると
思っていたに違いない」 wwwwwwwwww

アホの発想です。    「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」  とはなりませんww
賢い皆さんは、騙されないようにねww
0173ポッタン師
垢版 |
2018/06/30(土) 10:48:25.07ID:d30SQsdW
172.相互に依存したもの、か。
その相互依存は、実体が相互依存している、のである。
0174パーピマン
垢版 |
2018/06/30(土) 11:06:06.35ID:8Hs1bIHJ
過去の書き込みから・・・・・

いわゆる、「非我論」といわれるものがありまして・・・。主に中村元などが主張したものです。
つまり、⇒「仏教は真我(アートマン)がない・・・とは言っていない。
「・・・・は、アートマンではない。」と言っているだけである。即ち、無我ではなくて
「非我」なのである。」  というもの。

まあ、中村氏自身が本来、印哲出身なんで、どうしてもヒンドゥー寄りに引っ張られるんだろうw

確かに、仏典の中に、「アートマンなどない」と断言している記述はない。
しかし、仏教でアートマンの存在を肯定するはずはないのw

仏教の目的は「苦の滅」・・・・これに尽きるわけ。その状態を涅槃、解脱、悟り などと呼称するの。

では、どうやって「苦を滅するか?」
それは、その「苦を感じる主体」そのものを否定することから成り立つの。
これが即ち、無我 なんだよ。

⇒「貴方は今、苦を感じている。苦しんでいる。だが、本当にその苦を感じている 貴方 というものが
あるのだろうか?  ・・・・は、貴方ではない。〜〜も貴方ではない。・・・・
ほら、貴方(我)など、どこにもないでしょう? それは、錯覚なんですよ。苦を感じている主体そのものが
ないんだから、苦などあるはずもありません。」

というシステムさw  即ち、苦そのものを消去するのではなくて、それを感じる主体の消去ということ。
対処療法ではなく、根源的治療ってやつ。

だから、「苦を感じる主体の存在(我)」を認めることは、仏教の根幹が崩壊することになるのw
0175パーピマン
垢版 |
2018/06/30(土) 11:07:04.20ID:8Hs1bIHJ
では、なぜ釈迦は、はっきりと「我などない」と言い切らなかったのか? 理由は二つあるの。
@当時のインドは、まさにヒンドゥー社会。そこで、「我(アートマン)などない」と言い切ったらどうなる?
瞬く間に、ヒンドゥー教徒との論争になるね? ヒンドゥーの教えは、アートマン存在が絶対だから。

釈迦は、そのような他教との論争を極度に嫌ったの。それは最古層文献などに、繰り返し説かれてる。
そのような形而学上の論争をするくらいなら、とっとと修行に励め。まあ、毒矢の喩え にもそのスタンス
はよく現れているw 「無記」というのは、まさに釈迦の形而上学的論争の忌避を示してるねw

A上記の@にも関連しているが、釈迦は『経験主義者』なんだよ。
自分で確認したものを基盤に論理展開するの。 単に形而上の思想をああだ、こうだ といっても
解答はない・・・ということを知ってたの。釈迦は、自分で観測、確認できる範疇内に「我」などないことが
わかった。・・・・・しかし、「ない」と断言はしなかった。・・・・この辺も釈迦の賢いところなんだが
「不存在証明の不可能性」をちゃんと理解してたんだ。
・・・・つまり、「ない」ことの証明は不可能。それが分かってたわけ。
もし、「ない」と断言してしまえば、それの証明を求められるでしょ? それを避けたの。
また、「ない」と断言すると、六師外道のアジタと混同される危険性もあったしなw

もし、釈迦が「アートマン」を自己の教説の重要部分であると考えていたなら、必ずどこかで、それを
説いていたはずだ。 だが、そのような経典は全くない。

つまり、表現上は「非我」でも実質は「無我」なんだよw
0176ポッタン師
垢版 |
2018/06/30(土) 11:14:22.44ID:d30SQsdW
174.苦を感じる主体そのものを否定する、か。
バカ丸出し、である。
0177おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/30(土) 11:45:08.44ID:MkmJatpT
 
>>161 夕師匠へ
>真我を魂と定義して

同じなのか?わからないけど、とりあえず

ウィキペディア参照
霊魂(SoulもしくはSpirit)
(色蘊・肉体?)を超えた永遠の存在
  _  _  _

>>167 栄進師匠へ
>アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ず

「…である」と定義することはできないという
「…である」ものではない
アートマン
真我

非想非非想の世界?
あるいは
無為法の世界?
0178パーピマン
垢版 |
2018/06/30(土) 11:53:18.50ID:8Hs1bIHJ
「識」について・・・・・

「識」とは、『対象を区別して認識すること』・・・・これが本意です。
さらに突っ込んで言えば、「言語的認識」です。

よって、この「識」を「我の本体」「霊魂」「輪廻の主体」と見做して
しまう「邪見」を釈迦は、しっかりと批判しています。

以下は、サーティ比丘 と釈迦との対話・・・

「私は、世尊がこのように法を説かれたと理解いたします。すなわち、
〈この識は、流転し、輪廻し、同一不変であると。」

「サーティよ、その識とは何ですか?」

「尊師よ、それは語るもの、感受するものであり、それぞれの処において
もろもろの善悪業の果報を受けるものです。」

「愚人よ、そなたはいったい誰のために私がそのように法を説いたと理解
するのですか?

愚人よ、私は多くの根拠をもって、縁より生じる識について述べてきたでは
ありませんか?

〈縁がなければ、識の生起はない〉と。

しかし、愚人よ、そなたは自分の誤った把握によって我々を誹謗し、また自分
をも傷付け、多くの罪を創り出しています。
愚人よ、それはそなたにとって長く不利益になり、苦になるはずです。」

中部 第38経 「大愛尽経」  片山一良  訳

・・・・・・・
「識」は、⇒「縁によって生じるもの」に過ぎず、したがって、実体性はない。
アートマンでも霊魂でもない ということです。
0179おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/06/30(土) 12:02:07.23ID:MkmJatpT
 
>>161 夕師匠へ

梵我一如(ぼんがいちにょ)とかは否定派でつか?

想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して超えて

そして
その結果としての梵我一如?

道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて

余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐

(『想い』を手放して、梵我一如?仏に成っているのなら)
仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない
0180神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/30(土) 12:27:55.67ID:FR6N+u9a
マインドフルネス瞑想 Part12 (Jカバットジン系) ・
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529938706/

394 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 10:43:22.00 ID:Owtr5/AU
ちなみに私が先ほど書いたサティアユガの人間が数千年生きる話のソースは
ヨガナンダの師匠ユクテスワの教えで
アップルのジョブズが生涯信仰したヨガ哲学からの抜粋です

400 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:53:53.24 ID:FzSuR+Al
>>387
ジョブズは随分とはやく亡くなってしまいましたね
これもヨガナンダのお陰かな

402 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:59:04.46 ID:+STT5GAL
ヨガナンダも59歳…(-人-)

405 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:21:05.16 ID:Owtr5/AU
>>400
ヨガは長生きごっこではありません
ヨガ聖者はヨガナンダのように肉体が古くなると自らの意志で肉体から離れます
ビベーカナンダも40代かな

釈迦は毒キノコで死んだとの伝説があり
解脱してなかったという人もいます

408 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:33:28.64 ID:FzSuR+Al
>>405
ヨガナンダは自殺したんすか
えらいこっちゃ

409 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:34:14.30 ID:+STT5GAL
ジョブズも自らの意思で肉体を離れたのか…やるなジョブズ…

410 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:35:49.95 ID:Owtr5/AU
>>408
霊的レベルの低い人にはそう思うでしょうね

411 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:36:47.15 ID:FzSuR+Al
ヨガナンダは加齢を苦にして自殺(ヨガナンダ信者・談)
0181神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/06/30(土) 12:31:35.97ID:FR6N+u9a
412 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:38:56.13 ID:Owtr5/AU
>>409
ジョブズはどうか知りませんが
ヨガナンダはトリックができない
ようアメリカの大観衆の目の前で
今から死にますと宣言して
瞑想状態にはいり
魂の離脱をしました

413 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:40:23.88 ID:Owtr5/AU
>>411
大観衆の承認がいるわけだから
そんなデタラメいってもわらわれますよ

414 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:41:21.42 ID:+STT5GAL
とSRFは言っています

415 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:42:19.57 ID:5BWjqHEu
ヨガナンダはなぜ肉体が古くなってしまったのですか?
呼吸を止められれば古くならないので数千年生きられるのではないのですか?

416 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:43:54.72 ID:FzSuR+Al
ヨガナンダは加齢を苦にして大観衆の目の前で自殺(ヨガナンダ信者・談)

417 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:45:17.68 ID:Owtr5/AU
>>415
ババジのように意図的にそうする聖者もいます

418 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:51:57.31 ID:5BWjqHEu
>>417
するとヨガナンダは新たな肉体を得て再びこの物質界に現れるのでしょうか?
その場合、成人した姿で現れるのですか?
それとも母体に宿って赤ん坊として産まれてくるのですか?

420 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:53:29.88 ID:Owtr5/AU
>>418
別の惑星かもしれませんね

421 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 12:00:19.46 ID:Owtr5/AU
>>418
ヨガナンダの師匠ユクテスワは
地球での死後に
ヒラニャローカという星に
自らの肉体を物質化して
教えを説いています
ヨガナンダにも死後肉体を再度物質化し
地球に現れもしています


以下略(現在進行中
0182宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 13:06:08.78ID:iTajUNA7
>>171-178
あなたは自己都合による誤読が酷いし、相変わらず進歩が無いな...。
本来、唯物論者は仏教議論に入る資格がない
(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。

今時、使われない無我の古い語訳を根拠にし...
あなたは何十年、説明しても理解できない認めない人間ということがよく分かります。
こちらは記述に時間掛かるので、あとであなたの投稿すべてに対して完全に反論します。
もう、容赦しませんから。
0183宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 13:25:05.13ID:iTajUNA7
【警告】
あなた方は条項1.に抵触しています。
----------------------------------------------------
>>180-181
唐突にコピペではなくて、
ちゃんとその投稿をすることの旨(理由)を述べて下さい。
何ですかコレは?

>>32-34
>>137-138
あなたもコピペは気を付けて欲しい。
自分の口(筆)はないのか?
0184宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/06/30(土) 13:33:35.34ID:iTajUNA7
>>176
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。

しっかりとした理由や根拠を示さないのならば、
あなたの投稿はただの落書きや中傷行為と見なします。
二度と参加されなくて結構です。
0185基地子菩薩
垢版 |
2018/06/30(土) 14:14:35.54ID:FJQliqpe
盛り上がって参りました!\(^o^)/

南無南無 (-∧-)合掌・・・
0186ポッタン師
垢版 |
2018/06/30(土) 14:18:40.45ID:d30SQsdW
184.バカはバカを判定できない。
その代表がバカ宝珠である。
0187パーピマン
垢版 |
2018/06/30(土) 15:00:02.13ID:8Hs1bIHJ
>>182
>(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。

仏教ではですねえww

たとえ、悟って覚者になっても、空中を飛びまわったり、何万年も何も食わずに生きたり
出来んのですよw

神智学では、どう説いてるかしりませんがwww
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