--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword 「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、 原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、 激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。 尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 -------------------当スレの戒律(マナーとルール) ------------------- 条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可) 2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう) 3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。 4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。 5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。 (1950年の世界仏教会議にて決議した) 6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう) 7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。 8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!! 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 面白い発想、と思ったら佐倉さんw けど、 煩悩、欲望、自意識、怠惰、快楽に浸っていたいと思う、その意識自体が 夢の中(無明、顛倒妄想、三毒の中)にある、という意味では、 確かに、「それらを離れた賢者」は、『目覚めた』人に他ならないわなw 実際、伝承されている「評」も、 まさにその、「世俗の満足は、夢のような満足」であるというものだしな・・。 そういえば、昨日のNスペは、 アインシュタインの脳の解析へ向かう一歩の話だったが、 常人とは相違する特徴的な部位が有るらしい。 お釈迦さんも、特殊な部位があったかもな。 ttps://www.youtube.com/watch?v=Agd1tvxsZ2g NHKスペシャル アインシュタイン 消えた 天才脳 を追え 2018年7月29日 ttps://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180729_2 宇宙・科学・テクノロジー アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え 初回放送 2018年7月29日(日) 午後9時00分〜9時49分 >>729-730 ホーウ... ヒンドゥーの神通は単なる夢想に過ぎないとはね? 仏典も同じくそれらの神通が説かれてるのに... 仏典の場合には夢からの目覚めとは、 これ如何に? あまりにも幼稚な発想です。 この内容は以前にも見ているけれども、 そのときはそのような文句を 『ヨーガ・スートラ』からは見つけることはできなかったのだけど、 それは単にこの私の見逃しなのですかね? それら(聖句)のすべてが一体、『ヨーガ・スートラ』の”第何章何節”のことなのかを明確にしてもらえます? すぐ確認するので早急に宜しくお願いします。 ↓怪しいリンク先かもしれないけど、とりあえず ttp://www.bukkyou-bungaku.com/buddhism/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%9B%9E%E3%80%80%EF%BD%89%EF%BD%8F%EF%BD%94%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82%E3%80%8D/ ↓大乗はバラモン教の世界観にもどった? 道元 尽十方界は是(本来自性清浄涅槃そのもの)自己なり (本来自性清浄涅槃そのもの)自己は尽十方界なり (それゆえに、すべて無住処涅槃である?) ttp://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm 宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、瞑想の中でありありと直観する 梵我一如 無知と破滅が克服され… 仮設としての 縁起している世界を超えていく? (無明している世界を超えていく?) ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本 … 縁起したものを離れることがある 縁起したものを手放して超えて ブッダは そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも 死ぬことも、生まれることも説かない それこそが苦しい。という『想い』の終わりである (「…である」と定義することはできない。「…である」という『想い』ではない) これも何回も説明しているけど 中観自立 有相唯識 無相唯識 中観帰謬 それぞれ依って立つものが違うでしょ?ということ ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf ダルマキールティ(唯識派) 光が輝くとき その輝くこと(照明)を本性とする故 自己自身を照らす そのように 智慧(と慈悲)も自己を認識する 智慧(と慈悲)は光の如く 照明することを本性とし 他に依存することなく 自ら輝き現われる − これに対して − カマラシーラ(瑜伽行中観派) 恒常な照明されるもの。という『想い』は常住なものとして存在しない ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm 上座部 パオ・セヤドー 智慧(と慈悲)の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます そして、たぶん 最終的には 智慧(と慈悲)の光も含めて 縁起している世界を手放して超えて逝く (たぶん上座部系も中観帰謬に近いかもしれない?) ↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 現代の科学崇拝においては 大槻義彦教授のように 「インチキだ!ヤラセだ!合成写真動画だ!」と断定する学者も多いかもしれないけど それでも、とりあえず (↓仮設としての。縁起している世界において) ↓検索キーワード ワイルダー・ペンフィールド 魂 イアン・スティーヴンソン(前世の記憶を持つとされる子どもたち) 脳神経外科医 エベン・アレグザンダー(死後の世界) ピタゴラス ゾロアスター教とか 古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生など 古代ギリシアの哲学者プラトン アトランティス エジソン 死者との交信について研究を続けた ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3 死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか? 曹洞宗 内山興正 『霊魂はある』ということで ヨロ m(_ _)m ttps://www.youtube.com/watch?v=crOX7l4xkzs 日蓮宗 三木大雲 京都の心霊(深泥池?) >>735 このベストアンサーの解説は、 確かに親切丁寧でとても素晴らしいものです。 しかしながら、それらは30年以上も前とかならば通用したものであって、 今ではもう古くて時代遅れの内容です。 従って、これでは間違いとなります。 それから説明で使われていた、 「魂」(Jiva/ジーヴア)というのは輪廻主体としての「識」であり、 アートマン(真我)とは異なりますから。 その辺は非常に重要なところなのでそこを曖昧でテキトウでは困ります。 【悲報】早稲田大教授「ピップエレキバンは完全なインチキ商品。なぜ薬事法違反に問われないか不思議」 ・ [471942907] http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1533015091/ 252 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ d390-kTp/) :2018/07/31(火) 18:19:58.07 ID:zHHz53Gf0 >>20 本当の科学者ってのは、「幽霊はいない」なんてことは絶対に言わない。 その断言自体が、逆に科学的な考え方じゃないから。 本当に科学的な考え方の出来る奴は、ビリーバー達が持ち出す 個々の「証拠」に対して、「それは幽霊がいることの証拠にはなりませんよ」と 反論をするだけ。 これは、「幽霊はいない」と主張することとは、全く別。 「幽霊がいない」ことの証拠もないのにそんなことを断言しちまったら、 自分もビリーバーと同じレベルに堕ちるということを知ってるのが、 真の科学者。 ID:xAjPdnFu師匠本人の個人的な見解が >本当の科学者ってのは、「幽霊はいない」なんてことは言わない ということで良いのかしらん? 或いは(ID:xAjPdnFu師匠本人の個人的な見解ではなくて) ID:zHHz53Gf0師匠の見解のコピペだけ? ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E7%BE%A9%E5%BD%A6 大槻義彦 超自然現象や超能力などを科学者として徹底的に批判する学者としても知られる 「月の石はアメリカの砂漠の石」発言のように 発言や著作では科学界の通説とは違う独自の説を唱えて 反オカルト、月の石捏造説など、彼の専門外の話題発言が多い アポロ宇宙船が持ち帰ったとされる「月の石」はアメリカの砂漠の石と同じもので 世界中の物理学者が分析しても何の科学的成果も得られていないと主張している アポロ月着陸捏造説については 「自分はアポロ宇宙船の月着陸が捏造だと認めたわけではない」としているが 捏造は否定しておらず、「ノーコメント」を強調している 有人宇宙飛行について、投下した費用の割に目立った研究成果が無い 宇宙滞在の実績の意義が見出せないことから、『ブードゥー科学(英語版)』と否定的である _ _ _ ↓おじゃるの個人的な見解としては 本当に月に逝ってたとしても (現代の科学崇拝の測定器などによる分析においては) 「(月の石とされているものは)地球のどこかの石である可能性がある!」という感じがする 魂は巨大妄想の産物である 〜仏教の無我は因縁論です〜 The theory of soul if a product of wishful thinking http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html ↓訂正してお詫び申し上げます スマソ m(_ _)m ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%9F%B3#%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%9F%B3%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%AA%AC 月の石捏造説 『大槻義彦教授が勘違いしてた!』という感じであるらしい (月の石の肯定派による ヤラセ!仕込み!という可能性もあるかもしれないけど…) ttps://indeep.jp/precursor-to-2011-giant-japan-earthquakes-detected/ 巨大地震の前に《異常》が起きていたことをNASAの人工衛星が検知していた 人工衛星からの観測によるデータ 「地震の直前に上空の電子数が増大していた」ということがわかった _ _ _ 大槻義彦教授の場合は 「この上空の電子数を観測をしても、あてにならない それゆえに 上空の電子数の観測は金の無駄使いである!」 というような発言をしてたこともあるようで おじゃる _ _ _ おじゃるの個人的な見解としては 地震の直前に上空の電子数が増大する場合があるのなら (多少の?)金の無駄使いであったとしても 上空の電子数を観測するべきである という見解で おじゃります m(_ _)m >>742 ホント.必死ですよね! 執拗なまでに...。 彼らは何故こんなに繰り返し叫ぶのか? それは、近代仏教学の研究によって彼ら(部派)の間違いが、 つまり、「アートマンは無い」などというのは、 部派によって勝手に創りあげられた教義だったことが明らかにされてしまったからです。 だから、こんなにも必死なんですよね。 >>717 >仏法は無我にて候 >古くからそう言われている 確かにそうです。 それが仏教の一大特徴ともされてきた...。 『「仏教は無我にて候」と昔からいわれている。しかし、最初期の仏教では、無我説ではなく、非我説が説かれていたと見るべきである。 無我説は、そもそもアートマンなるものは存在しないという、高度に形而上学的な議論を骨子とするものであり、釈尊には似つかわしくな い。ちなみに、のちに無我説を唱えた仏教は、輪廻の主体としてのアートマンがないのなら、輪廻や因果応報をどう説明すればいいのかと いう問題の解決に苦心することになる。とてもではないが、無理なことを説明するために、多大な学問的労力が払われた。』 (宮元啓一著『仏教誕生』筑摩書房刊p173-174) 『この無常観をさらに補助するものとして考案されたのが、非我説、非我観である。「我」の原語は、サンスクリット語で「アートマン」、 パーリ語で「アッタン」であり、要するに、先の第三問で見てきた「自己」のことである。自己は、輪廻転生を貫く主体であり、常住にし て不変だとされる。ところで、われわれは、心身を自己だと勘違いすることが多い。だからこそ、人生の無常がわからず、死という無常に 直面するまで、安逸に生きてしまうことになる。これを戒めるために、ゴータマ・ブッダは、心身を五つ要素に分け、そのいずれも常住の 自己ではない(非我)と説いた。これを五蘊(ごうん)非我説という。 ---非我説から無我説へ--- 一方、ゴータマ・ブッダは、経験論の立場をとり、経験的事実を出発点としない、いわゆる形而上学的な議 論には、みずから口を閉ざし、また、弟子たちにも、そのような果てしない水掛け論に熱中して修行がおろそかになることを強く戒めた。 そこで、ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いているが、自己をめぐる形而上学的な質問には、沈 黙をもって対応した。 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも自己ではないならば、そもそも自己なるものはないのだと する、きわめて形而上学的な無我説が誕生することになった。親の心、子知らずというか、後世の仏教徒たちは、ゴータマ・ブッダの重要 な戒めを忘れてしまったのである。』 (宮元啓一著『インド哲学七つの難問』講談社刊) >>688 >なんで清浄心が無為になるの? >論理が飛躍していますねえ。 >自分がそう思うというそう信じるに止めるのならそれでも良いけど、 >人の前で「本当の仏教では煩悩を制御すると無為なる本性清浄心が出てくる」などという独説を唱えたりはしないことですな。 それこそが本当の仏教だという言い方についてはこの私も控えますが、 しかし、少なくとも大乗(の「如来蔵」)においてはこの自性清浄心を無為法だと理解してホトケの所説とします。 私もこれには大きく同意したいと思います。 注15 『如来蔵や仏性を無為真如とのみはいえないかも知れない。真如随縁を説き、真如は有為法とも密接に関係しているとするから である。なお唯識において阿頼耶識に依付するとされる本有無漏種子と如来蔵や仏性とは同視できないであろう。無漏種子は生滅変化す る有為法であるのに、如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである。』(p510) (水野 弘元著『心性本浄の意味』) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf >これもさ… >結局清浄心というのは現象界の無常無我無自性とは違うものといったらアートマンと変わらなくなるじゃん! >結局清浄心こそがアートマンであるといいたいんでしょ? >あなたが全面的な信頼を寄せている水野弘元氏はそれとは反対のこと言ってますが。 確かに、この私はアートマンと同義だと見ています。 水野氏はそうではないと否定していますけれど...。 しかし失礼ながら、 水野氏はこのことに関して複雑に混乱を起こしてるように私には見えます。 要するに、無理やり一切法の無常・無我・無自性/空の法規と照らして問題有りとして、 これを間違った記述扱いにしようとしているのです。 けれどもそうではなくて、最初から素直に経文の言葉通りとして受けるならば「無為法」としては何も問題はないのであって、 一切法の法規に抵触することはないのだということ。勝手に、“ブッダの教え(言葉)を違法扱い”する姿勢というのはどうにも戴けない。 経文通りの無為ならばブッダの教えとしては何も問題がないのだから。 さすがに水野氏もこの句を混入扱いとまではできないとみえて、そして、いろいろとあれこれ苦心した挙句に、 この自性清浄心は(消極と積極の二つの内の)積極的な清浄のことだなどとします。 そして、その積極的な清浄心は仏典においては他にも説かれている、とするのです。 『それでは浄潔や浄白の意味はいかなるものであろうか。パーリ辞書によれば、これらの語はともに「清い」「白い」「清浄」などと説 明されているが、その具体的な意味は明らかでない。元来清浄ということには積極・消極の二つの意味があると考えられる。積極的な清 浄とは繊濁を除いて洗い浄められた状態であり、心の場合ならば、修行によって煩悩汚濁を除き、清浄なる悟りの智慧が得られた状態を 指すのである。これに反して消極的の清浄とは濁り汚れのない清水や白紙のような状態であり、心についていえぱ、善悪のいずれにも染 まない無記の状態を指す。それでは「心が浄潔である」とは右のいずれの清浄を意味するものであろうか。原始経典やパーリ仏教におけ る心清浄は積極的のものではなく、消極的意味の清浄と考えられる。何となれば、もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄 な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。ところが一般の心は汚れることもあれば浄まることもある。(p12) ---中略--- このように、心性清浄には消極的と積極的の二つの意味があることは否定できないであろう。そして心に理想追求への積極的な可能性 や能力としての如来蔵や仏性を認めなければ、修行証果の可能性も説明できないことになる。原始仏教で信等の五根や三無漏根などが説 かれたのは可能性としてのものではないが、心に積極的な清浄のはたらきがあることを経験的事実の上からのべたものであろう。 なお原始経典には有名な自灯明(自洲)、法灯明(法洲)の説法があるが、自(attan, atman)は法という真如や理想を理解し体得する能力 をもった自己であり、理想に向かう心をもった自己である。この意味で、原始経典の中に積極的な自性清浄心もすでに至るところに説か れていることが知られる。流転縁起や還滅縁起を説く四諦や十二縁起の中にも積極的な清浄心が予想されており、仏教の根本目的として の「いかにあるか」「いかにあるべきか」という理論や実践の面も積極的な清浄心なしには存在し得ないのである。 ただこのような清浄心としての仏性や如来蔵を外教のアートマンなどと混同しないようにし、両者の明確な区別をつけて説明すること が必要である。』(同著p509) ず、 根本的にどう読んでも文意として自性清浄心が無為を示す以外にはない文言であるにも関わらず (水野氏の言葉でいうと「消極的清浄」ということか)、 これを勝手に何とか有為(一切法)における我々の日常の心のこととして扱おうとするところにそもそもの無理がある。 そのために水野氏による消極/積極の双方どちらの解釈も間違ったものでしかないのです。 私の理解に拠れば、元々、無為として本来は本質的に自性清浄である心が、 この有為の世界においては煩悩によって覆われて汚れている状態であるというのが我々の仮和合の心です。 この両者は意識の深い深い深層域で繋がってはいるけれども、それぞれが次元の異なる別ものなのです。 無為の自性清浄心というのは無始の初めから清浄のままであり、輪廻していない。 けれども、有為の仮和合の心というのは深層部の輪廻する核コアである阿頼耶識と 死後に間もなく消滅するパーソナリティのマインドとが重なったものです。 まっ、これらのメカニズム解というのは、ヒンドゥー及び神智学を学ばない者は殆ど知らない(仏教枠では解説がない)。 そもそも、 もしもこれがゴータマ・ブッダ自らの言葉(教え)ではないとするならば、 いったい何処の誰がどんな意図で以てこのような誤解を生ずる文句を敢えて挿入したというのですか? 水野氏自身もこのパーリ文は消極的清浄の意味であるから一切法に抵触するものとしています。 まったく以て、オカシイではないですか! であるから、これはゴータマが元々、説いていた教えだと見なすことがごく自然なのです。 なのにこれを無理に抹殺したり、無視しようというのは不自然であって、決してしてはならない悪行でしょうよ。 エッ、違いますか! 『もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。 ところが一般の心は汚れることもあれば浄まることもある。』(同著p507) 汚れているのは、正しくは有為における心のこと。 無為の自性心は最初から、そして、今も汚れることはない。 では何故、有為の心というのは最初から汚れているのか? そのことを仏教では「無明」といってるわけですよ 『邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩で、十二因縁の第一、三惑の一とされる。 サンスクリットでアビドヤーavidyā。原始仏教においては〈四諦の理を,あるいは縁起の理を知らないこと〉が無明であ ると定義される。』 (「デジタル大辞泉の解説」より)。 >自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。 >如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。 >これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。>>662 http://fallibilism.web.fc2.com/023.html 「無明」について分からないというのは当たり前のことであって、 これを説明しなかったのはゴータマ当人なのだから(なので、悪いのは別に如来蔵派ということではない)...。 尚、ヒンドゥー及び神智学を学ぶ者は当然、その理由や原因についてはよく分かっているので、 それらの初歩的な疑問はすべて解消しています。 しかし残念ながら、仏教では多くの事柄に対して説明無しということが多々あって、 それでも平均的な仏教徒というのは、それ以外を学ぶことがないのでいつまでも無知のままです。 テーラワーダ信者のようになると、仏教以外はすべて低い教えで迷信扱いと洗脳されているので、 自ら他の思想や宗教を真剣に勉強しようとする人は殆どいない (彼らの知っている情報はすべてテーラワーダ発信のものばかり)。 以上. >>712 >究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。 アートマンを自覚するということは、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するのです。 >>718-719 それらはすべて有為法の説明です。 アートマンはそれらに抵触しない。 >>713 >脳科学が仏教に同意「無我を全面的に認める」! 一方、ダライ・ラマは「科学に改宗してもいい」 >https://a.excite.co.jp/News/odd/20170202/Tocana_201702_post_12191.html 「有為」である「一切(法)」が無我(そこではアートマンと認知できるものはない)なのは当たり前の話です。 それは真理なのですから、私はそのことを否定したことはありませんよ。 ただし、アートマンは最初から有為などではないので、それらの無我の教えには何も抵触しないということ。 そのことを分からない者だけが「無我だからアートマンは無い」と連呼するのです。 >ところでテーラワーダに限らずダライ・ラマにしても他の仏教宗派にしても我(アートマン)の実在を認めている宗派はありませんよ 私も猊下のことは、 仏教と出逢って以来〜35年間ずーと尊敬しています。 2015年ダライ・ラマ法王14世来日法話「般若心経・菩提心の解説・観音菩薩の許可灌頂」 の法話の一部を地方の映画館にて拝聴もしました。 しかし、だからといって全面的に何でも信じるわけではないし、 法王が観世音菩薩の化身だなどとは見てはいません(歴代数回の法王の転生には間違いないものとみてるが)。 そして、仏教史から判断して、「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」なので、 現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派は一つも存在していません。 当然、ダライ・ラマ法王とて然りです。 『第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏教に おける無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘 して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代 に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。 したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナ ーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体とし ての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而 上学的論議として斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の 意味の無我説がゆがめられたのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き 生きしたブッダの無我観が、部派仏教になると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論 との対決という観点から、“我を立てない”無我論へと移っていったのである。シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳 したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏 教のアナートマンの原義にふさわしい。』 (『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95) >>715 >仏典に書いてある書いてないでなく、 その経典の記述を最重視しない姿勢というのは “禅の傾向”“禅宗の特徴”なのだろうか? 結局、座禅にひたすら専念するということなのだから (臨済の公案もあったり、作務行も当然大切だけれど)、経典の記述などは二の次だ。 要するに、経典に書かれてある内容をどれだけ知っているか、理解しているかは然して問題とはならない...。 それよりも、師僧(老師)からの指導が最重視だから。 で、その導師グルが間違ってれば皆んな間違うのだから、洗脳のコワイところだけれども...。 かつて私が電話で輪廻についての宗派見解を教えるよう呼びだした黄檗宗の大本山萬福寺の高僧 (電話で呼び出したので幾段階かの高僧には間違いない)なんかは、 「そんなものはない」と荒々しい声を張り上げて豪語して私からの電話を切った。 どうも何故だか、禅宗僧侶には輪廻すらも否定するような唯物論者らしきが多いような印象を受ける。 南 直哉とかいう曹洞宗の禅僧もそう。輪廻などまるっきり信じちゃいない。 それで自分は僧侶には向かないものとかなり葛藤する経験をするのだけれども、 「そういう者は僧侶はやるな!」とこの私はいいたい。 まったく向かないし、するべきじゃないから。 良く見られるような、ただ単に家の寺院を継ぐために止む無し...などというのは、 信者たちに対して失礼であり、唯物論者の僧侶による引導や年忌法要など...は、 ハッキリいって詐欺に他ならないから。 >>716 手法が異なるから別の宗教だとはもちろんその通りです。それはいい。 では、手法が異なるとその結果(そのゴール)も異なるのか、否か? 「その時になりゃ嫌でも分かるさ」だから、 今はそのことは問わないとするのは、もちろん構いません。 しかしながら、その判断の危ういことが指摘されているにも関わらずそのことには目耳を塞いで、 ヒンドゥーを間違いと決め付けて馬鹿にする。 尚且つ、仏教だけが唯一の真理でありそれ以外は間違った低いものと断罪するのは如何なものか? 私は、“自分の信じる宗教だけが唯一の真理”と説いているところでロクなものを知らない。 そのようなことを主張する宗教にはロクなものがないのは歴史が証明してきた。 『この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのように さまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。(891) ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の 諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。(891) 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、 「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。(891)』 (スッタニパータ) これらが仏教徒(現テーラワーダなど)には当て嵌らないなどと、 どうしていえるのですか? >>692 >宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべきだと、 >心の底から思う。 by7 ならば、 駒澤大にでも電話して聞いてみますか(それともメールかな)? う〜〜む...。いや、それはやっぱり、どうも気が重いよなぁ.あっははは!!(苦笑) では、 一代によって“近代仏教学の天才”と評され、 何とあの長老からも 『石飛道子先生は、元々は 仏教が専門で、上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老をして 「日本の仏教学者で仏教を一番理解しているのは石飛先生だ」と言わしめた方(石飛先生は専門は大乗仏教の方のようですが・・)。』 https://kelp.jp/blog/other/1425/ ともいわれている期待の学者さんなので、まずこの石飛女史に答えてもらうこととします。 以前、女史とは軽くメールを交わしてもいますが(面倒なのでそのことは伏せて)、ごく簡単な質問に対して返答してもらいます。 果たして、一体どういう返答を書いてくるのでしょうか? わたしにもまったく分かりません。 想定通りか、いや、それとも想定外でしょうか? ワクワク いずれにせよ、その返答については私も真摯に受け止めて今後の良き参考にしたいと思います。 質問はちょうど今、ここで議論して私から仏教の無我の教義に関して主張している疑義についてです。 それを公開のBBSで投稿して、そこで返答を頂こうかと思います。 尚、議論する意図はまったくありません。 >>727 >金剛界法 胎蔵界法 如意宝珠法 護摩法とか(無料で公開して) >教えて頂きたい所存で おじゃります m(_ _)m >越法罪とかがあるので >正式な真言宗の僧侶じゃなきゃ無理だと思うけど… ちなみに私個人は、 “密教にもっと深く参入してこれを極めたい”的な想いはまったく以てない。 それだったら、最初から迷わず正式な密教僧への道を志す。 もしも、僧侶にならず護摩を自分で焚けるところまで修得するのなら、 阿含宗に入会して1回10万円以上の伝法勧請を何十回?と受講していくか、 何処かに師僧を見つけて在家のままでも伝授して頂けるよう自分を認めてもらう以外ないのでは? あとは、醍醐派系や真如苑とかならば道が開かれているかもしれないのと、 或いは、山岳修験道(山伏修行)ならば護身法と不動金縛りの術、九字と早九字は修得できるでしょう。 在家として勉強できる書籍は、現役真言僧が著した『実修 真言宗の密教と修行』くらいでしょうか。 この書籍で密教僧による十八道(十八契印)の解説を写真付きで知ることができる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる