--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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書かれてる内容は別として、本の帯に書かれている「初期仏教長老・・・」 流石にそれはないでしょw >>677 >人気がありすぎて そう。 なぜ、人気があったのか? もし、他の外道と同じことを説いているのに、上っ面だけ違うこと(無我)を説いて、 人集めをしていたのだとしたら、とんでもない詐欺師だし、迫害されて当然だと思うけど?www 多くの外道の末端に限らず、指導者までもが、『転向』『鞍替え』し、釈尊の説くところに賛同していったわけだが、 その際、 彼らは、 『 ≪どっちに≫ 賛同した』のだろうかね? >>683 宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべきだと、 心の底から思う。 by7 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6 量子力学(quantum mechanics) 因果律が成り立たない 実在論としては記述できず、非実在論的である ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0 波動関数(wave function) 「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できる 我々が住む日常世界の他に全く異なる並行世界が存在する >>670 栄進師匠へ >量子力学 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%B7%B3%E8%BA%8D 量子跳躍(quantum leap or quantum jump) ttp://amenama.on.arena.ne.jp/?p=2741 二次元平面に保存された情報からの → 宇宙(三次元空間+時間)が投影されている ttp://tocana.jp/2017/01/post_12093_entry.html 人間の意識は宇宙法則とリンクしていた ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE プルシャからの → プラクリティ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81 仏が大悲・大智によって → (仮設としての)衆生に応じる (仮設としての)衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる >なぜ、人気があったのか? 「仮設としての」という意味で 前世からの功徳・人徳があったから ((無明に依存して) 功徳・人徳の少ない指導者のところには 怨憎会苦の集団ができるかもしれない?) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E6%A5%BC%E9%A0%BB%E8%9E%BA%E3%83%BB%E8%BF%A6%E8%91%89 ウルヴェーラ 釈迦は 火界定三昧に入り竜の魔力を奪った 釈迦は静かに禅定していて竜が小さくなって鉢の中にいた ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3 「仏そのもの」の自在力(神通力)をもって 智慧と慈悲をもって → (仮設としての)縁起している世界を観照してるから 戒・定・慧・解脱・解脱智見 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)の実践をしてたから 非想非非想も超えて (仮設としての)縁起している世界も超えて 有余涅槃(本来自性清浄涅槃?)に戻ったので それゆえに >人気があった という対機説法?ということで ヨロ m(_ _)m >宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべき… (おじゃるも含めて) 宝珠殿の場合は 『「…である」と定義することはできない「…である」ものではない (絶対的な?)真我のようなものがあるはずだ!』 という強い信念があるのなら 仏教系大学で、 『インド思想史』を勉強しても意味がないのでは? たとえば 「無我 = 真我という意味だ!」という強い関連付けがあるのなら… 真我 = 本来自性清浄涅槃だ! ということで ヨロ m(_ _)m 中観帰謬の場合は (真我も含めて)無我という 『 想い 』 も手放して超えて逝く ということになるけれど… >>692 ほーう...。 専門大学では私とは違うことを学ぶよ、と...。 そりゃ〜「ブッダはアートマンを説いた」とはお教えたりはしないでしょうからね。 (私もバラモンたちとまったく同一のことを説いたとはいってない) しかしながら、ゴータマの名声は何だったのか? といえば、 当然それは、“梵我一如の境地”、悟り、“輪廻からの解脱”を目指すバラモンたちの中において、 そのゴータマこそが本物も達成者であり、完成者(ブッダ)であるとの評判が高まったからです。 その評判がインド中に広まっていったからに他ならない(当時、本物の完成者は他にはいなかった)。 実際、ゴータマに集った弟子たちというのは彼らバラモンたちでした。 別に、「アートマンは無い」という意味の無我を説いてから人が集まったわけではなくて、 間違っているバラモンたちを指して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ (アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。 「アートマンは無い」という意味の「無我」を説いたというのは、ゴータマ入滅後の数百年後の部派教団によってです。 それがアビダンマの教義というもの。 インド仏教史の略図でも書かなきゃダメなのか? >>696 訂正: ×「本物も達成者であり」 ○「本物の達成者であり」 ×「無我を説いてから」 ○「無我を説いてたから」 ●当時のゴータマとのやりとり実際事例 『私(マーガ)はいま梵(brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(brahma)と等しい方である。光明をもっている方である。どうすれば梵天界に生まれるのか。』(Sn.508) 『私(ブッダ)は梵となりたる(もの) であり、無比であり、魔軍をほろぼしすべての敵を屈服させ、おそれることなく喜ぶ。』(Sn.561) (田上 太秀 訳) メモ【五火二道説】 と【梵我一如説】 と【無我説】 http://open.mixi.jp/user/8715268/diary/1124265974 さて、死後梵天界への再生を願うマーガ青年は五火ニ道思想だったのか梵我一如思想だったのか、 あるいはそれ以外のバラモンの思想信仰を持っていたのか? それとも釈迦に梵天界への再生の道を先に説かれていたのだろうか? しかし、釈迦はマーガ青年に「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ」と何度も言うが これは自分のような立派な人にこそ供物を捧げよと言ってるに等しいなw ヤージュナヴァルキのアートマン論だと梵我一如となったものは死後に想念なしとしているから梵天界に生まれ変わるというのとは違うな >>696 >(アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。 流石に(心の内)としても勝手な想像を事実であるかのように書くのは酷いわあ >立派な人にこそ供物を捧げよ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C 預流・一来・不還・阿羅漢 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2 阿羅漢 仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者 この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができる 漢訳には応供(おうぐ)という意訳もある _ _ _ >釈迦に梵天界への再生の道を先に説かれていたのだろうか? ヒンドゥー(バラモン) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める ウッダカ・ラーマプッタ師匠は非想非非想の世界まで 釈迦は(非想非非想を超えて、そして) 身体について…感覚について…心について…諸法について… (それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去る 四念処(四念住)を実践するように説いた >>1 宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる 科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう 時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる (神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし 無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、 それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる 空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説) 存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想) 創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間) 始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >創造−維持−破壊−創造を繰り返す ブラフマー(創造)・ヴィシュヌ(維持)・シヴァ(破壊) オルペウス教 魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする ピタゴラス教団 古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有していた ピタゴラス派 均整及び調和の理念が → 宇宙全体から日常生活までを支配しているのだと考えられた 万物は宇宙の中心点である中心火の周囲を決まった軌道を通って周行するものとされた ピタゴラス ポルピュリオスなどの伝記によれば ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれる さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある _ _ _ >今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる 古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』及び『クリティアス』の中で記述した アトランティス 波動関数(wave function) 「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので 我々が住む日常世界の他に全く異なる 並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ ↓幽霊・心霊関連として ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3 エジソン 高齢となって会社経営からは身を引くが 研究所に篭り死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)を続ける ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9D%A5%E5%8F%8B%E5%90%89 福来 友吉 学会追放 高橋貞子での実験成功に力を得て、1914年(大正3年)9月に『透視と念写』を出版した 学長であった上田萬年から10月に呼ばれ 「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受けたが 透視も念写も事実である旨主張して東京帝国大学を追放(公的には休職)され 1915年(大正4年)10月28日付の東京日日新聞や萬朝報でも報じられた 彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受けることになってしまった その後 物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった 1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授 >>696 > (私もバラモンたちとまったく同一のことを説いたとはいってない) つまり、今、貴方が説いていることは、 歴史上誰一人として説いたことのない、人類史上初の思想だということです。 > 実際、ゴータマに集った弟子たちというのは彼らバラモンたちでした。 そう。 だからこそ、そのような彼らが、 なぜ、 「これまで自分たちが希求してきた真理(『アートマン、真我』)こそを、ゴータマは説いている」 という長老偈(テーラガーター)になっていないのか? なぜ、(ゴータマ自身は、貴方や他の人が言うように、本当のことを口にしなかったとしても) 弟子達までもが、永きに亘って、そのことを秘密にし続けねばならなかったのでしょう? 教えを秘匿することは、ゴータマが最も嫌ったことであった筈なのに。 > 間違っているバラモンたちを指して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ > (アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。 のであるならば、尚更、弟子たちは、ゴータマこそが、自分たちが求めていたものを説いた方だ、 と、尊崇し、人々に知らしめる責務を感じるであろうに。 > インド仏教史の略図でも書かなきゃダメなのか? てめぇより、はるかに理解してる自負はあるよw 一千億歩譲って、 田上センセが院生時代に記した論考のように、 『ブッダは、菩提樹下でアートマンとなった』 という言辞を受容したとしても、 そこで、ブッダが実感された、頷かれた「アートマン」は、 「永遠なる万能な実在」「太古から存在し続けた”おのれ”」ではないように見受けられるんだよね。 だから、 ≪臨済禅師(及び真実自己を肯定する祖師方)は「アートマン」を説示したのかどうか?≫ を、”専門家の”宝珠氏に検証してみてほしいわけさwwwww たとえば、昭和の禅僧朝比奈宗源は「仏心」を掲げる。 これが、 如来蔵や本覚思想とどうかかわるかは、普通に仏教学・禅学・宗学の範疇だけれども、 ≪それが、「アートマン」かどうか?「真我」かどうか?≫ は、まったくもって、従来の僧侶や学者の領域を超えている。 神智学を併修する仏教学者は、大拙さんくらいのもんだろうw そして、その大拙さんにしても、 手法や視線の投げかけ方、考え方を採り入れただけで、 自身のスタンスを変えてはいない、という点も留意されるべきところだろう。 (勿論、大拙さん始め西田さんとかの方向性が、禅として如何なものか?という批判的研究はされるべきではあるけれど) >>705 >つまり、今、貴方が説いていることは、 >歴史上誰一人として説いたことのない、人類史上初の思想だということです。 いやいや、 仏典の内容を吟味にして考慮すれば必然的にそうなると思いますが。 まっ、確かにそれは、ヒンドゥー及び神智学を知る者からみればの話ではあるけれど....。 しかしながら、たとえヒンドゥー視点を除外視した場合においてでも、 「アートマンはない」などとゴータマがいってもいないことをいったことにしたり (ゴータマは形而上存在論そのものを説く姿勢ではない)、 ヒンドゥーのアートマンの教えを馬鹿にすることなどは決してできないということ。 セブンは馬鹿にしてないとは思うけれどね....。 しかし、いつも来てる長老信者と平均的な仏教信者にはそういうのが多いから。 これは早急に改善されなければならないとしているのが私の採る姿勢です。 とにかく、「アートマンはない」と説いたなどいうとっくに時代遅れとなった古き間違った教義は廃棄されない、とね。 でないと、いつもまで進歩が無く、迷信のままだ。 >だからこそ、そのような彼らが、 なぜ、 > 「これまで自分たちが希求してきた真理(『アートマン、真我』)こそを、ゴータマは説いている」 >という長老偈(テーラガーター)になっていないのか? >なぜ、(ゴータマ自身は、貴方や他の人が言うように、本当のことを口にしなかったとしても) >弟子達までもが、永きに亘って、そのことを秘密にし続けねばならなかったのでしょう? >教えを秘匿することは、ゴータマが最も嫌ったことであった筈なのに。 その視点を持つことの必要性と重要さについては認めます。 そして今、一つだけ言える決定的な事実? は、何かというと、 紀元前1世紀頃の「第四結集」で文字化されたともいわれる経蔵もその成立は長きに渡っており、 最も古いとされるスッタニパータから、長部経典のようなズ〜と後代成立のものもあって、 つまるところ、その全過程においては部派仏教の時代と重なって書かれたのであって、 そして、それがそのまま部派教団によって今日まで所持されてきたのです。 従って、残念ながら経典の一部は改ざん(都合の悪い箇所は削除)され、 後代の経典などは彼らの都合に合わせて書かれているのだということ (たとえば実際のゴータマが説いたかは疑わしいともされる十二因縁など...つまり、アビダルマ的教義に沿って書かれたものです)。 そのようなことも踏まえた上で、まだ原始仏教当時の教えが残れている部分を汲み取っていくということが必要 (完璧は不可能であっても、「怪しい...」と見かければならないことはいろいろとある)。 それがセブンも指摘するような疑問符の数々ともなるのです。 話が少し逸れますけど、 セブン宛てに書いちゃいますが、 >>685 これを見て私は唖然としました。 というか..酷過ぎてショックを受けたんです。脳天を打ち付けたくらい驚いたんですよ。 こんな低レベルを語る高僧とやらとそれを信じる信者たちって、一体なんだろ? って。 そんな人たちと真剣に話しても、そりゃ〜無駄だよなぁ...とね。 “マーヤーの幻影と唯一なる実在(アートマン) ”との関係すらも理解できないような、 インド宗教についての超ドシロウト人間に、ウパニシャッドのアートマンと仏教の無我の対比関係が正しくわかる筈もないから。 内容が幼稚園レベルなので、これはインド宗教についてまったく何も知らない人間にか通用しない書籍です。 もう対話する気も起きませんよ...。 >690 「初期仏教長老」 ...って。 まっ、言うのは自由なんだろうけど、もうかなり調べはついているのであって、 現存しているテーラワーダというのは初期仏教どころか(冗談でいってのか? もしも本気でいってるとしたら勘違いか、詐欺です)、 根本二大分裂時の「上座部」などではなく、Vibhajava^da[ヴィバジャヴァーダ]の末流にある派の中の三派中の一つ、 Maha^viha^ra Nika^ya[マハーヴィハーラ ニカーヤ]『分別説部大寺派』だといわれていますね。 自分たちはお守りの効果も認めてパリッタ(護呪)を読誦しておきながら、 他派の行為については“沈めた石の話”をしてゴータマが禁止した呪法だとして嘲弄する。 原始仏教の研究においては、当時のゴータマも実際には簡単な呪法は使っていたらしい...といわれています。 バラモン呪法そのものではない“仏教独自の呪法”(の容認)という視点はあっても然るべきなのですが....。 >>706 >そこで、ブッダが実感された、頷かれた「アートマン」は、 > 「永遠なる万能な実在」「太古から存在し続けた”おのれ”」ではないように見受けられるんだよね。 パーリ大涅槃経中のアナンダを叱った寿命が延ばせられるの文句が、 まさしくアートマンを自覚している人間だからこそいえるものであり、そして、その気になれば実際にできることです。 それが「延命」、そして「不死」(不死としての意識の自覚のことであるが、肉体的にも奇跡的な延命ができる)。 >>707 > 如来蔵や本覚思想とどうかかわるかは、普通に仏教学・禅学・宗学の範疇だけれども、 >≪それが、「アートマン」かどうか?「真我」かどうか?≫ >は、まったくもって、従来の僧侶や学者の領域を超えている。 大乗が大乗の特徴としての「仏性」の教義に拘り続け、 これを「如来蔵や本覚思想」として発展させたというのは、まさに「自性清浄心」がゴータマが実際に説いたものとして、 つまり、一切法(無常/縁起)には抵触しない「無為」だとして認める見解だということでしょう (水野氏個人は「自性清浄心」は原始仏教の教えとしては成立してないと見たかもしれませんが、 大乗についての解説ではそうなっているものと理解)。 私もこれに大きく同意します。これが大乗の最大レベルで良い点の一つです。 要するに、 これまで反仏教とかヒンドゥー化などとも評されてきた“如来蔵や本覚思想”こそが 実際には、ゴータマの説かれた“我々の目指すべき完成の自己”を象徴したものなのだということ。 これをウパニシャッドのアートマンとは別に同じではないとするのならば、それは結構です。 それはヒンドゥーを学んでよく知ってる者と知らない者との視点の差異ですから。 脳科学が仏教に同意「無我を全面的に認める」! 一方、ダライ・ラマは「科学に改宗してもいい」 https://a.excite.co.jp/News/odd/20170202/Tocana_201702_post_12191.html ところでテーラワーダに限らずダライ・ラマにしても他の仏教宗派にしても我(アートマン)の実在を認めている宗派はありませんよ 宝珠には、 「文脈で」 という言い方が、未だに理解してもらえない・・・ orz 仏典に書いてある書いてないでなく、どのように解説(注釈・伝承)されたか、でもなく、 提示された、及び、インド宗教思想の考古学的分析の上でも文献学的分析の上でも、 (そして、あらゆる、『仏教的手法による』瞑想に於いても)、 あらゆる情報を総合して、全方位分析した時、 その時どこに「アートマン」が「真我」が見出し得るだろうか?(【必要】だろうか?) ということなんだけどね。 そして勿論、『仏教的手法』を用いないならば、 それは仏教ではないし、ゴータマの系譜でもないのは理の当然。 そう、 そうなんだよね・・。 (って、自分で大発見的発言になるけどw) たとえ、「一千億歩の一千億倍」譲って、『あらゆる宗教的思想は、一つの真理を示している』 という言辞を受け入れたとしても、 そこへのルート、アプローチの手法が、もし異なるなら、 それは、それぞれの手法毎の思想・宗教となる筈なんでね・・。 その意味で、異宗教異思想は存在していいし、ただ、具体的に手法が異なるなら、 それは、別の括りをすべきなんじゃないかなぁ・・と。 キ教イ教的一神教的世界観は、仏教的世界観とは決して相容れないわけだけれど、 それでも、ゴールの「安らぎ」「寂静」を同とするなら、それはそれでいいだろうが、 やり方が違うなら、違うと言わざるを得ないわけでね・・。 ttps://drive.google.com/file/d/1zH28jxeR4sm8FMVzIwh5rGcq-nkcM2MM/view (寄稿)精神世界、無関心な私たち 高村薫 … …(宗教の名のもとの)教義と信仰に依る犯罪だったのか?… … …変性意識状態を得られる?… …教祖の教えを信じた?… ttp://www.onedhamma.com/?p=6687 ポスト・オウムの<魂>のために 今回のpodcast法話でも 「(一応、仏教では)我ではない。魂という『想い』ではない」という説明をした上で それでも (大乗 1.0の世界観を前提としているので) 「解脱智見をするためには ヴェーダなどの 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない 本当の自分(根源的な?魂) という対機説法も、わかりやすくて良い」という説明もしている しかしまあ、よりによって豪雨被害地域真上を通過する台風とか・・・ ttps://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E4%B9%97-70827 三乗 1)は声聞乗。苦,集,滅,道の四諦(四聖諦)を悟り阿羅漢となるための実践 2)は縁覚乗。十二因縁を悟って独覚(縁覚)となる 3)は菩薩乗。無上菩提を証得せんとする菩薩たちの道 ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 上座部 パオ・セヤドー 五禅支 ヴィタッカ(尋) どこかへ飛んでいってしまう心の働きを 集中対象である呼吸に戻してくる要素があります − これに対して − (中国経由の)日本の禅宗系?とかは すべて本来自性清浄涅槃なので それゆえに (心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて) 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 大乗の場合は 仏そのもの 仏性からの真如縁起なので 上座部系の菩提分法という方法と 日本の大乗系の「元々仏そのもの」は 世界観も(涅槃に戻るための)方法も違う ttp://www.onedhamma.com/?p=5136 魚川祐司氏:藤田一照氏:山下良道氏 このpodcast法話を聞けば 1.0と 2.0の違いもわかるかもしれない オウム元幹部たち残りの6人も26日に死刑が執行された(6日の麻原を含む7人に続いて)。 結局、一審では無期懲役の判決だった井上や自首した岡崎も減刑はされなかった...。 教祖麻原の除く他の幹部たちはマインドコントロールさえ解ければ、 ごく普通の庶民に過ぎなかっただけに麻原と同じ死刑執行はというのは悔やまれてならない。 私の職場でもごくたまに宗教云々..という話題が上がることがあるけれども、 どうも若い人ほど「宗教は興味なし」という態度を見せる印象がある(年配者もそういう人が増えた)。 しかし、調査データからみても日本人が元々、宗教嫌いということは全然ないのであって、 ただ詳しいことまでは知らないというだけに過ぎなかった。 今でも、多くの家庭には神棚があり、そして仏壇がある。 また初詣(三が日)の参拝者数は有名どころはいずれも300万人超であり、日本全体では1億人近い(メッカの巡礼月ですら約250万人だという)。 日本全体での各宗教信者数の総計人口(登録報告)は重複分を入れて軽く日本の人口を大きく超える (まっ、中身はもちろん、いろいろな程度のレベルの人たちだが...)。 それがこうも宗教嫌いのような態度が増えたというのは、やはり一連の新興宗教団体による行動や事件による不信感と嫌悪感に他ならない。 オウムは当然のこととして、それ以前からも、悪霊払いで死亡させただの、 足の裏臭いですねぇ「幸せですか/幸せで〜す!!」や、ミイラ化した遺体が発見されただの、 「グルは死なない.サイババの勝手なんですよ!」のライフスペースとか、スカラー電磁波の白い団体パナウェーブとか、 もう訳解らないのが次々と溢れかえったから。 要するに、正確には宗教団体に対する不信感だということ。 そして今また、あのアホのビジネスマンの科学が、 死刑直後の麻原の霊言を伝えるとかいう本を出して被害者感情をまったく無視した商売行為をしてる...。 >>530 成田山新勝寺では、 希望者は誰でも最長、6泊7日の断食参籠修行を体験することができます。 歌舞伎の市川團十郎は代々ここで断食行をしてきています(特に、二代目は二十一日間の断食行を敢行している)。 また、新勝寺に隣接する成田山公園内の滝では、その昔、団十郎も滝修行をしています。 今でも、一般で滝行指導を受けられるかは未確認。 毎月の不動尊御縁日は私もプチ断食しているけれども、 俳優の榎木孝明氏は「30日間固形物を口にしない」という驚異的な「不食」の行を達成している。 この人は本物の達人だと私は思う。 では、再び「無我」に関して投稿していきます。 断食ではなく 金剛界法 胎蔵界法 如意宝珠法 護摩法とか (無料で公開して) 教えて頂きたい所存で おじゃります m(_ _)m 越法罪とかがあるので 正式な真言宗の僧侶じゃなきゃ無理だと思うけど… ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html 護摩の思想は インドから中国を経て空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され 火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼くという思想に至った _ _ _ >無我 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない 本当の自分 仏そのもの 本来自性清浄涅槃ということで良いと思うけど 仮設としての 無明に依存している、我ではない。という意味として ↓おじゃるの知り合いには創価信者が多い ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A 創価学会 1930年 牧口常三郎と、戸田城聖ら 1960年 池田大作が第3代会長に就任 1991年 日蓮正宗は、「創価学会」と「創価学会インタナショナル」(SGI)を破門した … 創価学会は「霊魂は存在しない」と断言している _ _ _ どうして「霊魂は存在しない」と断定するのか? その理由を聞いてみたい所存で おじゃります m(_ _)m おじゃるの知り合いの創価信者は 「霊魂について語ることは霊魂のことを馬鹿にしてることになるので それゆえに霊魂について語ってはいけない」 「(創価信者は)神社・仏閣・霊場・心霊スポットとかに逝ってはいけない」 というような感じのことを云ってたきがする とりあえず今の現状では 創価は日蓮正宗を破門されているらしいけど かつては繋がりがあったかもしれない? 日蓮宗の三木大雲僧侶の場合は ttps://www.youtube.com/watch?v=HFfwX4QSGbI 「仮設としての」という意味で、幽霊肯定という感じがする 古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。 それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。 ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。 夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。 目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。 (「ヨーガ・スートラ」、同上) このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。 さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。 (同上) とか、 心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。 (同上) などともいわれます。 夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の目的だったろうと思われますが、後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。 いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。 このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。 つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。 このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。 ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。また「友」と呼んでもならない。 わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。 (『マジマ・ニカーヤ』26) と宣言します。 すなわち、「buddh =眠りから醒める」という言葉を用いることによって、彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定にあることを主張したのだ、と考えられます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html 面白い発想、と思ったら佐倉さんw けど、 煩悩、欲望、自意識、怠惰、快楽に浸っていたいと思う、その意識自体が 夢の中(無明、顛倒妄想、三毒の中)にある、という意味では、 確かに、「それらを離れた賢者」は、『目覚めた』人に他ならないわなw 実際、伝承されている「評」も、 まさにその、「世俗の満足は、夢のような満足」であるというものだしな・・。 そういえば、昨日のNスペは、 アインシュタインの脳の解析へ向かう一歩の話だったが、 常人とは相違する特徴的な部位が有るらしい。 お釈迦さんも、特殊な部位があったかもな。 ttps://www.youtube.com/watch?v=Agd1tvxsZ2g NHKスペシャル アインシュタイン 消えた 天才脳 を追え 2018年7月29日 ttps://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180729_2 宇宙・科学・テクノロジー アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え 初回放送 2018年7月29日(日) 午後9時00分〜9時49分 >>729-730 ホーウ... ヒンドゥーの神通は単なる夢想に過ぎないとはね? 仏典も同じくそれらの神通が説かれてるのに... 仏典の場合には夢からの目覚めとは、 これ如何に? あまりにも幼稚な発想です。 この内容は以前にも見ているけれども、 そのときはそのような文句を 『ヨーガ・スートラ』からは見つけることはできなかったのだけど、 それは単にこの私の見逃しなのですかね? それら(聖句)のすべてが一体、『ヨーガ・スートラ』の”第何章何節”のことなのかを明確にしてもらえます? すぐ確認するので早急に宜しくお願いします。 ↓怪しいリンク先かもしれないけど、とりあえず ttp://www.bukkyou-bungaku.com/buddhism/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%9B%9E%E3%80%80%EF%BD%89%EF%BD%8F%EF%BD%94%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82%E3%80%8D/ ↓大乗はバラモン教の世界観にもどった? 道元 尽十方界は是(本来自性清浄涅槃そのもの)自己なり (本来自性清浄涅槃そのもの)自己は尽十方界なり (それゆえに、すべて無住処涅槃である?) ttp://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm 宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、瞑想の中でありありと直観する 梵我一如 無知と破滅が克服され… 仮設としての 縁起している世界を超えていく? (無明している世界を超えていく?) ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本 … 縁起したものを離れることがある 縁起したものを手放して超えて ブッダは そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも 死ぬことも、生まれることも説かない それこそが苦しい。という『想い』の終わりである (「…である」と定義することはできない。「…である」という『想い』ではない) これも何回も説明しているけど 中観自立 有相唯識 無相唯識 中観帰謬 それぞれ依って立つものが違うでしょ?ということ ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf ダルマキールティ(唯識派) 光が輝くとき その輝くこと(照明)を本性とする故 自己自身を照らす そのように 智慧(と慈悲)も自己を認識する 智慧(と慈悲)は光の如く 照明することを本性とし 他に依存することなく 自ら輝き現われる − これに対して − カマラシーラ(瑜伽行中観派) 恒常な照明されるもの。という『想い』は常住なものとして存在しない ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm 上座部 パオ・セヤドー 智慧(と慈悲)の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます そして、たぶん 最終的には 智慧(と慈悲)の光も含めて 縁起している世界を手放して超えて逝く (たぶん上座部系も中観帰謬に近いかもしれない?) ↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 現代の科学崇拝においては 大槻義彦教授のように 「インチキだ!ヤラセだ!合成写真動画だ!」と断定する学者も多いかもしれないけど それでも、とりあえず (↓仮設としての。縁起している世界において) ↓検索キーワード ワイルダー・ペンフィールド 魂 イアン・スティーヴンソン(前世の記憶を持つとされる子どもたち) 脳神経外科医 エベン・アレグザンダー(死後の世界) ピタゴラス ゾロアスター教とか 古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生など 古代ギリシアの哲学者プラトン アトランティス エジソン 死者との交信について研究を続けた ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3 死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか? 曹洞宗 内山興正 『霊魂はある』ということで ヨロ m(_ _)m ttps://www.youtube.com/watch?v=crOX7l4xkzs 日蓮宗 三木大雲 京都の心霊(深泥池?) >>735 このベストアンサーの解説は、 確かに親切丁寧でとても素晴らしいものです。 しかしながら、それらは30年以上も前とかならば通用したものであって、 今ではもう古くて時代遅れの内容です。 従って、これでは間違いとなります。 それから説明で使われていた、 「魂」(Jiva/ジーヴア)というのは輪廻主体としての「識」であり、 アートマン(真我)とは異なりますから。 その辺は非常に重要なところなのでそこを曖昧でテキトウでは困ります。 【悲報】早稲田大教授「ピップエレキバンは完全なインチキ商品。なぜ薬事法違反に問われないか不思議」 ・ [471942907] http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1533015091/ 252 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ d390-kTp/) :2018/07/31(火) 18:19:58.07 ID:zHHz53Gf0 >>20 本当の科学者ってのは、「幽霊はいない」なんてことは絶対に言わない。 その断言自体が、逆に科学的な考え方じゃないから。 本当に科学的な考え方の出来る奴は、ビリーバー達が持ち出す 個々の「証拠」に対して、「それは幽霊がいることの証拠にはなりませんよ」と 反論をするだけ。 これは、「幽霊はいない」と主張することとは、全く別。 「幽霊がいない」ことの証拠もないのにそんなことを断言しちまったら、 自分もビリーバーと同じレベルに堕ちるということを知ってるのが、 真の科学者。 ID:xAjPdnFu師匠本人の個人的な見解が >本当の科学者ってのは、「幽霊はいない」なんてことは言わない ということで良いのかしらん? 或いは(ID:xAjPdnFu師匠本人の個人的な見解ではなくて) ID:zHHz53Gf0師匠の見解のコピペだけ? ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E7%BE%A9%E5%BD%A6 大槻義彦 超自然現象や超能力などを科学者として徹底的に批判する学者としても知られる 「月の石はアメリカの砂漠の石」発言のように 発言や著作では科学界の通説とは違う独自の説を唱えて 反オカルト、月の石捏造説など、彼の専門外の話題発言が多い アポロ宇宙船が持ち帰ったとされる「月の石」はアメリカの砂漠の石と同じもので 世界中の物理学者が分析しても何の科学的成果も得られていないと主張している アポロ月着陸捏造説については 「自分はアポロ宇宙船の月着陸が捏造だと認めたわけではない」としているが 捏造は否定しておらず、「ノーコメント」を強調している 有人宇宙飛行について、投下した費用の割に目立った研究成果が無い 宇宙滞在の実績の意義が見出せないことから、『ブードゥー科学(英語版)』と否定的である _ _ _ ↓おじゃるの個人的な見解としては 本当に月に逝ってたとしても (現代の科学崇拝の測定器などによる分析においては) 「(月の石とされているものは)地球のどこかの石である可能性がある!」という感じがする 魂は巨大妄想の産物である 〜仏教の無我は因縁論です〜 The theory of soul if a product of wishful thinking http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html ↓訂正してお詫び申し上げます スマソ m(_ _)m ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%9F%B3#%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%9F%B3%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%AA%AC 月の石捏造説 『大槻義彦教授が勘違いしてた!』という感じであるらしい (月の石の肯定派による ヤラセ!仕込み!という可能性もあるかもしれないけど…) ttps://indeep.jp/precursor-to-2011-giant-japan-earthquakes-detected/ 巨大地震の前に《異常》が起きていたことをNASAの人工衛星が検知していた 人工衛星からの観測によるデータ 「地震の直前に上空の電子数が増大していた」ということがわかった _ _ _ 大槻義彦教授の場合は 「この上空の電子数を観測をしても、あてにならない それゆえに 上空の電子数の観測は金の無駄使いである!」 というような発言をしてたこともあるようで おじゃる _ _ _ おじゃるの個人的な見解としては 地震の直前に上空の電子数が増大する場合があるのなら (多少の?)金の無駄使いであったとしても 上空の電子数を観測するべきである という見解で おじゃります m(_ _)m >>742 ホント.必死ですよね! 執拗なまでに...。 彼らは何故こんなに繰り返し叫ぶのか? それは、近代仏教学の研究によって彼ら(部派)の間違いが、 つまり、「アートマンは無い」などというのは、 部派によって勝手に創りあげられた教義だったことが明らかにされてしまったからです。 だから、こんなにも必死なんですよね。 >>717 >仏法は無我にて候 >古くからそう言われている 確かにそうです。 それが仏教の一大特徴ともされてきた...。 『「仏教は無我にて候」と昔からいわれている。しかし、最初期の仏教では、無我説ではなく、非我説が説かれていたと見るべきである。 無我説は、そもそもアートマンなるものは存在しないという、高度に形而上学的な議論を骨子とするものであり、釈尊には似つかわしくな い。ちなみに、のちに無我説を唱えた仏教は、輪廻の主体としてのアートマンがないのなら、輪廻や因果応報をどう説明すればいいのかと いう問題の解決に苦心することになる。とてもではないが、無理なことを説明するために、多大な学問的労力が払われた。』 (宮元啓一著『仏教誕生』筑摩書房刊p173-174) 『この無常観をさらに補助するものとして考案されたのが、非我説、非我観である。「我」の原語は、サンスクリット語で「アートマン」、 パーリ語で「アッタン」であり、要するに、先の第三問で見てきた「自己」のことである。自己は、輪廻転生を貫く主体であり、常住にし て不変だとされる。ところで、われわれは、心身を自己だと勘違いすることが多い。だからこそ、人生の無常がわからず、死という無常に 直面するまで、安逸に生きてしまうことになる。これを戒めるために、ゴータマ・ブッダは、心身を五つ要素に分け、そのいずれも常住の 自己ではない(非我)と説いた。これを五蘊(ごうん)非我説という。 ---非我説から無我説へ--- 一方、ゴータマ・ブッダは、経験論の立場をとり、経験的事実を出発点としない、いわゆる形而上学的な議 論には、みずから口を閉ざし、また、弟子たちにも、そのような果てしない水掛け論に熱中して修行がおろそかになることを強く戒めた。 そこで、ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いているが、自己をめぐる形而上学的な質問には、沈 黙をもって対応した。 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも自己ではないならば、そもそも自己なるものはないのだと する、きわめて形而上学的な無我説が誕生することになった。親の心、子知らずというか、後世の仏教徒たちは、ゴータマ・ブッダの重要 な戒めを忘れてしまったのである。』 (宮元啓一著『インド哲学七つの難問』講談社刊) >>688 >なんで清浄心が無為になるの? >論理が飛躍していますねえ。 >自分がそう思うというそう信じるに止めるのならそれでも良いけど、 >人の前で「本当の仏教では煩悩を制御すると無為なる本性清浄心が出てくる」などという独説を唱えたりはしないことですな。 それこそが本当の仏教だという言い方についてはこの私も控えますが、 しかし、少なくとも大乗(の「如来蔵」)においてはこの自性清浄心を無為法だと理解してホトケの所説とします。 私もこれには大きく同意したいと思います。 注15 『如来蔵や仏性を無為真如とのみはいえないかも知れない。真如随縁を説き、真如は有為法とも密接に関係しているとするから である。なお唯識において阿頼耶識に依付するとされる本有無漏種子と如来蔵や仏性とは同視できないであろう。無漏種子は生滅変化す る有為法であるのに、如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである。』(p510) (水野 弘元著『心性本浄の意味』) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf >これもさ… >結局清浄心というのは現象界の無常無我無自性とは違うものといったらアートマンと変わらなくなるじゃん! >結局清浄心こそがアートマンであるといいたいんでしょ? >あなたが全面的な信頼を寄せている水野弘元氏はそれとは反対のこと言ってますが。 確かに、この私はアートマンと同義だと見ています。 水野氏はそうではないと否定していますけれど...。 しかし失礼ながら、 水野氏はこのことに関して複雑に混乱を起こしてるように私には見えます。 要するに、無理やり一切法の無常・無我・無自性/空の法規と照らして問題有りとして、 これを間違った記述扱いにしようとしているのです。 けれどもそうではなくて、最初から素直に経文の言葉通りとして受けるならば「無為法」としては何も問題はないのであって、 一切法の法規に抵触することはないのだということ。勝手に、“ブッダの教え(言葉)を違法扱い”する姿勢というのはどうにも戴けない。 経文通りの無為ならばブッダの教えとしては何も問題がないのだから。 さすがに水野氏もこの句を混入扱いとまではできないとみえて、そして、いろいろとあれこれ苦心した挙句に、 この自性清浄心は(消極と積極の二つの内の)積極的な清浄のことだなどとします。 そして、その積極的な清浄心は仏典においては他にも説かれている、とするのです。 『それでは浄潔や浄白の意味はいかなるものであろうか。パーリ辞書によれば、これらの語はともに「清い」「白い」「清浄」などと説 明されているが、その具体的な意味は明らかでない。元来清浄ということには積極・消極の二つの意味があると考えられる。積極的な清 浄とは繊濁を除いて洗い浄められた状態であり、心の場合ならば、修行によって煩悩汚濁を除き、清浄なる悟りの智慧が得られた状態を 指すのである。これに反して消極的の清浄とは濁り汚れのない清水や白紙のような状態であり、心についていえぱ、善悪のいずれにも染 まない無記の状態を指す。それでは「心が浄潔である」とは右のいずれの清浄を意味するものであろうか。原始経典やパーリ仏教におけ る心清浄は積極的のものではなく、消極的意味の清浄と考えられる。何となれば、もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄 な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。ところが一般の心は汚れることもあれば浄まることもある。(p12) ---中略--- このように、心性清浄には消極的と積極的の二つの意味があることは否定できないであろう。そして心に理想追求への積極的な可能性 や能力としての如来蔵や仏性を認めなければ、修行証果の可能性も説明できないことになる。原始仏教で信等の五根や三無漏根などが説 かれたのは可能性としてのものではないが、心に積極的な清浄のはたらきがあることを経験的事実の上からのべたものであろう。 なお原始経典には有名な自灯明(自洲)、法灯明(法洲)の説法があるが、自(attan, atman)は法という真如や理想を理解し体得する能力 をもった自己であり、理想に向かう心をもった自己である。この意味で、原始経典の中に積極的な自性清浄心もすでに至るところに説か れていることが知られる。流転縁起や還滅縁起を説く四諦や十二縁起の中にも積極的な清浄心が予想されており、仏教の根本目的として の「いかにあるか」「いかにあるべきか」という理論や実践の面も積極的な清浄心なしには存在し得ないのである。 ただこのような清浄心としての仏性や如来蔵を外教のアートマンなどと混同しないようにし、両者の明確な区別をつけて説明すること が必要である。』(同著p509) ず、 根本的にどう読んでも文意として自性清浄心が無為を示す以外にはない文言であるにも関わらず (水野氏の言葉でいうと「消極的清浄」ということか)、 これを勝手に何とか有為(一切法)における我々の日常の心のこととして扱おうとするところにそもそもの無理がある。 そのために水野氏による消極/積極の双方どちらの解釈も間違ったものでしかないのです。 私の理解に拠れば、元々、無為として本来は本質的に自性清浄である心が、 この有為の世界においては煩悩によって覆われて汚れている状態であるというのが我々の仮和合の心です。 この両者は意識の深い深い深層域で繋がってはいるけれども、それぞれが次元の異なる別ものなのです。 無為の自性清浄心というのは無始の初めから清浄のままであり、輪廻していない。 けれども、有為の仮和合の心というのは深層部の輪廻する核コアである阿頼耶識と 死後に間もなく消滅するパーソナリティのマインドとが重なったものです。 まっ、これらのメカニズム解というのは、ヒンドゥー及び神智学を学ばない者は殆ど知らない(仏教枠では解説がない)。 そもそも、 もしもこれがゴータマ・ブッダ自らの言葉(教え)ではないとするならば、 いったい何処の誰がどんな意図で以てこのような誤解を生ずる文句を敢えて挿入したというのですか? 水野氏自身もこのパーリ文は消極的清浄の意味であるから一切法に抵触するものとしています。 まったく以て、オカシイではないですか! であるから、これはゴータマが元々、説いていた教えだと見なすことがごく自然なのです。 なのにこれを無理に抹殺したり、無視しようというのは不自然であって、決してしてはならない悪行でしょうよ。 エッ、違いますか! 『もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。 ところが一般の心は汚れることもあれば浄まることもある。』(同著p507) 汚れているのは、正しくは有為における心のこと。 無為の自性心は最初から、そして、今も汚れることはない。 では何故、有為の心というのは最初から汚れているのか? そのことを仏教では「無明」といってるわけですよ 『邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩で、十二因縁の第一、三惑の一とされる。 サンスクリットでアビドヤーavidyā。原始仏教においては〈四諦の理を,あるいは縁起の理を知らないこと〉が無明であ ると定義される。』 (「デジタル大辞泉の解説」より)。 >自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。 >如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。 >これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。>>662 http://fallibilism.web.fc2.com/023.html 「無明」について分からないというのは当たり前のことであって、 これを説明しなかったのはゴータマ当人なのだから(なので、悪いのは別に如来蔵派ということではない)...。 尚、ヒンドゥー及び神智学を学ぶ者は当然、その理由や原因についてはよく分かっているので、 それらの初歩的な疑問はすべて解消しています。 しかし残念ながら、仏教では多くの事柄に対して説明無しということが多々あって、 それでも平均的な仏教徒というのは、それ以外を学ぶことがないのでいつまでも無知のままです。 テーラワーダ信者のようになると、仏教以外はすべて低い教えで迷信扱いと洗脳されているので、 自ら他の思想や宗教を真剣に勉強しようとする人は殆どいない (彼らの知っている情報はすべてテーラワーダ発信のものばかり)。 以上. >>712 >究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。 アートマンを自覚するということは、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するのです。 >>718-719 それらはすべて有為法の説明です。 アートマンはそれらに抵触しない。 >>713 >脳科学が仏教に同意「無我を全面的に認める」! 一方、ダライ・ラマは「科学に改宗してもいい」 >https://a.excite.co.jp/News/odd/20170202/Tocana_201702_post_12191.html 「有為」である「一切(法)」が無我(そこではアートマンと認知できるものはない)なのは当たり前の話です。 それは真理なのですから、私はそのことを否定したことはありませんよ。 ただし、アートマンは最初から有為などではないので、それらの無我の教えには何も抵触しないということ。 そのことを分からない者だけが「無我だからアートマンは無い」と連呼するのです。 >ところでテーラワーダに限らずダライ・ラマにしても他の仏教宗派にしても我(アートマン)の実在を認めている宗派はありませんよ 私も猊下のことは、 仏教と出逢って以来〜35年間ずーと尊敬しています。 2015年ダライ・ラマ法王14世来日法話「般若心経・菩提心の解説・観音菩薩の許可灌頂」 の法話の一部を地方の映画館にて拝聴もしました。 しかし、だからといって全面的に何でも信じるわけではないし、 法王が観世音菩薩の化身だなどとは見てはいません(歴代数回の法王の転生には間違いないものとみてるが)。 そして、仏教史から判断して、「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」なので、 現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派は一つも存在していません。 当然、ダライ・ラマ法王とて然りです。 『第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏教に おける無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘 して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代 に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。 したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナ ーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体とし ての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而 上学的論議として斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の 意味の無我説がゆがめられたのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き 生きしたブッダの無我観が、部派仏教になると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論 との対決という観点から、“我を立てない”無我論へと移っていったのである。シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳 したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏 教のアナートマンの原義にふさわしい。』 (『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95) >>715 >仏典に書いてある書いてないでなく、 その経典の記述を最重視しない姿勢というのは “禅の傾向”“禅宗の特徴”なのだろうか? 結局、座禅にひたすら専念するということなのだから (臨済の公案もあったり、作務行も当然大切だけれど)、経典の記述などは二の次だ。 要するに、経典に書かれてある内容をどれだけ知っているか、理解しているかは然して問題とはならない...。 それよりも、師僧(老師)からの指導が最重視だから。 で、その導師グルが間違ってれば皆んな間違うのだから、洗脳のコワイところだけれども...。 かつて私が電話で輪廻についての宗派見解を教えるよう呼びだした黄檗宗の大本山萬福寺の高僧 (電話で呼び出したので幾段階かの高僧には間違いない)なんかは、 「そんなものはない」と荒々しい声を張り上げて豪語して私からの電話を切った。 どうも何故だか、禅宗僧侶には輪廻すらも否定するような唯物論者らしきが多いような印象を受ける。 南 直哉とかいう曹洞宗の禅僧もそう。輪廻などまるっきり信じちゃいない。 それで自分は僧侶には向かないものとかなり葛藤する経験をするのだけれども、 「そういう者は僧侶はやるな!」とこの私はいいたい。 まったく向かないし、するべきじゃないから。 良く見られるような、ただ単に家の寺院を継ぐために止む無し...などというのは、 信者たちに対して失礼であり、唯物論者の僧侶による引導や年忌法要など...は、 ハッキリいって詐欺に他ならないから。 >>716 手法が異なるから別の宗教だとはもちろんその通りです。それはいい。 では、手法が異なるとその結果(そのゴール)も異なるのか、否か? 「その時になりゃ嫌でも分かるさ」だから、 今はそのことは問わないとするのは、もちろん構いません。 しかしながら、その判断の危ういことが指摘されているにも関わらずそのことには目耳を塞いで、 ヒンドゥーを間違いと決め付けて馬鹿にする。 尚且つ、仏教だけが唯一の真理でありそれ以外は間違った低いものと断罪するのは如何なものか? 私は、“自分の信じる宗教だけが唯一の真理”と説いているところでロクなものを知らない。 そのようなことを主張する宗教にはロクなものがないのは歴史が証明してきた。 『この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのように さまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。(891) ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の 諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。(891) 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、 「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。(891)』 (スッタニパータ) これらが仏教徒(現テーラワーダなど)には当て嵌らないなどと、 どうしていえるのですか? >>692 >宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべきだと、 >心の底から思う。 by7 ならば、 駒澤大にでも電話して聞いてみますか(それともメールかな)? う〜〜む...。いや、それはやっぱり、どうも気が重いよなぁ.あっははは!!(苦笑) では、 一代によって“近代仏教学の天才”と評され、 何とあの長老からも 『石飛道子先生は、元々は 仏教が専門で、上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老をして 「日本の仏教学者で仏教を一番理解しているのは石飛先生だ」と言わしめた方(石飛先生は専門は大乗仏教の方のようですが・・)。』 https://kelp.jp/blog/other/1425/ ともいわれている期待の学者さんなので、まずこの石飛女史に答えてもらうこととします。 以前、女史とは軽くメールを交わしてもいますが(面倒なのでそのことは伏せて)、ごく簡単な質問に対して返答してもらいます。 果たして、一体どういう返答を書いてくるのでしょうか? わたしにもまったく分かりません。 想定通りか、いや、それとも想定外でしょうか? ワクワク いずれにせよ、その返答については私も真摯に受け止めて今後の良き参考にしたいと思います。 質問はちょうど今、ここで議論して私から仏教の無我の教義に関して主張している疑義についてです。 それを公開のBBSで投稿して、そこで返答を頂こうかと思います。 尚、議論する意図はまったくありません。 >>727 >金剛界法 胎蔵界法 如意宝珠法 護摩法とか(無料で公開して) >教えて頂きたい所存で おじゃります m(_ _)m >越法罪とかがあるので >正式な真言宗の僧侶じゃなきゃ無理だと思うけど… ちなみに私個人は、 “密教にもっと深く参入してこれを極めたい”的な想いはまったく以てない。 それだったら、最初から迷わず正式な密教僧への道を志す。 もしも、僧侶にならず護摩を自分で焚けるところまで修得するのなら、 阿含宗に入会して1回10万円以上の伝法勧請を何十回?と受講していくか、 何処かに師僧を見つけて在家のままでも伝授して頂けるよう自分を認めてもらう以外ないのでは? あとは、醍醐派系や真如苑とかならば道が開かれているかもしれないのと、 或いは、山岳修験道(山伏修行)ならば護身法と不動金縛りの術、九字と早九字は修得できるでしょう。 在家として勉強できる書籍は、現役真言僧が著した『実修 真言宗の密教と修行』くらいでしょうか。 この書籍で密教僧による十八道(十八契印)の解説を写真付きで知ることができる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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