>>651
>勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、
>最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである―
>という言い方が妥当かどうか、だが・・・。

>>635-636でも述べたように、
心(citta)そのものは、もちろん「真我」(アートマン)などではないけれども、
しかし、訓練によって心(citta)を制御することで、
心(citta)の奥深い「識」の更に深層で繋がっている“本来の清浄で輝いている自己”が顕現できるようになる。
心(citta)〜意(manas,mano)〜識(vijnana,vinnana)までは現象界(有為)に限定された一切法ですが、
これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、
それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。
次元のネジレの果てにおいて繋がっている的な云い方しかできないでしょうね。
“本性清浄心”が一切法の中に在るというわけではない。
私の見方では、この問題はその辺の誤解なのだろうと思われます。