すでに繰り返し言っているように、心性本浄説について考えるとき、まず問題となるのは「性」であった。
このことについて水野弘元博士は、
「大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、清浄なる本性としての常住不変とも見られる心性が考えられているのに対して、原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、……。
元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである(25)」
と述べておられる。
http://fallibilism.web.fc2.com/023.html

水野先生の視点だと原始仏教では一切法は現象界に限定されるので全てが無常であり、
仏性や如来蔵などの心性本浄つまり常住不変の(浄らかな)心が入る余地はないとのこと。

また同じサイトに

自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。
如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。
これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。

とあるが確かにそうだ。
自性清浄なら十二因縁の最初は少なくとも無明ではないでしょう。