外教の説く形而上学的実体を排除するためであった。ところで積極的自主的に作用する心のあり方について、
 外教ではこれをどのように説いていたかといえば、正統派[バラモン、ウパニシャッドの系譜]と
 非正統派[正統以外の遊行者達、沙門と呼ばれる系譜]ではまったく違った解釈をしていた。
  正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、
 有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、これを不生不滅の本体的存在とした。
 我は心の中心となって自主自律的に活動する主体である。
 これに対して、非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、
 精神的存在をも物質的に考え、我(霊魂)を不生不滅の本体であると説くとしても、
 それは自主的な積極活動をなすものではなく、他の力によって機械的に動かされるにすぎないとした。
  周知のように、仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、
 心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという
 無我縁起の説を立てた。
  このように仏教では生命活動や精神作用を自主自律のものとして認めるとしても、
 【その奥に常住の本体があるかないかはこれを問題とせず】、【現象として表面に現れているものだけを】考察した。
 この意味の生命や精神の自主的活動力のことを仏教では根(indriya)と呼んだ。[生物学的器官も含。]
 根の概念は仏教以前のウパニシャッド等で既に説かれており、仏教もこれを採用しつつ、仏教独自の立場から解釈した。』