--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 ヘピーマン出て来るにゃん!
ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`)
南無南無 (*^人^*)
>>65の続き
最終的には?
仮設としての
色蘊(肉体・身体)が生きている
有余涅槃も手放し
縁起している世界を超えて
無余涅槃
というような対機説法であるらしい
>>68
今その動画を見たけど
歌詞も聞こえ難いし
喋ってる声も聞こえ難いので
意味が、わからないので
ご教示願います ヨロ m(_ _)m >>67
手放すとか超えるとか、抽象的でよくわからんなあ^^
釈迦というか仏陀って人間じゃないの?
ただのオッサンでしょ^^ >おじゃる
ここのスレ主は、宝珠なので、本来、オレがいうべきことではないんだが・・・・
お前さんが呼び込んだ、閻王 は、基地にゃん ですよ。
貴方は、荒らしを呼び込んで、このスレが荒れることに協力するつもりですか?
誰とでも安易に絡む癖は止めた方が良いと思いますよ。
少なくとも他人のスレでは。 また、言うまでもないことですが、
外道の独り言 11 は、私とは何の関係もありません。
スレタイ とテンプレをパクッテましたが、 まあ、アホ嫌がらせとして
以後、スルーです。
>ただのオッサンでしょ^^
シッダールタは
ウッダカラーマ・プッタとか
非想非非想とかがあって
そして、それから
ピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り
悟りに達して仏陀となった(成道)
普通の通常のオッサンではなくて
すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り
もはや再び生死を繰返すことがなくなった
阿羅漢果
有余涅槃・無余涅槃
というような対機説法であるらしい
それでも
たとえば
おじゃるの場合は
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
>>71
>閻王 は、基地にゃん です
縁起一代さんと
議論していた
かつての閻魔さんと勘違いしてました
以後
IDとかも確認して
気を付けたいと思います
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
>>72
了解でつ
>>53のところの
宗教に対する、懐疑
宗教哲学(philosophy of religion)
間違いがあるのなら、ご指摘願います
>誰とでも安易に絡む癖は止めた方が良いと思います
その結果として
勝義一辺倒の勝義房に叩かれたことが
しょっちゅうありました
ということで
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
(おじゃるは
上座部 2.0の立ち位置なので
勝義一辺倒の勝義房に叩かれた
という意味でつ) >>73
ただのオッサンは言い過ぎた。
釈迦とその辺のホームレスのオッサンと何が違うの?
悟りって何なの?
何も考えてないアホと何が違うの^^
>何も考えてないアホと何が違うの^^
仮設としての
無明に依存している
>何も考えてないアホ
(これは、おじゃるのことでつね?)
− これに対して −
すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった
尊敬や施しを受けるに相応しい
阿羅漢(あらかん)
釈迦
違いまつよね?
同じようにみえまつか? 77.煩悩を断じる、バカである。
煩悩を断じる必要がない。 >>77
すべての煩悩を断じ終わるって何も考えないことじゃないの?
輪廻のことも考えないから再び生死を繰り返すこともなくなるんじゃないの?
何も考えないアホは、尊敬や施しを受けるに相応しくないの? 本能は煩悩にあらずじゃ。
南無南無 (-∧-)合掌・・・ A 「滅」の原語の意味
「四聖諦」は原語では、
苦しみdukkhaという真理
苦しみの成立dukkhasamudayaという真理
苦しみの消滅dukkhanirodhaという真理
苦しみの消滅に赴く道dukkhanirodhagamini patipadaという真理
です。
この中の、「消滅」は原語ではnirodhaですが、この原語nirodhaの意味は、インド一般では「修養につとめる(人)」あるいは「(ヨーガ行者が)心や感官を制しておさめる」という意味で用いられているそうです。
チベット訳も「制する」「ととのえる」という意味の訳語にしているそうです。(何かで読んだのですが、チベット訳は比較的原語の意味に忠実であるとされていました。)
中村氏は「nirodha(心や感官を制しておさめる)」ということは、仏教の理想の境地であると考えています。
確かに、スッタニパータにも妄執に突き動かされ暴れる心を馬や馬車に譬え、馬(馬車)をうまく制御することが大切だということを説いています。
ところが、nirodhaを漢訳では「滅」としたために、仏教が虚無論を説くものという印象を与えていると言います。
本来は、四聖諦のnirodhaというのは、ほしいままの欲望を制御し、苦しみをとじこめてしまうのがもとの意味であり、
その結果、静まったやわらぎの状態をもたらすことを目指していたのが本来の四聖諦のnirodhaの意味であるといいます。
http://www.geocities.jp/avarokitei/shotenporin-kuwasiku-miru/5-sishotai.htm
>虚無論を説くものという印象を与えている
その結果として
机というコテのナンチャッテ覚者タソとかは
「(仮設としての)縁起している、すべては無だ!」と云ってました
勝義の立場としては、これで合ってるのかもしれないけど
導くための
対機説法としては
やはり
上座部とかの
(感官を制しておさめる)
苦集滅道というような説明の方がわかりやすいでつ
_ _ _
>止観
とかを実践して
仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
無為法
「…である」ものではない
という感じでつよね? >>83
「nirodha(心や感官を制しておさめる)」
これを「何も考えない」ことと解釈できん?
できんか^^
>>「nirodha(心や感官を制しておさめる)」
>これを「何も考えない」ことと解釈できん?
感官を制しておさめる
というような段階を踏まえて
その結果として
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
という感じなんでしょ?違いまつか? >>87
「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」
簡単に言えば、何も考えない思わないってことでしょ。
アホと何が違いまっか^^
栄進師匠のスレ
>あらゆる観念、見解を手放して
>縁起している世界を手放して超えているのなら
>縁起している世界の中の
>誰とも争わない
仏そのもの
仏性からの真如縁起
平等性智というような意味なら
合ってるんじゃないでつか? ●「止滅」という言葉
「ヨーガ・スートラ」の第一章の2番
YOGAS CITTA VRTTI NIRODHAHA
ヨーガは心の作用を止滅すること
というように訳されています。
「止滅」、というと、
止める、滅する、ですから、
心が止まって、消滅する、無くなる、
そのような意味かと思っていました。
しかし正直、これがどういうことなのか、わかっていませんでした。
考えが止まって、無になるような感じなのかな、と。
今回、お話を聞いてなるほどと思ったのですが、
止滅はサンスクリット語の「二ローダ」から訳されているのですが、
「二ローダ」は、問題を回避する、という意味があります。
ここでは、
望ましくないものから避ける、問題を取り除く、気づいている、より客観的に物事を見る、
ということなのだそうです。
ヴェーダーンタでの説明ならば、
アンタッカラナ・シュッディ
マインド(内側の道具)を綺麗にすることです。
私が止滅という言葉につけていた、勝手な意味の解釈のように、
間違った見方、偏った見方、主観的すぎる見方を取り除いて、
より真実に近い見方になること、それがヨーガの目的です。
https://www.smilebody-seitai.com/?p=14906
で、ヨガとは心の働きを止滅(客観視してコントロールする)する、のあとに続くのが
そのとき、見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。
で、見る者は純粋鑑賞者、サンスクリット語ではプルシャという言い方をします。
私たちが普段使っているココロという機能。
自分の意識の全てだと思っている・・・反応・知性・自我意識。
プルシャとはそれと全く別個にある、ただ見る存在。
事象に巻き込まれることなく事象を眺めている存在。
ココロの反応に巻き込まれることなくココロの反応を眺めている存在。
何も考えないアホと何が違いまっか^^。という『想い』を手放して
その結果として
仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
無為法
「…である」ものではない
に成るんでつよね?違いまつか?
>>90
本来の状態に戻り帰って
>本来の状態にとどまる
プルシャに戻り帰って
プルシャにとどまる
如来我(仏性)に戻り帰って
無住処涅槃
というような文脈で良いでつかね?
間違ってたら スマソ m(_ _)m >>90
おまえら、ほんまプルシャだのアートマンだの仏性だの好きやな。
そんな人智を超えたものを相手にするんなら仏教は宗教やな^^
栄進師匠も
「…である」ものではない
アートマン
真我
と云ってましたよね?
>仏教は宗教やな^^
たとえば
中観自立とか
中観帰謬などのように
哲学的な?
対機説法のようなものも、あるかもしれないけど
基本的には
仏教も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)でしょ?
違いまっか? >>94
違います。
仏教はあくまでも悟りを開くための実践です。
悟ったからといって人間や自然の力を超えた超能力が使えるわけではありません。
と師匠が言っとった^^
神通力(自在力)
四神足
観神足
般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する
(プルシャが → 縁起している世界を観照する)
_ _ _
神通力(自在力)のようなものも取り扱ってる
対機説法もあるようなので
それゆえに
仏教も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)でしょ?
違いまっか? >>96
原始仏教では神通力なるものを否定してます。
『〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッタは、他の一人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。
私が聞いたことは空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。
実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、
すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためのものでもなく、
死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。 』
(『テーラガーター』995〜997)
>>97
神通力(自在力)
四神足
観神足
般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する
(プルシャが → (仮設としての)縁起している世界を観照する)
円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)
そして、その結果として
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら)
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
_ _ _
道元 普勧坐禅儀
((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら)
(仏法というものが円満に全てのものにゆきわたっているのなら)
修行したり、悟り証したりすることもない
_ _ _
しかし、実際のところは
(仮設としての)有覆無記があるでしょ? >>98
遊行の修行者であるスシーマは、尊者アーナンダのもとへ行き、「友アーナンダよ、わたしはこの教えと規律とのもとで清らかな行いを実践したいと望んでいます」と言った。
アーナンダはブッダにそのことを伝えたら、ブッダは快くそれを受け入れた。
そのとき、多くの比丘がブッダの面前で「生は尽きました。清らかな行いは完成しました。行われるべきことは行われました。再びこの状態にもどることはない、と知りました」と、開悟したことを明言した。
尊者スシーマは、比丘たちと挨拶を交わし、親愛と敬意に満ちた言葉を述べてから、比丘たちに質問した。
「このように知り、このように見ているあなたたち尊者は神変を体得しましたか。
あなたたちは、一〔身〕であったものが多〔身〕になり、多〔身〕であったものが一〔身〕になりますか。
〔身を〕顕し、〔身を〕隠し、あたかも空中〔を行く〕ように、壁を横切り、堀を横切り、山を横切り、障害なく行きますか。あたかも水中に〔出没する〕ように、海中に出没しますか。
あたかも地上〔を行く〕ように、水上を沈むことなく行きますか。
あたかも翼のある鳥のように、空中を結跏趺坐して進みますか。
あの大きな神力のある、大きな威力のある月と太陽とに、手で触れてなでますか。
梵天界に至るまで身体で行きますか。」
これに対して、比丘たちは、「友よ、そのようなことはありません。」と答える。
つづく^^ >>98
つづき
そして、スシーマは比丘たちに問うた。
「では、このように知り、このように見ているあなたたち尊者は、清浄で、人〔の耳〕を超えている天の耳で、天の人との両方の声を、また遠くと近くとの声を聞きますか。」と。
比丘たちは、答えた。
「友よ、そのようなことはありません。」
さらに、スシーマは比丘たちに、あなたたち尊者は、「さまざまな種類の前世の生存を追憶するのか。」
「天眼を持つのか。」「色〔界〕を超越して、寂静な無色〔界〕の解脱に身体をもって触れたのか。」という質問をする。
しかし、比丘たちは、そのいずれの質問に対しても、
「友よ、そのようなことはありません。」と答える。
さらに、スシーマは、ブッダのもとへ行き、ブッダはスシーマに、先にスシーマが比丘たちに聞いた同じ質問をし、スシーマは、そのすべての問いに対して、
「世尊(ブッダ)よ、そのようなことはありません。」と答える。
尊者スシーマは、ブッダと比丘たちの言葉に納得する。(『相応部経典』第2集・第1篇・第7章・第10節=「原始仏典 相応部経典 第2巻 P.239〜253 春秋社 参照)
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって
自分の過去世(前世)を観照する
宿命通とか
六神通とか
四神足などの
般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する
円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する
そして、その結果として
最終的には
縁起している世界を手放して超えているのなら
仮設としての
縁起している世界の中の
すべて一切の諸法も手放し超えて逝く
_ _ _
>>99>>100
その経典リンクがあれば貼り憑けてもらえませんか? 本日は不動尊の御縁日にて
今、菩提寺での大祭(戦没者英霊の慰霊供養&大祭護摩法要)
から帰宅したところです。
>>95>>97>>99-100
栄進さんへ---こんにちは。
以前に栄進さん相手宛てに投稿したいものと思っていたのに
(かなりの長文を途中まで書いてたところでした)、どうも私の方の都合でタイミングを失ってしまい、
そのまま擦れ違い状態でした...。
そりゃ〜確かに神通というのは目的ではありませんが、
しかし、完成された如来であれば必ず六神通の幾つかを発揮することができます。
そもそも輪廻の真理そのものが超常的な天眼で確認しなければ分からないことであって、
ゴータマは、この業に拠る転生の事実についてはバラモンの受け売りなどではなくて、
自らが確認した上でそのことを語ったものだと明言しています。
仏教は自ら体験していく道ですから。
神通はあくまでも目的ではなくて、解脱の過程において付随して自然と身に付いていくものです。
そして、普段はこれを無作為に使用することは厳しく戒められているのです。
スシーマという方は、最初から神通修得が目的で教団サンガに接触してきた人です。
無いものは無いで断固として通せば、相手は止む得ず諦めて去っていく...というのが道理です。
ゴータマはそういう人間には、決して神通の事実については明かされることがないということ。
あなたはアートマンを肯定しているにも関わらず、
まるで何か唯物論者であるかのような発言をすることは矛盾していませんか?
アートマンとはそもそも物質現象界を超越したもののことですよ。
だから最初から、現象界を超えた領域へと達しなければアートマンを見出される筈ずがない。
だから五蘊の中にはアートマンが確認されなくて当たり前です。
それには修行が必要なのです。そして、経験した者にだけそれがそれとして分かるのです。 >>66
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。
栄進師匠へ
ありました↓これでつね?
ttp://expertizing30.rssing.com/chan-15834669/latest.php
第17章
神変を体得しましたか?
そのようなことはありません
そういったものを否定するのではなく
そういったものに関する「想い」や「見解」から解き放たれた境地が
ブッタの悟りであり、輪廻からの解脱である…
_ _ _
栄進師匠へ
それでは↓このように訂正させて頂きます
栄進師匠にとっては、どうなのか?わからないけど
おじゃるにとっては
最終的には
縁起している世界を手放して超えているのなら
ということで
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
栄進師匠の場合は
世界観を一変させるほどの
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)とかを
否定するかもしれないけど
基本的には?やはり
>経験した者に分かる
というような対機説法の方が
おじゃるにとっては、わかりやすいでつ
ダルマキールティ(唯識派)
光が輝く
輝くこと(照明)を本性とする
(仮設としての)
自己自身を照らす
智慧と慈悲をもって自己を認識する
智慧と慈悲は光の如く
照明することを本性とし
他に依存することなく
自ら輝き現われる
照明するものと照明されるもの
(照らす側 − 照らされる側)
パオ・セヤドー(上座部)
智慧と慈悲の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます
おじゃるにとっては
『体を包む、智慧と慈悲の光がある』
というような対機説法の方が、わかりやすいでつ >>105
ダルマキールティの智慧と慈悲はプルシャと変わらなくなってしまっている
本来智慧や慈悲は生まれ育むもので最初から完成されている常住無為のプルシャとは違う
>ダルマキールティの智慧と慈悲はプルシャと変わらなくなってしまっている
それゆえに?
(瑜伽行唯識ではなくて)
瑜伽行中観派の
カマラシーラとかに論破される
というよな対機説法であるらしいでつ
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf 参照 ヨロ
_ _ _
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって
>智慧や慈悲は生まれ育むもの
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
無住処涅槃をもって
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
というような感じでつね?
間違ってたら スマソ m(_ _)m >>102
いや、私の悪い性癖でして天邪鬼なんです。
おじゃる殿とかが神通力がある!と言えば、ついつい反発したくなるんです。
そもそも仏典が矛盾してまして、神通力やアートマンとか人智を超えた概念を否定もしてれば肯定もしてる。
だから議論になり論争になる。
仏教の究極の目標である悟り解脱とは、あらゆる見解を捨てることでしょう。
神秘的な何か、輪廻とかアートマンなどの想いから解き放たれること。
それは、何も神通力やアートマンや輪廻を否定するという意味ではない。
むしろ仏教はそれらを積極的に受け入れております。
だから仏教は、何でもありなんですよ。
なぜ、仏教はこれほどまでに寛容、悪く言えば支離滅裂で混沌としているのか。
要するに釈迦は誰とも対立し争いたくなかった。
論争することは苦しみですから。
あらゆる見解を捨てるってことは、逆説的に言えば捨てるという見解も捨てる、あらゆる見解を受け入れることですから^^
>常住無為のプルシャ
無為法と同義のような感じもするけど
無為法の場合は
常住である。というような『想い』でもないので
それゆえに
無為法とプルシャは同義ではない
ということに、なるかもしれないでつね
_ _ _
>おじゃる殿とかが神通力がある
「ある」と断定しているのではなくて
おじゃるにとっては
上座部 2.0のような
対機説法の方が、わかりやすい
という意味でつ
>捨てるという見解も捨てる
(おじゃるにとっては)
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して
その結果としての無住処涅槃 >>108
すみませんが矛盾しているのは、矛盾を感じるその人がただ勝手に混乱してるだけですから。
ブッダの教説には何一つとて矛盾などはありませんよ。矛盾することを説く人などそもそも完成者である如来などではないのです。
神通については、それ目的に近づいてきた人(スシーマのような)に対してだけ「無い」として成済ましただけです。
あと普段は神通の使用については最小限のものとして戒められています。
基本的には、仏典全体をみれば随所において六神通についての明確な解説があるでしょ!
アートマンについてゴータマの採った態度は「無記」なのであって、
要するに、それは在るとも無いとも示さないということです。
なので、「ゴータマは無いと説いた」というだけで、もうそれですでにゴータマの教えからは完全に逸脱しているのです。
ゴータマの態度は無記であり、そして、語られた言葉とは「それらはアートマンには非ず」(非我)というものでした。
それはつまり、「アートマンでないものをアートマンとして見るな」といってるのです。
ならばそれは、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということにもなる。
ただし、そのアートマンはその境地に到達した者だけにしか知ることも語ることもできないものなのです。
その体験を語る世界がヒンドゥーなのです(仏教は語らない)。
私個人はヒンドゥーも学びますが、
まず、だいたい仏教世界において「アートマンはない」とか
「ヒンドゥーは有我だからダメだ」などという人はヒンドゥーをちゃんと知りません。
ほぼ9割以上で、ただ一方だけの偏った話だけを真に受けている人ばかりですから。
論争が起こっている場合には、あなたは一方だけの発言を聞いて判断しますか?
そのようなやり方は平等で正しい判断の得られる態度だといえますか?
いいでしょうか?
仏典中には同一人物としてのブッダからは一つも矛盾は説かれてなどいないということ。
矛盾というのは読み手の問題にしか過ぎません。無知と誤解と偏見がそのすべて理由です。
>あらゆる見解を受け入れる
おじゃるにとっては
最終的には
仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法も手放していく
涅槃
という対機説法がわかりやすいでつ
(最終的には、あらゆる見解をも手放していく)
(おじゃるにとっては)
導かれるためには
とりあえず
「涅槃がある」というような
対機説法の方が、わかりやすい。という意味でつ >>104
俺のネタ本バレちゃった^^
>>105
変性意識状態は経験したよ。
おかげさまで精神障害者2級です^^
栄進師匠の場合は
唯識は苦手かもしれないけど
とりあえず
仮設としての
縁起している世界の中で
無明薫習に依存して
遍計所執性に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
貪・瞋・痴に依存している
>無知と誤解と偏見
という意味でつ
(唯識が、わからないと
遍計所執性の意味も、わからない、かもしれないけど
とりあえず) バービーきていたが、
バービースレ混迷の原因は。
ジャンキーだな。
ジャンキーが基地にゃんを呼び込み、栄進を呼び込み、
自動的におじゃるのレスが増え、因果果がムード寄ってきて、
バービーが激怒という流れだと・・・・笑。
>おじゃるのレスが増え
栄進師匠の相手をしていた
『おじゃるが原因』ということでつね
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
今回の
このスレにおいて
栄進師匠には
栄進師匠の立ち位置があり
おじゃるには
おじゃるの立ち位置があるので
日本語で
現代語訳で
初心者向けに
分かりやすい説明をしても
相手が納得しない場合もある
ということがわかりました
たとえば
栄進師匠 − 宿命通否定
おじゃる − 宿命通肯定
というように
おじゃるは
中観自立のような?立ち位置だけど
それでも、とりあえず
難しくて意味が、わからないけど
ダルマキールティ(唯識派)とか
カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかも
読んで勉強してる
途中なので
勝義一辺倒の勝義房の方々とかは
うっとうしいので
絡んでこないで下さいね
今は勉強してる途中だけど
中観帰謬
瑜伽行中観とかを
体感することができたのなら
絡んできても良いかもしれないけど ヘピーマン何とか言うにゃん🎵
ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`) >>110
スシーマという神通力目的の人間を拒否するために「神通力は無い」と説いたんですか。
それは貴方の勝手な推測、願望ではないでしょうか。
スシーマを拒否するために釈迦が「神通力は無い」と嘘をついたという明確な根拠の提示をお願いします。
・尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
・基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
・もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 >>110
アートマンについてですが、恐縮ですが貴方のレスを師匠に読んでもらい意見を貰いました。
以下お返事。
それはまだアートマンを知らない者なのじゃ。 (注、宝珠さんのことだと思われます)
アートマンこそ非ずとしてのみ現される法なのじゃ。
お釈迦様はそれを知ってアートマンの法を正しく説いたのじゃ。
以上であります。
何か反論、ご意見があればよろしくお願いします。た 仏典の中には、いわゆる「神通力」「超常現象」などの『超常的、神秘的事例』
の記述が数多く見られる。 例えば、
「六神通」「仏の三十二相」「誕生譚」 もそうだし、死亡時の大地震もそう。
また、バラモン三兄弟の絡みで、釈迦が
聖火堂で龍を調伏した話、それから、舎衛城の神変、ジャータカもたいがいだしw
法華経に至っては、それこそ神秘的事例でないものを探す方が難しいww
では、本当に2500年前の釈迦という人物は上記のような現象を起こしたのでしょうか?
仏教という一宗教の範疇を飛び越して、普遍的現象としてその是非を問うならば、答えは
NO と言わざるを得ません。(勿論、「信仰」はまた別の話です)
人間は、空を自由に飛び回れません。 火も吹けません。生まれてすぐ話せません。
舌が伸びたりもしないし、しゃべるウサギもいません。
・・・・・そのような現象は観測確認されていませんし、また生物学上、人間にそのような
機能が備わっていないことも判明しています。 もし、そのようなことを認めるのであれば
釈迦を 空想上のスーパーマンとして 扱わなければいけなくなります。
(事実、大乗の世界では、釈迦をそのような存在として扱っている宗派もありますが)
信仰の世界の枠を超えて、それを事実認識するのであれば、それはもう、いわゆる「オカルト」
の話です。 問題はここからですw
⇒『では、なぜそのような話が仏典に記述されているのか?』
昔の人が、上記のような現象を実際に目撃した・・・・なんてのは考えられません。
しかし、記述はある。 それは何故か?・・・ということです。
最もよく言われるのは、いわゆる「神格化」というものですね。
後世の仏弟子たちが自己の宗教の開祖に対して期待する神秘性・・・・っていうやつですw
誰でも自分の信仰する宗教の開祖に対しては、それが偉大であるほど望ましいわけであって、
「普通の人間」であっては欲しくないわけです。そういう心情の反映でしょう。
他宗教とのバランス的な問題もあるでしょう。
他宗教の信仰の対象がとんでもなく神秘的で偉大な存在であり、仏教の開祖が、「普通の人間」
ならば、一般民衆に帰依を説く場合でも、カッコがつかないw・・・と。
まあ、中村氏はこういう方向性でみてますね。 また、「在家の価値体系の許容」 という視点もあります。
釈迦は在家の価値体系を決して排斥したりはしませんでした。 勿論、それは出家の価値体系とは
異なるものですが(そのあたりは、ダニヤの章に明らか)、 それはそれとして尊重していたわけです。
ですから、当時、民間で信仰されていた土俗信仰(呪術、占い等)も、許容範囲内であると判断すれば
(パリッタ等)排斥せずに、寧ろ方便として言及することもあったと考えられます。
そのような姿勢が、釈迦の死後、時代を経るにつれて、民間文化との融合が促進され、仏教に混入されて
いった。 密教なども元はインドの土俗信仰の混入であると考えられていますね。いわゆる体系的に整備
されていない雑密と呼ばれるものですが。
奈良氏は、このような側面を重視しているみたいです。
また、「人間というものは何かを信仰するとき、必ず拝む対象を欲するものだ。」という意見があります。(渡邊氏)
まことに尤もな意見であり、仏教ではそれが仏像製作へと繋がり、舎利信仰もその一種でしょう。
釈迦は大変賢い人だったので、世俗においてはそのようなものの必要性も理解したうえで仏塔の製作を指示
したのだと思います。
そのような信仰の対象となる具象化物が、次第に神秘性を帯び、それ自体が何やら有り難いもので、
超常現象の卸元となっていく。
日本全国にある「〜地蔵」「〜観音」などがその好例でしょう。
(例えば、刺抜き地蔵、洗い観音など)
仏典における超常事例の記述は、以上のようなことが起因となり、さらには仏典編集者の志向、信仰、信念、願望
また当時の時代背景なども影響し、 実に様々な要因が重なり合って現在のような形が形成されていったものと
思われます。 >>110
あと私のアートマン観ですが^^
「それらはアートマンには非ず」
、、、、これは違うと思います。
言い換えれば
「それらは非ずだからアートマン」です。
「五蘊はアートマンに非ず」ではないのです。
「五蘊は非ずだからアートマン」です。
つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^ 123.それは心理学である。それでは宗教とならない。 >>124
非らず、非らず、とは「認識できるものはアートマンには非らず」という意味。
アートマンは常に見る側(主体)だから見られる側(客体)になることはない。
アートマンを見たとか捉えたと思ったらアートマンが見られる側、つまり客体になってしまうのでその瞬間それはアートマンではないことが証明される。
だからアートマンは捉えることができない。
捉えられないから。
壊れることがない。
壊されないからこだわりがない。
こだわらないから、つながれず、動揺せず、損なわれない。
五蘊は捉えられるものであり、無常で壊れるものであるのでアートマンではない。
五蘊のような認識の客体になるものはアートマンに非らず、そういうこと。 スーシマ経は有部の雑阿含経にも有部から別れたとされる分別説部の相応部にも載っている経典だが、
この経典の成立はやや後期に属すると思われる(増谷文雄)とのこと。
>>124 栄進師匠へ
仮設としての
縁起している世界の中の
無明薫習に依存して
貪・瞋・痴に依存している
>一切の存在は非ずでありアートマンである
リンクの貼り憑け願います
論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします ヨロ m(_ _)m
ウィキペディアの
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
これを見ると
仮設としての世界ではない
縁起している世界ではない
有為法している世界ではない
無明薫習している世界ではない
というような文脈のような気がしますが
栄進師匠としては
無明薫習に依存している
>一切の存在は非ずでありアートマンである
というような執着でつか?
>>121 パーピマン殿へ
大変、失礼いたしました スマソ m(_ _)m
ということで、とりあえず
>勿論、「信仰」はまた別の話です
おじゃるは
どこの宗教団体にも所属してないけど
それでも
「そのようなこともあるかもしれない」と妄想(信仰?)しちょりまつ
たとえば
波動関数(wave function)
「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので
それゆえに
我々が住む日常世界の他に全く異なる
並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ
ttp://www.nikkei-science.com/page/magazine/0311/hologram.html
ホログラフィック宇宙
3次元のように見える私たちの宇宙は
2次元境界面について定義された
今までの古典力学とは
別の物理法則によって記述できる
(たぶん量子力学とか?)
_ _ _
というのと同じように
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
↓というような感じ?
ttp://tocana.jp/2017/07/post_13673_entry.html
宇宙に意識はあるのか? 2017.07.03
科学者が議論
「宇宙には原意識クラウドが存在し、人間も接続されてる」
_ _ _
元始からの
すべての事象、想念、感情が
記録されているという世界記憶の
アカシックレコード(Akashic Records)みたいな感じ? 伽藍は腹毛のことだと勘違いされているようだが、元々そんなことはなく、英語の造語
おそらく同性愛者宿泊施設を運営するキリスト系団体の陰謀 誰でもできる在宅ワーク儲かる方法
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KI1
>>124 栄進師匠へ
創めに神が天と地を造った
神は云った。「光あれ」。すると光が出来た
という旧約聖書とかに依って立っている
カトリック司祭の
ジョルジュ=アンリ・ルメートルとかの
膨張宇宙論
ビッグバン理論という仮説も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教の信仰のようなものに依って立っている
(科学信仰のようなもの?に依って立っている)
栄進師匠は
なぜ 『 超えたもの 』 に反発するのか?
その理由を ヨロ m(_ _)m >>126
ググッてたらこんな解説のサイトがあったので丸写し^^
「インド哲学七つの難問」宮元啓一
【第3難問】本当の「自己」とは何か?
インド哲学で自己の議論を樹立したのはヤージュニャヴァルキヤだった。
紀元前700年前後の哲人で、ウッダーラカ・アルーニの弟子としてウパニシャッドを代表するともくされている。
ヤージュニャヴァルキヤは、世界がすべてアートマン(真我)にほかならず、そのアートマンが認識主体になりうる唯一のものだとみなしつつ、しかし認識対象にはなりえないとみなした。
では、アートマンは自己反映できないのかといえば、そうなのだ。
アートマンは把握することも表現することもできない。
それならアートマンを確認するには、「Aはアートマンではない、Bはアートマンではない、Nはアートマンではない」というふうに。
どうするかといえば、「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)というふうにしか言いようがない。
ヤージュニャヴァルキヤは、そう説いた。
これははっきりいえば「自己は知りえない」ということである。
生きるものが生きる器の中にあることを器世間というが、アートマンはその器世間に内属してはいるだろうが、その全体を器世間という環境たらしめているものそのものであるからだ。
アートマンによる自己認識は不可能だという説である。
仏教では心身にもたらされる作用のことを、まとめて五蘊(ごうん)という。
「蘊」とは集まりのこと、センシング・クラスターのことだ。
色蘊(色や形の集まり)、受蘊(感知する作用の集まり)、想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起するものの集まり)、識蘊(判断作用の集まり)の五つをいう。
ブッダは五蘊いずれもが常住の自己ではないと説き、それゆえこうした頼りにならないものを錯誤して心身活動の根拠にしてはいけないと戒めた。
これを「五蘊非我説」という。五蘊には我(自己)がない、非我であるという説だ。
宮元は、ここにはヤージュニャヴァルキヤの哲学を正統に継承できているものがあると見る。
https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>128
>>134を見よ^^
>>133
アートマンや創造主神などは、人間の認識を超えたものです。
反発も否定もしてません。
それらは我々に認識できない、諦めましょう。
そんなもんより目の前の苦しみを何とかするのが悟りなのかも^^ >>123
パーピマンへ
これも某サイトの丸写しですが、ご一読を^^
【第1難問】ことばには世界を創る力があるのか?
この問いは、言葉は真実を表明できるのかという問いである。
インド哲学は言葉が世界を創ると確信する。それが大前提だ。
だから言葉は真実(サッティヤ)をあらわせる。そう、考えた。
言葉には世界を創る力があるばかりか、根本的な真実(サッティヤ)をつくる力があるとみなされたのだ。
サッティヤはそれこそ「必ずその通りにものごとを実現する力をもつもの」という意味だ。
言霊っぽい。
ふつうは、言葉なんてしごく感覚的なことで、心や真実をあらわしているとは思わない。
なぜなら言葉で嘘もつけるし、まちがったことも言えるからだ。
人や時代や土地柄によって言葉づかいもちがうし、いつも言葉が同じ意味で使われているとも思えない。
これがふつうの常識だ。
しかし、インド哲学はそう見ない。
もともとヴェーダのマントラから世界が生まれ、言葉はブラフマン(宇宙原理)でもあったのだから、言語力こそがあらゆる力の源泉なのである。
印哲では、なんだって言語力で説明がついたのだ。
それゆえ「その通りにものごとを実現する」には、たとえばサッティヤはカーマ(願望)と連合するほうに動いて願いを叶える気分をつくり、
ヴァチャナ(語句)と連合すればその気分が詩歌に至り、
そのヴァチャナをヴラタ(誓約・約束)と連動させれば、人生での約束事を保証していくというふうになるとみなされた。
いっときぼくが夢中になった5世紀の言語哲人バルトリハリは、言葉(語)そのものがブラフマンだとみなしたほどだ。
というわけで、第1難問については、「言葉には世界を創る力があった」のである。
https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) この(ダンマパダの)三つの詩句の初めの部分
「一切行(形成されたもの、有為法)無常」
「一切行(形成されたもの、有為法」苦」
「一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」
はいわゆる「法決定」といわれるものです。
テーラワーダの世界観においては
この三つが事物に備わる自性(それそのものが持っている性質)であり、
これがブッダの発見した自然の「真理」ということになります。
http://lllool.hatenablog.com/entry/2016/10/12/224622 ヨガのブラフマンやアートマンはニルバーナか?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/04/050000
だから、おもしろいことに、ウパニシャッド哲学に書いてありますよ。
ウパニシャッド哲学はお釈迦様の時期に出始めました。かなりお釈迦様の影響もあったみたいね。
三つくらい、お釈迦様の時代に生まれました。当時、本はなかったから、テキストとして残ってはいません。
お釈迦様が、「これが自我ですか? いえ、これは自我にならない」「これが自我? 自我にならない」と調べて、調べて、これ以上何もない。
ということは、自我がないということでしょう。
そう結論付けたところで、ウパニシャッドでは、同じく「これは自我じゃない。これも自我じゃない。別なものです」
「別なものです」と、どうやって決める?
そこが間違いなんです。ほんの微妙なところ。
だって、自我がある、と言う前提だから。
「これは自我ではありません。自我ではないんだけど、自我は別なところになる」「手は? 手は自我じゃないんだけど、自我は別のところにある」
そういうことだから、その方法では、初めから終わりまで間違えてしまいます。
だから、(ニルバーナとブラフマン・アートマンは)全く似ていないんですよ。
修行だったら、人間が考えるところだから似ているところはありますよ。
略
仏教になってくると、バイアスゼロの世界です。
自分が、ハチャメチャバイアスの世界で生きている自分が、バイアスゼロで真理を見る。
ありのままに見るとはそういうことなんです。
ヒンドゥー教はありのままに見ていないでしょう。あってほしいままにみているでしょう。アートマンとブラフマンで。 >>123
パーピマンへ、何が言いたいのかと申しますとですね。
仏典に出てくる誇大妄想的エピソードは、インド人には「真実」なんです^^
言葉が世界を作るんですから、我々から嘘に見えても彼らには現実の世界なんです。
またメタな話になりますが、そもそも現実とは何かですよね。
仏教では、一切が空なんでしょ?
現実も空、妄想も空。
つまり現実は妄想で、妄想は現実です。
なのに、パーピマンは鬼の首を取ったかのように、仏典の妄想部分を挙げつらっておかしいと指摘しますが。
おかしいのは、パーピマンさまあなたの方です^^
仏教を本当に理解されてるのなら、そのような指摘こそがおかしいとなるんですが。
私の方がおかしいのでしょうか^^ >私の方がおかしいのでしょうか^^
wwwwwwwwww
そうですw >>140
うるせー^^
そうだよ、その通りだよ。
クスリ飲んで寝る。
>>141 栄進師匠へ
ヒンドゥー(バラモン)とか?
サーンキヤとかの場合は
プルシャからの → プラクリティなので
ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
インド哲学 七つの難問 宮元啓一
…
ヤージュニャヴァルキヤは
世界がすべてアートマン(真我)にほかならず
そのアートマンが認識主体になりうる
唯一のものだとみなしつつ
しかし認識対象にはなりえないとみなした
_ _ _
「…である」と定義することはできないという
「…である」ものではない
真我のようなものからの → 縁起している世界すべて一切の諸々
という意味で
>超えたものです
>反発も否定もしてません
>苦しみを何とかするのが悟り
苦集滅するための方法は? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>142
>苦集滅するための方法は?
常識的に答えれば八正道とかじゃないの。
ウィキに書いてあった^^ 143.八正道、か。
それは心理学である。
それは宗教ではない。
>>138
ID:55+rNLUO師匠は
大乗否定かもしれないけど
真如縁起そして
頼耶縁起というような文脈においては
プルシャからの → プラクリティというサーンキヤと
大円鏡智からの → 阿頼耶識という唯識は
対機説法として似たような文脈があります
それゆえに
ダルマキールティ(唯識派)とかは
カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかに論破される
というような対機説法になっているらしいでつ
おじゃるの立ち位置は
仮設としての
有相唯識も肯定でつ
一応、念の為 せめて、臨床心理学とか認知行動療法とかにでもしておけば、一目置けたものを・・・w
>>112 >精神障害者2級
栄進師匠は
心理療法の
認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT)
とかはしてないんでつか?
_ _ _
おじゃるは
心理療法の
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
これを実践しちょりまつ
ヴィパッサナみたいな感じ? >>140
確かにヘピーマンはおかしいぞ!
ヘピーマンの文句はパーピーマン
に言え! >>120
あなたの師匠が誰かは分かりませんが、
もしも鬼和尚のことであれば、一言いってだけおきます。
たまにはあのスレを覗きますが(本人のサイトも読んだことはあります)、
私からはあの方の発言はすべて理解してるつもりです。
そして、とても高く評価しており(2ch投稿者で過去トップレベル)、これまで異論という異論も特にありません。
ただし、鬼和尚の方からはこの私の(いう)ことはよく分からないのではありませんか?
ただ切り取った一部だけでは分からないと思いますが。
そして、もちろんこの私は(非体験者なので)アートマンを知りませんが、
アートマンについての記述上の理解ならばあるつもりです。
私は仏教以外では、神智学、ラマナ・マハルシ、ヨガナンダ、ラーマ・クリシュナの教えを学んできています。
所持して主に読む聖典は、『バガヴァッド・ギーター』『ウパデーシャ サーハスリー』『ヨーガスートラ』などです。 >>119
あのですね...
ただ「無い」と書いてあったからない?って...。
だから、そういう読み方は国語の破壊でしょうと?
あなた自身が師匠ならば、ただ超能力が欲しいといった不純な目的の人間などに弟子としての深遠な法燈を伝授しますか?
弟子たちにも神通の使用は厳しく制限して戒めているというのにですよ...
再度、スシーマという人間の教団接近の目的を仏典上から確認してみましたか?
無いと書いてあったその一つの経文にだけその意味すらも解さずに固執して、
それ以外の百万倍もの経典中に説かれている神通についての明快な解説の事実を無視する態度が道理に適ったものですか?
あとで、私の方も仏典から抽出したいと思います。
少し時間貰います。 >>124
>つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^
“非ずだからアートマン。つまり、すべてがアートマンということ。”
それは結局、ヒンドゥー的なアドヴァイタ論でしょう。
つまり完成者は、唯アートマンであったという自覚に目覚めてすべてのマーヤが消散すると説くのです。
私個人はヒンドゥーも仏教も最終的には同一の境地(ゴール)に到達すると見ているので、
私にはその意味は理解できますが、けれども仏教ではそういう説き方はしないということをいってる。
そもそもゴータマの教説というのは二元論的な世俗諦なのであって、なのでそういった勝義諦は説かない。
では、あなたのいってるような教説はいったい仏典の何処にあるというのですか?
仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。
仏教には、
「アートマンが在る」という言い方はないのです。
あなたの、「アートマンは非ずとしてしか表現できない」まではイイです。
しかし、これを以てしてゴータマの非ずの教えは「アートマンを説いたことになる」は不可。
言えることというのはこれだけなのです。つまり、
決して、アートマンを否定したことにはならない。アートマンを否定などはしていない、と。
ただ、五蘊の中にはアートマンを見出すことはできないということだけです。
ならば、それは要するに、五蘊外にアートマンが見出されればいいことになる...。 ゴータマの説いたものは、
あくまでも非我(それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと語るなかれ)であって、
その採った態度は無記といものでした。
無記とは。そして、無記の態度を採ったその理由とは...。
『ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはないのですか
(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、常住
論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反
問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じるのに順じるだ
ろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA me nUna pubbe
attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。』
(サンユッタ・ニカーヤ.44 第10 経)
無いものはどうしょうもないので、本当に無いのならば、ただ「無い」といえば済むことです。
しかし、そうしなかったのは唯物論と勘違いする者がでるから「無い」などといわないということ。
そして、「在る」と言わなかったのは、誤解を起こしているバラモンたちと混同されたくなかったからです。 >>148
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。 >>152
だからw
「ある」と言っていないものを「ある」と改竄してしまうこと
への罪を、君は感じないのかい?w 追記するなら、
(弟子たちの伝聞・聞き書きからしか判断するしかないわけだが)、
その文脈の中で、 ≪「ある」という読み解き≫ と ≪「ない」という読み解き≫ と、
どちらの文脈に、「正当」性を見出せるか? ということに尽きる。
その担保が、全て仏教外(=外道)に依らねばならないなら、
それはもう仏教ではない。
『達磨以降の禅宗を、正統仏教とする方が遥かにマシ』かもなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そして、弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。 >>153
【忠告】圧倒的な仏格違いを知れ!
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>151
>仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
>尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
>仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
>一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
>アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
>ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。
一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
どこにも我(アートマン)は存在しません いやぁ、スターウォーズ1stはよく出来とるねぇ・・
(勿論、あの時代ならではの(技術不足の)相乗効果を差し引いたとしても)
>ゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなる
[ キリスト 実在 ] で検索すると
キリストは実在したのか?というような文脈が出て来ますね
_ _ _
そして [ 大乗非仏 ] で検索すると
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものであることが明らかとなっている
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
(意図的に?)編纂されたものなら
釈迦も架空の作り話だったのか?となる場合もあるかも?
_ _ _
聖徳太子虚構説
従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである
聖徳太子も架空の作り話だったのか? ここのスレを読んでいると、
大まかにすると、魂が有るのか無いのかになるんじゃないの?
釈迦は魂が有ると説いたのか、無いと説いたのか。
真我を魂と定義してみれば、わかりやすいかもね。
感想ね、間違っていたらごめんなさい。 >>154
誰も(私は)、
ブッダは「アートマンが在ると説いた」などとはいってないでしょ。
仏典から確認できる言葉とは、「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」です。
『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5)
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
(Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)
私が主張しているのは、
ブッダは「無い」などとは説いてないのに勝手に無いということにして、
ヒンドゥーなどを有我論として見下すのを止めなさいということです。
ブッダの態度は無記ですから。
そして、アートマンについては否定していないから、実際上は在っても問題にはならないといってるだけ。
勝手に「無い」と説いたなどと改竄しているのはあなた方です。
それを仏典の記述から見出すことはできませんから。
勝手に解釈として(誤解して)「無い」と弟子が言い出しただけですから。
>>155
>弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
>そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。
別に全部を疑うわけではないし、その必要はないです。
仏典上、アートマンが無いという教えではないのに勝手にそう誤読したのは部派からであるといってる。
そのことを近代仏教学は指摘してるのです。
仏教学は仏典を研究してる。経典の記述を読むのですよ。
しかし、現存するテーラワーダ(長老たち)というのは部派の生き残りであって、
彼らは仏典の記述を無視して口伝を信奉してる。そう、部派からの間違った口伝を二千年間も忠実に...。
しかし、それは仏典の記述とは矛盾しているのであり、仏典に反するならばそれは仏教ではないでしょう、と。 >>157
>一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
>どこにも我(アートマン)は存在しません
いやだから、
その一切の中へ勝手に無為法をも含めたのは部派のアビダンマであるといってるのです。
これは原始仏典上では確認されないことであって、つまり、まったくの間違いなのです。
『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異
なったものになった。(p151)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) >>161
いえ.違います。
仏教上、輪廻主体としての「魂」については認められています。
これをブッダは「識」として説かれてました。ただし、それはアートマンではないということ。
では、アートマンは無いと説いたのかということ、そうではなくて、決して無いなどとはいってないのです。
しかし、このスレ上でこの二つの違いすらも分からない無知な者たちが、
ただ勝手に魂もアートマンもごちゃ混ぜに味噌も糞も一緒にして、それらすべてが無いと説くのが仏教なんだと主張しているのです。
この主張には伝統テーラワーダの一部と、唯物主義者の二グループが参加しています。
私は仏典の記述から、この二グループの主張は間違いだとしています。 >>156
ん? 誰と誰の格が違うと?
どうせ議論にまともについてはこれないのでしょう。
だから、「消えなさい!」といってる。
ここは参加人数を求めてない。
あなたは、二度と来なくていいですから(これが最終警告です)。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています