>>650
>水野氏の解説は上記と

別に宝珠の肩を持つわけではないが、
心的作用・意識作用(特に「意図のあるもの、意欲的に方向性を持ったもの」)は、
「意manas」であり「行であり、「心による行為(→業)」である、と見做せるならば、
広く「心citta」と括った場合、そこには「意」としての働きも「識(認識)」としての働きも含まれざるを得ないのでは?
その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。

勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、
最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである―
という言い方が妥当かどうか、だが・・・。