>>628-629
貴重な学生時代のテキストの開示をありがとうございます。
とても真面目で熱心に勉強されていたことが伺えてとても嬉しく思いました。

 私の感想と理解としては、ご指摘の通りで確かに「citta」(心)では、自己の究極の本性としての真我(アートマン)を示すものとは
いえないでしょう。けれども、仏典というのは意外と使用するその言葉はかなり広義的で曖昧だったりもします。第一、仏典では自己
(わたし)を意味する言葉そのものが、すべて「アートマン」なんですから。
 原語はパーリ語でアッタン(attan)、サンスクリット語ではアートマン(ãtman)ですが、幅広い自己の状態を示す明確な使い分けがな
く何でもアートマンです。日常の会話で使用されるごく普通の意味合いでの仮和合的自己もアートマン、形而上学的な意味合いの自己
でも、ウパニシャッドの究極的存在でもアートマン。
 だから、仏典に出てくるアートマンについては、それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ
ならないのです。私はそのことを、セブンと対話を始めたばかりの9年以上も前にそのことを指摘しましたよね。けれども当時のセブ
ンはそのことをあまり取り合わないようでした。「アートマンなどある筈がない」という決め付け理解のあなたにとっては、さして重要
なこととは見なされなかったのでしょう...。
 しかし、これは非常に重要なことですから。でないとそれが、日常の自己の否定なのか? またはどのアートマンを否定し、或いは肯
定しているのかも何も見えなくなるからです。